“Point to Point”

どうも。前回のSato (2010)の続きです。前半2つがその2010の論文へのレスポンス、その次がそれらのコメントに対する再反論になってます。その後に一応一連の論文を読んでのコメントを書きます。

 

Sybing, R., Urick, S. T., & Sato, R. (2011). Point to Point: Responses to ‘Reconsidering the Effectiveness and Suitability of PPP and TBLT in the Japanese Classroom’. JALT Journal33(1), 67-76.

 

Sybing, R. (2011) A Response to Criticism of TBLT in Japan’s Language Classrooms

  • PPPモデルのメリットに関しては認める。例えばある程度自由度を制限した状況を与えることで不安を軽減する可能性など。また大学入試や資格試験が重要視される日本という環境でのでは適しているかもしれない。
  • 問題は、SatoがTBLTの反対として直接PPPをおいたこと。つまりPPPとTBLTの二分法という考え方はよくない。そのような分け方は理論面実践面双方でなされていない。そしてそれはSatoのアプローチが新しいということを意味するのだが、それは必ずしも理論的であるとはいえない。
  • PPPは望ましい結果を達成するために修正が必要であると容認しながらも、TBLTは日本というEFL環境には適応されえない融通性のない教授法であると批判しているというのがSatoのロジックの誤りである。
“…his argument affords no simmilar concession to TBLT, which, he implies, forbids at all costs both the treatment of grammar strctures and comunication in the native language” (p.68).

 

  • (TBLTを日本に適用する際の問題点として語られている)L1使用の件に関しては例えばL1の使用を認めるTBLTの実践もある(Carless, 2007;Swain, 2000)。
  • どんな教授法でもその最も純粋な形で語学教室で実践的に実現可能であるという考えが甘い。
  • 実践とは、教授法に関して臨機応変であることと、状況に合わせてあらゆるアプローチを教室での使用に落とし込むということを教育者たちに要求している。
  • まずは日本における言語教育のゴールを決めるべきであって、今の状況に合っているかどうかではなく、なんのために言語教育をするのかという観点を考える必要がある。口頭によるコミュニケーションレベルを挙げるということであれば、コミュニケーション能力をあげるための教授法をどうやって適応させるかを考えなくてはいけない。

 

Urick (2011) On Methodology in Japanese Secondary English Classrooms

 

  • Satoが取り上げた第二言語習得のモデルはその分野で主流ではない。
  • 宣言的あるいは明示的知識は必ずしも言語習得の出発点ではないし、SATを提唱したAnderson自身もその考えを軟化させている。
  • 現在は暗示的学習と暗示的知識が、ほとんどのSLA理論に組み込まれてきている
  • 教育目標の問題について触れているが、どの目標が適切であるかについての明確な青写真を提示することに失敗している。
  • 文科省や中等教育教育者たちがまず英語教育界の目標と目的について広く議論をし、共通の認識を共有することが必要。その上で教授法の問題が話し合われるべきではないのか。

 

Sato, R. (2011). A Reply to Responses to “Reconsidering the Effectiveness and Suitability of PPP and TBLT in the Japanese Classoom”

主張したいのはとにかくPPP修正版推しだということ。

タスクの定義の曖昧性

Matsumura(2009);タスクのコア概念は、意味重視。言語的なものではなくコミュニケーションの結果としての産物があること。実際の世界で用いられるものに似た言語プロセス・認知プロセスを含んだ活動であること

Ellis(2003);focusedタスクは学習者によるある特定の言語表現の使用を引き出すことが目的であるが、それでも一番の焦点は意味にあるべきである。

 

このように定義が複数あるので、どの考えも1人のTBLTの著者に帰することはできない。しかしながら、明示的なform-focusedの指導や集中的なform-focusedの練習はTBLTでは必須であるとは考えられておらず、しばしば退けらていることは明らかである(Ellis, 2003;Nunan, 1989;Skehan, 1996)。

 

明示的知識の重要性

 

  •  TBLTでは軽視されている明示的知識だが、構造に関するそのような知識やイミテーション・繰り返し・パタプラ・ドリル・暗記、つまりpracticeはインプットの不足しているEFL環境では実際不可欠である。
  • ターゲット構造の原理やルールを(明示的にL1で、あるいは暗示的にL2で)の文法指導を与えることによって学習し、それに続く大量の意識的な練習なしに日本の中高生(例えばACTFLでlow levelとされるような)は、コミュニケーションのために英語を使うであろうとは思わない。

 

TBLTの限界

Miyamoto (2009);タスク型シラバスで、高校生に体系的に文法をおしえることは難しい。EFLだしモチベもあれだし。

Miyasako(2010);暗示的学習により過ぎてて日本では機能しない。

Muranoi(2006);修正版PPP(PCPP)の提案。content-orientedアプローチが日本人英語学習者のコミュニケーション能力の発達に効果的。

しかしながら、productionの段階ではオープンあるはクローズドのタスクの使用もありうる。のちに学習者が構造についての暗示的知識を使えることができるようになったあたりまでオープンな産出活動を遅らせたり繰り返したりすることもできる。

 

明示的知識と暗示的知識


  • 確かに自動化のプロセスにおいて宣言的あるいは明示的知識を経ずに手続き的知識が得られる場合もあるだろうが、これは、教師がそのような明示的・宣言的知識を育成する方法で教えることができない、すべきではないということにはならない。
  • 大量のインプットを与えることによって、教師は学習者が暗示的知識を発達させることができるような状況をつくるように努力すべき。このあたりについては詳述すべきだった。しかしながら、暗示的知識や暗示的学習が日本の中等教育レベルの学習者たちへの指導法として取り入れられうるという考えについては疑問。
  • TBLTの一番の欠点は明示的意識的学習を代償として暗示的知識を強調する点。

 

日本におけるTBLTの実践

  • 文法の正確さと同様にコミュニケーション能力も伸びたという研究はある(Fukumoto, 2010;Matsumoto, 2010;Naito, 2009;Okumura, 2009;S. Sato, 2010)。
  • しかしながらほとんどのケースで事前に目標構造が指定されており指導(明示的・暗示的)そのあとに練習が続く形だった。ほかのケースでは、TBLTは補助的な形で取り入れられていた。
  • TBLTのスタイルは少なくとも決定的な概念についてはPPPと共通している。

 

有効なTBLT

  1. 目標文法項目の指導がある(明示的・暗示的、演繹的・帰納的になされる)
  2. 形式に焦点をおいた十分な練習がある
  3. アウトプットの機会がある、あるいは補助的に修正版TBLTを用いている
しかしながら、これらが実際にTBLTと呼ばれうるのかどうかは疑問がある。それは先行研究として挙げた例でも同じ。

 

英語教育の目標

オーラルコミュニケーションのレベルをあげるために障害を乗り越えて英語教育改革するべきというのは同意。中高でこのゴールを現実化させるためには、英語教師の英語力の向上と伝統的文法訳読式からの脱却が必要。

 

結論

日本の中高生に英語の言語構造の明示的知識を教え、大量の練習と、習ったことを使う現実的なコミュニケーションの機会が大事であると再度強調したい。

コメント

 

これまずTBLTっていうもの自体がそのTBLTという枠の中で、支持している言語習得理論や仮説の違いで微妙に言ってることが違うからなかなか難しいですよね。で、この論文の出版の時期とかの関係で無理だったのかもしれませんが、ふと疑問に思ったのは先日僕が取り上げたEllis (2009)が引用されてないってところなんですね(このためにあのブログ記事を先にアップしたというのもあります)。詳しくはあちらの記事を参照していただきたいのですが、あれが2009年で、それまでにもTBLTっていろいろ批判はあるわけですけども、それに丁寧にEllis先生が反論なさってるんですよね。そこでは文法シラバスに関する話や、TBLTが上級者向けであるということに関しても記述はあるんですよね。まあ確かにEllis先生は割りとTBLTを広く捉えていらっしゃって、focused taskの活用や、明示的知識の重要性を主張していると僕は理解しているので、僕も考え方はそっちよりになっているのかもしれませんが。例えばTBLTは必ずしもoutput basedではなくて、input-basedのTBLTも可能であるということはEllis先生がおっしゃっていて、もちろん限られたリソースを用いて(例えそれがhiddenされた文法を使っていなくても)コミュニケーションを成立させることにも意味はあるし、初学者にはinput中心のTBLTもできますよっておっしゃってます。なのでそのへんの検討が必要であると思いますし、もしも日本での実践例が限られてるとしたらそのへんがこれから研究されなければならないのかなと思います。また、元論文のperspectivesの方で上級者と想定される大学生にタスクやらせてみてダメだった(現在完了を使わせたいのに使わなかった)ってことなんですけどまあタスク自体がダメだったかあるいは実施の際の手順がよくなかった(改善できた)とかそういう可能性はないのかなとかちょっと思ったり。例えばpre-task段階でのplanningとか。まあそもそも文法指導って一度やって「はい今日現在完了ねー。はい練習してーはいじゃあタスクで使わせてー。おーよくできてたー。じゃ次不定詞いこー。」とかじゃなくて、一度やったのをまた繰り返して身につけさせるわけであって、タスクの繰り返しとかも選択肢としてありますしね(どっかにそんなことが書いてあったけど忘れました汗)。それから環境面(テストや入試、学習者のモチベーション、日本人英語教師の英語使用割合の低さ)がTBLTとミスマッチであるという点に関しては、じゃあそれ変えればいいんじゃないって単純に思ってしまいました(もちろんそんな簡単に変わるかボケという批判があるのはわかったうえです)。モチベーションの部分はともかく入試とか、あるいは学校の定期テストは教師側が変えられる可能性は大いにありますよね。入試はちょっとまた違う要素が入ってくるとは思いますけど(弁別力とか)。日本人英語教師の英語使用の問題も、英語でやるようにすればいいんじゃない?って思ったり(いや英語は英語でとは言わないですけどさすがに日本語ばっかりっていうのもちょっとそれはどうかなとは思いますのでね)。

perspectivesに対する2つの反論に関しては、例えば「PPPは望ましい結果を達成するために修正が必要であると容認しながらも、TBLTは日本というEFL環境には適応されえない融通性のない教授法であると批判しているというのがSatoのロジックの誤りである。」なんかは確かにと思いました。ただ英語教育のゴールみたいな話になってくるとまたちょっと話しはずれるのかなとか思ったり。その上の方の話と現場での指導うんぬんはもちろんつながっていますし、誰にとっても他人ごとではないのですが「いやそれは俺に言われても」みたいな。いや、ていうよりどんな問題も最終的にやっぱりそこなんだよなって再再再確認くらいしたともいえますけど。あとは、「宣言的ー手続き的」のACTモデルがPPPと合ってるっていう説には、perspectives読んでるときに、「明示ー暗示」の話はなんで出てこないのかなとは少し思ってましたけどちゃんと指摘されてましたね。2つの立場があるのならなんで一つを選択してその枠組で話を進めていって、なぜもう一方ではないのかっていうのをしっかり組み立ててあるとありがたいなと。紙面の都合とかあって深く踏み込めなかったのかもしれませんけど。

そうそうそれで「明示ー暗示」の話になりますが、今ってそこまで強く明示的知識が習得に役立つという立場が否定されてるんでしょうか?TBLTとかFonFの話になると、あまりにもその暗示的指導や暗示的学習の側面が推されすぎて、もちろんそれがTBLTの肝であることには変わりないとしても、先ほども言及したように「いやいや明示的指導もTBLTの中に組み込めますよ、文法指導には必要ですよ」っていう流れになっているんではないでしょうか。これはもしかしたら僕の個人的思想が入り込んでそうやって解釈してしまっているのかもしれませんけど。

「TBLTとかPPPとかラベルはどうでもいいから目の前の生徒を見ればそこに答えはある」とかサムライの方はおっしゃりそうですけれども、実際CLT(の一つのスタイルとしてのPPP)を発展させたものがTBLTであって、共通の概念があるのは当然なんじゃないでしょうかね。最後の方に、「有効なTBLT」という提案があり、これは果たしてTBLTなのかということになってますが、形式に焦点をおいた十分な練習というところがTBLTの理念にはそぐわないのかなとは思いますね。TBLTの中心は「タスク」であってこれが一番大事なわけですけれど、TBLTに向けた批判がなされる場合ってまず指導法としてのTBLTなのか、シラバスデザインとしてのTBLTなのか、あるいは両方なのか、どっちがどうそぐわなくて、じゃあどうすればいいのかっていう順番で考えていきたいですよね。この観点で整理すると、多分今回のTBLT批判は両方の観点で日本の英語教育には合わないんじゃないんでしょうかってことになるかと思います。

最後の結論部分(2011の方)で明示的知識の指導が大事であるというのがあるんですが、これもその前に文法項目の指導は(明示ー暗示、演繹ー帰納」のいずれでもいけるっておっしゃってまして、そうなんですよね、だから明示的知識を教えるために明示的に教える必要はないわけでしてWatari (2012)でも「学習英文法は明示的指導を前提として論じられることが多いように思いますが、明示的に教えるのか暗示的におしえるのかという選択の余地があります。そしてどちらを選ぼうと、学習者の側で学習は明示的にも暗示的にも生じうることに留意すべきです」(『学習英文法を見直したい』 p. 77)という記述があります(ここを今書いてるペーパーで引用したくて英訳探してたのでした)。そして、「形式に焦点をおいた十分な練習」ということなんですが、これは形式と意味をつなげるための練習ってことですよね?DeKeyser(1998)をSato先生は引用されていらっしゃるので間違いないと思いますが、この形式の練習っていうのがAudiolingualism的なmechanical drillsと誤解されてしまう、そしてこのドリルっていうのがformsとmeaningをつなげるためとかいって実際に学習者の頭の中で起こってるのは”forms-forms”じゃないかよっていうのがDeKeyser (1998)のp.53-54あたりで言われてることですよね。なので問題はこのpracticeの段階なのかなあとは思いますね。ちなみにpoint-to-pointの方では引用文献がポスター発表だったり日本の書籍だったりして見られなくてイラッと(´・ω・`) ショボンでした。

ちなみにTBLTに関しては、僕がまとめたやつで申し訳ないんですがこちらの第38回 全国英語教育学会 愛知研究大会(第1日目) ハッシュタグまとめの最後の方に、Ortega先生の講演中の先生方のつぶやきがありますので参考までにどうぞ。

というわけでなんかいろいろ引っ張っておいて大したコメントも出来ずに申し訳ない気持ちはありつつもこのへんでおしまいにしたいと思います。

では。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。

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