パフォーマンスとしての授業

昨日,「マイクロティーチング&マイクロリサーチ」という題目のワークショップで,授業者を担当させていただくという機会をいただいた。大雑把な主旨は,

その場で事前事後テストデザインの指導介入を行い,その介入効果を実際にデータ分析して示す

というのを90分でやるというもの。基礎研チームでテストの実施からトリートメント,理論的な背景の説明,分析結果の提示と解釈,考察までをやるというワークショップで,誰がミスってもうまくいかないというものだった。結果として,表面的には成功したように見せることができた。その意味での達成感と充実感はある。ただし,それは表面上の話。このワークショップの詳細は,別の機会にまとまった文章をしかるべきところで書かせていただくとして,自分がやった授業のことを少し振り返っておきたい。

私個人としては,授業は大失敗。そもそも,今まで何百回と授業をやってきて,成功した試しなど一度もないので,授業はそもそもうまくなどいかないものであると思っている。そうではあるにしても,到底納得のいく授業はできなかった。しかし,終わったあとにはお招きいただいた先生にお褒めいただき(お世辞かもしれないが),授業に参加していただいた学生さんからは授業がうまいと声をかけていただくこととなった。僕は失敗したと思ったのにもかかわらずである。まずは,その辺のことを考えてみたい。

私がマイクロティーチングでどのようなことをしたかというと,まず基本は”All English”での授業。日本語は一切使用しなかった。また,文法の明示的説明も一切なし。pre-taskとしてSpot the differenceをやったあと,絵を見せながら学生とインタラクションをしつつ目標構文の暗示的訂正フィードバックを行う。というのが授業の一連の流れ。とにかくハイテンションで,いわゆる「馬鹿」になるということに最初から最後まで徹した。

失敗した点は,次の1点に集約されると考えている。それは,学生に目標言語項目の産出をさせる,学生から目標言語項目を使用した発話を引き出す(elicitation)ということができなかったという点である。

この原因は2点ある。1点目は,学生の背景知識の推定と,教材の選択を誤ったという点である。私は,この間違い探しタスクは,場所を表す前置詞句や,there構文の産出を促すタスクとしてよく用いられていると考えていた。実際に,中学2年次でthere構文が導入される際,この間違い探しタスクを用いるという中学校教員の方は少なくないだろう。ましてや,授業参加者の学生の殆どは英語教育ゼミに所属している学生である。私は,このtask自体の持つ性質と,pre-testにおいてthere構文の項目が多く含まれるということから,task中にthere構文が多く産出されるだろうと予想していた。それを前提に,次の絵描写を含めたインタラクションを行う予定だった。しかしながら,実際にはそのようなことは起こらなかった。教材として選んだ間違い探し自体の問題である可能性もある。その絵がthere構文の産出を促すようなものではなかったということである。そのような教材選択も含めて,このpre-taskは失敗だった。「想定通りにthere構文の産出を引き出せなかった」という点においては。学習者同士が活発に英語でインタラクションをしていた点や,その後に,間違いを多く見つけられたペアに,教室後ろにあったリフレッシュメントのお菓子をポケットから出して渡すということで「ひと笑い」取ったことは教室の雰囲気を良くしたということはあったかもしれない。

原因の2点目は,絵描写とインタラクションにおいて,there構文を引き出すための義務的文脈を作り出せなかったという点である。私は,impressiveというソフトウェアのスポットライト機能を使い,部屋の写真を見せた。その後,停電したという設定で,その部屋にあるものをスポットライトで映しながらそのスポットライトに映るものを描写させるということをした。この設定が,果たしてthere構文の産出を引き出すために適切な設定であったのかどうかは考えなおさなくてはいけないと思っている。さらに重要な事は,インタラクションの際に,どのような質問で学習者の発話を引き出すかという点である。wh疑問文なのか,yes / no疑問文なのか。私は,はじめに,”What do you see?”という疑問文をとっさに使ってしまった。これでは,”I see”….という肯定文か,あるいは,単に”Two pens.”という名詞句しか引き出せない。では,どのような疑問文が適切だったのか。”What are there?”という疑問文が思い浮かぶ方もいるだろう。これなら,”There are….”と答える学習者もいるかもしれない。しかしこれであっても,spontaneousな反応が求められる場面では,”Two pens.”という名詞句だけでも意味的に伝わる上にコミュニケーションのbreakdownが発生しない。さらにいえば,違う場所に同じようなものがあった場合(床と机にCDが置いてある場合)でも,場所の前置詞句を加えるだけでもコミュニケーションができてしまう。日本人は,there構文を習うとやたらとthere構文を連発するというが,there構文が正しく使われる場面とはどのような場面なのか,この構造の機能はなんなのかということを熟考した上で展開を考えるべきであった。そしてそれこそが,授業を準備する際のポイントであると思う。

私はそもそも,この場面にインタラクションを絡めることの必要性というかインタラクションが必須であったかということも考えた。実際,私は絵を見せながらのナラティブでdemonstrationを数回見せるはずが,ほとんどすべてをナラティブで説明してしまいそうになった。そして慌ててインタラクションの必要性を思い出して学生に質問を投げかけたのである。それほどに,ナラティブでの語りでなにも問題が発生しない状況設定であったということである。結果として,私は学生から一度もthere構文の産出を引き出すことができず,終始there構文を私が発話するというinput enhancementに近い指導をせざるを得なかった。学生の発話を私が引き取って,there構文で言い換えて発話するという具合である。この点では,corrective feedbackといえなくもないが,そもそも名詞句のみの発話が間違いではない以上,correctiveであったかどうかは疑わしい。しかし面白いのは,そのfeedbackが学習者の頭のなかにある明示的知識に対してcorrectiveに機能したという点ではある。

そのような「失敗」を犯したにも関わらず,実際には介入効果が認められるという結果になった。それは,学生が「空気を読んでくれた」結果だと思っている。pre-postで結果が図られるということで,「どこに注意するべきか」というように学生が構えていた可能性がある。この点に関する考察もまた別の機会に。

最後にひとつだけ。今回私のことを「授業がうまい」だとか「英語がうまい」とか「すごい」とか思った学生さん(が万が一いるとすればだが)にこれだけは言っておく。私は普段あのような授業はしていない。私は現在専門学校で英語の授業を担当しているが,その授業において,”All English”で,ハイテンションで,「ピエロに徹する」,そんな授業はやったことがない。昨年度,臨時的任用教員として中学校に勤務していたときでさえ,そのような授業はやったことがない。

あれはあくまでワークショップという形式の中の,マイクロティーチングとしてのパフォーマンスの授業である。普段の授業とは全く別物なのだ。初めて会った人たちに,あのような形でやったから,それなりに「面白かった」かもしれないし「うまい」と思ったのかもしれない。しかし考えてほしいことは,本当に教員として授業をやる場合,出張授業などの特別な場合をのぞいては,1回きりの授業などはないということだ。中学校であれば週4時間も授業があるわけで,大学でも毎週1時間で半期15回はある。あの授業を週4回,あるいは半期15回受けたとき,1回目と同じような感想を15回目にも抱いているだろうかということをもう一度考えてみてほしい。たいていはあのような「ノリ」に任せた授業はウケても2度目くらいまでだろう。本当に授業がうまい教員は,言語材料の選択,タスクの選択,授業の組み立て,などなど様々な要素と,生徒・学生との信頼関係などを絶妙に組み合わせていい授業を作り上げる。もちろん,特に中学校であれば「ピエロ」的な要素はとても大事な授業スキルにはなってくるとは思う。ただし,それだけで良い授業は作れないということは肝に命じておくべきだと私は思っている。ワークショップにおいて,草薙さんが話していたこととも重なるが,授業も研究と同じで,あのワークショップで見えたものはほんの10%ほど。ここで少し述べたように準備段階の方がむしろ授業の成否を分けることは多い。今回は特に,そこで失敗したと言っても過言ではない。私の授業力が足りなかった。その一言に尽きる。

以上,長くなったが,昨日からずっともやもやしていたのでここに書いた。静岡では学生さんの卒論発表を聞き,なにか頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。忘れかけていた何かを思い出させてもらえたような気がしている。ありがとうございました。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

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パフォーマンスとしての授業」への3件のフィードバック

  1. fukutajunya

    逆に言えば,それだけ何を求めてる授業かって探ってればインプット受けてるだけであんな効果出るもんなんだなあって思ったよ。それはそれで大きな俺にとって意識の変化だった。モチベーションと言っていいかわかんないけどそういうの強い生徒がよく伸びるのも頷ける。
    そういう効果って結構これまでも指摘されてきたけど,裏を返せばEllisが2012年出版の本を編纂したときにピュア実験系の研究を完全に排除した意図がやっと実感できた。

    返信
    1. Yu Tamura 投稿作成者

      たしかにね。そういう見方もできるね。だからこそ授業でなにをやるか,なんのためにやるのか,なにができるようになるのかってのを明確に示しておくことってのは大事なんだよね。あの授業はたまたま「明確に何か狙いをもって授業はやるけどそれは言いません」というかなり特殊なスタイルであったけど,本来は明示的に伝えておくべきことなのかなと思う。アメリカにいた時もそれはよく言われてた。そもそもの英語学習に対して積極的でない生徒や学生に,こちらの意図を読み取らせるのはとても難しいからね。もちろん帰納的な学習を狙った指導も有りだけど,それともまたあの授業は違うしね。

      返信
  2. ピンバック: [雑感008] There構文を引き出す難しさについての覚え書き | 静岡大学 教育学部 英語教育講座 亘理研究室

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