“The ownership of English”

どうもみなさんこんばんは。ブログお引越し記念特別企画!というわけで、というか別に特別ということもないですけれどもSummer term Bで受講していた授業で以下2本の論文を読んでプレゼンしたのでまとめておこうと思います。

•Matsuda, A. (2003). The Ownership of English in Japanese Secondary Schools. World Englishes, 22(4), 483-496. doi:10.1111/j.1467-971X.2003.00314.x

•Saito, A., & Hatoss, A. (2011). Does the ownership rest with us? global english and the native speaker ideal among japanese high school students. International Journal of Pedagogies & Learning, 6(2), 108-125.

授業の課題で決められた以下のトピックに関連する論文探してレビューしなさいとのことだったのでまず1本目の論文を読みました。

  • Language, cognition and culture
  • Gender differences in language use
  • The effects of socio-economic status on language use
  • Bilingualism/Bilingual education
  • Cultural discourse norms
  • Style, context and register
  • Politeness conventions
  • Non-standard varieties of English
  • World Englishes
  • The interaction of any of the above (e.g., culture, gender, and politeness)
  • Other relevant topic (with approval from the instructor)

上記の論文を選んだ理由はやっぱり日本関連の論文が読みたかったからですね。それで探してたらちょうど面白そうなのがあったので。内容は、非英語母語話者にとって英語という言語は、英語母国語話者とのコミュニケーション手段としてよりもむしろ非英語母国語話者間での使用が主であるという現状や、”English as an International language (EIL)”という考え方にもあるように、英語という言語はもはや英語母国語話者のものではなく、非英語母国語話者がこれからは英語のあり方を決めていくべきだというような流れを冒頭で紹介し、ブラジル人英語学習者を対象にしたFriedrich (2000)の研究に触れながら、研究者の間で盛んに議論が行われるこのEILという考え方は浸透してはいないのではないか、学習者は英米以外の英語の”variety”についての認識を欠いているのではないかという仮説に基づき、日本の高校生の英語や英語話者に対する認識・態度を質問紙とインタビューを用いて明らかにしようというものです。この論文で紹介されているケーススタディは、Matsuda (2000)という未出版博論が元で、そちらがより詳しいようです。

ケーススタディが行われたのは、東京にある私立高校で、対象は高校3年生の1クラス34人でうち33人が参加に同意し最終的に31名分のデータを分析しています。一人オーストラリア生まれの生徒を除き全員が日本生まれで日本語が母語。英語学習歴は6-13年で大多数が中学から英語学習をスタートしています。特徴的なのは、生徒の海外経験です。5名の生徒を除き、旅行、あるいは親の仕事の都合での海外滞在等なんらかのかたちで海外に行った経験があります。著者はこれを、私立学校に子どもを通わせることのできる裕福な家庭出身者が多いためであろうと推測しています。

また、この学校には希望者向けに短期(数週間)と長期(1年)の交換留学プログラムがあり、フランス、ドイツ、オーストラリア、アメリカの学校と提携を結んでいます。この交換留学プログラムで、上記の国からも生徒が来て日本の生徒と勉強しているそうですが、短期プログラムで来日する生徒は日本の生徒たちとは別に独自のカリキュラムで言語や文化を学習するため、学校に留学生は通年在籍しているものの、日本の高校生と留学生との交流はむしろ限られていると筆者は述べています。

データ収集に用いられたのは、質問紙、ペアor個人インタビュー(質問紙を用いて10名が選ばれた)、さらに英語の授業だけでなく他教科の授業や、それ以外での生徒の発話を観察し、英語の使用や英語(あるいは英語話者)に関する談話を記録したようです。また、生徒の服装や持ち物等、生徒の英語や英語話者に対する態度を反映しているかもしれないものも観察しています。加えて、英語教師4人にも、英語、英語話者、英語教育についてのインタビューを行なっています。ただし、この論文では主に質問紙とインタビューのデータに基づいた分析がされています。

結果として、半数近くの生徒が、アジア圏の人とのコミュニケーションにも英語を使うと答え、インタビューでも英語力が大事であるという認識の生徒が多いこと、またその理由の多くがコミュニケーションツールとしての英語の側面に価値を見出しているということから、生徒は「国際語としての英語」を認識し、その英語を学ぶ価値があるという認識があると著者は分析しています。

しかしながら、「英語話者の定義」について尋ねられると、「北米と欧州(主に英)」という2つがもっとも多かったのに対し、他のアジアやオセアニア諸国への言及は少なく、中南米やアフリカの国々への言及はインタビューを通して一度もなかったということが報告されています。

このことから、著者は生徒たちは英語が国際的に話されているということは認識しているにも関わらず、いわゆる欧米支配的な考え方ももっているのではないかと述べています。この原因として、著者は英語の授業で使われる教材や、あるいは教師の指導が挙げられる可能性を示唆しています。このあたりに関しては、Matsuda (2002)が詳しいようです。

また、生徒たちは英語の”variety”に対する認識が低いことがわかりました。71%の生徒が、自分たちはアメリカ英語を学校で習っているということを認識しているにも関わらず、インタビューではイギリス英語との違いがわかっていない生徒がいました。またシンガポール英語やインド英語といったいわゆる”outer circle variety”と呼ばれるものと英米の英語の違いについても認識が曖昧で、にもかかわらず”I want to pronounce English as Americans or British people do”という項目には84%の生徒が(同意・つよく同意)と回答するなど、ここでも英米偏重の傾向が見られました(p.409)。対照的に、”I am interested in English of Singapore and India”という項目には半数以上の生徒が(不同意・つよく不同意)と答え、生徒たちは英語が第二言語として用いられている国の英語に対する興味関心がうすいと著者は主張します。

次に、(英語の一種としての)ジャパニーズ・イングリッシュについてです。生徒たちは、日本語に外来語(”loanwords”)が入ってくることや、英語から作られた日本語独特の表現(例:サラリーマンなど。本文中では”Japanese-made English”と表記されています)が「日本語」として使われることには肯定的な態度を示しているにも関わらず、サラリーマンなどの言葉が「英語として」使われることには否定的で、半数近くの生徒はそれらは英語ではないために英語を話したり書いたりするときには使うべきでないと考えているということがアンケートからわかりました。また、アクセントがあるということは自然なことでありそれ自体は悪くないと考える生徒や、ジャパニーズ・イングリッシュが受け入れられるべきであるという生徒がいる一方で、ジャパニーズ・イングリッシュは”intelligible”ではないと考える生徒がアンケートでは半数近くにのぼりました(p.492)。筆者は、抽象的な概念レベルではジャパニーズ・イングリッシュは認められるべきであり、アクセントなどは避けられないものであると考えている一方で、個人のレベルではアクセントはないほうがいいと考えており、日本人英語は話されるべきではないと生徒たちは考えていると著者はまとめています。

結論として、英米以外の英語の種類に気づかせたり、親しみをもたせるような働きかけが必要であるということを述べています。外国語として英語を学習する日本の生徒たちにとっては、学校の英語教育が生徒の英語に対する認識や態度の形成に非常に重要な役割を担っているため、現場の教員だけでなく行政や学者も含め、教材の選定や指導方法の選択には慎重になるべきであり、そうした働きかけが生徒の複言語主義に対する理解を深めるとも著者は主張しています。

具体的な方策として、授業内で多様な英語に触れさせることを提案しています。著者は、アメリカ英語が指導のモデルとして用いられている現状については合理的であるという認識を示しつつも、”It is simply one variety―not the only variety―of English” (p.494)と述べています。また、多様な英語に触れることで、自分たちの英語、つまりジャパニーズ・イングリッシュについての否定的な態度を軽減させるかもしれないとし、さらにこう続けます。

The understanding of different varieties is also a prerequisite for developing critical awareness of and resistance to linguistic imperialism and the power inequality that may exist in international communication (p. 494).

 

具体的な方法の2つ目として、この事例研究において、海外経験や限られていたとはいえ留学生との交流等が、英語の多様性に対する認識に影響がなさそうであるということが明らかになったものの、特に欧米以外の人々との交流をもっと増やすべきであると著者は主張しています。高額の修学旅行だけが手段ではなく、メールのやりとりや移民コミュニティとの交流、インターナショナルスクールとのコラボなどが、”eye-opening”な経験になるという記述もあります。

同時に、英語の授業の目標がコミュニケーション能力の育成であるのであれば、文法や発音の正確性よりもコミュニケーションが効果的に行われたかという点を評価するのが適切ではないかということも述られており、上記のような解決策は現場の教員だけではなく、国、地域、学校レベルでの改革が必要であり、各関係者の協力なしには達成し得ないということが付け加えられています。

以下本文中で用いた文献はこの論文中で引用されていたものであり僕は直接参照していませんが参考までに。

Friedrich, Patricia. (2000). English in Brazil: functions and attitudes. World Englishes, 19(2), 215-213.

Matsuda, Aya. (2000). Japanese attitudes toward English: A case study of high school students. Unpublished PhD dissertation, Department of English, Purdue University.

Matsuda, Aya. (2002). Representation of Users and Uses of English in Beginning Japanese EFL Textbooks. JALT Journal, 24(2), 182-200. Retrieved from: http://jalt-publications.org/jj/issues/2002-11_24.2

コメント

このケーススタディは、なんとなく著者の主張に沿うように進められていっているような気もしないではないのですが、まあでも結果は割りと妥当な感じですね。学校の設定や生徒のバックグラウンドなどは、「日本の高校生」として一般化するのは難しいと思います。しかしながら、筆者の主張的には、「比較的に上位校で交換留学プログラムがあり海外旅行や海外在住経験がある生徒もいる高校3年生」というサンプルを示すことによって、「上のほうでこれなんだから日本の真ん中をとってきたらこれよりも結果が悪くなりそうなのは自明なんだからやばいですよ」ということを示唆しているのかなという風にも感じ取れました。そうすることで自分の主張の説得力をあげようという意図があるような。考えすぎでしょうか。

個人的に、一応北米に留学している身としてぼんやりと思ったことは、僕がここで経験したことは、あまり生徒に話しすぎるのもよくないのかなということでした。留学にきた一つの大きな理由として、実際に英語圏の国で生活してその経験を教壇に立った時に活かしたいということがありました。理屈では理解し難いような感覚的なこととか、「肌で感じるもの」みたいなことを、指導に取り入れていけたらいいなと。しかしながら考えてみると、そういうことで生徒たちの英米偏重主義的な考え方を助長してしまうのではないかとも考えました。自分の英語はどう考えてもアメリカ英語(の中でも自分は気がついていないですがNHのアクセントがあるのかもしれません)の影響を多分に受けていますし、自分の感覚的規準はアメリカ英語によっているのは間違い無いです。もちろん、英語教師として、また英語学習者のモデルとして、留学の経験が生徒の英語学習に対するモチベーションを高めることにつながる可能性は十分にありますし、どちらかというとそちら方面での効果を期待したいわけですが、逆にいうと「留学行ったんだから」とか「やっぱ海外に行かないと」みたいな考えにさせてしまうこともなきにしもあらずなわけでして(「留学行ってもその程度か」は絶対に避けなくてはなりませんgkbr)。そういったことを考えると、「日本にいながらもここまでできるんだ。」ということを体現している教師のほうが、現実的なモデルとしての英語教師としては適切なのかもしれないということも考えました。留学経験のある先生方がどのように考えていらっしゃるのかはわかりませんが、今現在留学中またはこれから留学に行く、あるいは留学から帰ってきて、そして教員になるという方々には、ぜひともこの点を考えていただきたいなと思います。

長くなりましたが、このMatsuda (2002)の発展的?位置づけというか、より一般化を目指した量的仮説検証的研究である2本目の論文はまた次の記事に書きたいと思います。

では。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。

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“The ownership of English”」への1件のフィードバック

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