教室で一斉に同じことをやらせる意味は何なのか

今日ちょっと色々考えたので忘れないうちにメモしておこうと思います。あらかじめ申し上げておきますと,以下,問いに対する答えはありません。

北米留学時代,社会言語学の授業を取っていた頃に教育とはどういうことなのか,ということや,言語教育を含む教育のもつ暴力性みたいなものを考えたことがありました。

当時はこんなことを書いています。

【授業】教育について考えた

今日引っかかったのは,「教室で一斉に同じことをやらせる意味は何なのか」という問いでした。

もっともだとも思います。本来,人の興味関心や学習の進度などなどはそれこそ十人十色であるわけなので,その中で「全員に一斉に同じことに取り組ませる意味」があるのかどうかということです。もしあるのだとしたらそれはなんなのかということになります。これは実は教室内のほぼすべての活動に当てはまるわけです。言語教育で考えてみると,全員で一斉に音読するにしろ,ペアワークをやるにしろ,グループワークをするにしろ,個別の多読活動に取り組むにしろ,どんなことをやるにしても,「教室の中で,(それぞれのペースやそれぞれのやり方でであったとしても)同じ◯◯をするのはどうしてか」ということ。すごく意地の悪い言い方をすると,「それって結局全部教員側の都合じゃないか」と言い換えられなくもないかもしれません。

教育といっても,学校教育かどうかは大きな違いであるでしょう。また,例えば言語教育でもどのような文脈で行われる言語教育なのかでこの問いのもつ意味も変わってくるでしょう。

教育を,「生徒・学生のためのものである」と考えると,「教員の都合(意見・ビリーフとも言い換えられるかもしれません)」が優先されるべきではなく,「生徒・学生が何を学びたいのか」ということ,こそ重要視されるべきだということになるでしょうか。そのとおりでしょうね。ただし,学校教育においては,「学習指導要領」というもので学ぶ内容に関しての規定があるわけですし,また小中高生が「何を学びたいのか」はあるにしても,「学びたいと思うことや興味が有ることしか教えなくていいのか,教えてはいけないのか」という意見や,「何が自分の人生に必要なのか」を主体的に取捨選択できる能力があるのか,という意見もあるでしょう。大学における教育でも同じような議論は当てはまるのではないでしょうか。自分の学部時代を振り返ってみても「あれを勉強しておけばよかった」と思うことは山ほどあります。そう今思うということは,当時は重要だと思っていなかったからろくすっぽ勉強しなかったか,あるいはそれがこの先重要になると考えもしなかったということでしょう。「そもそもその『あれ』を知りもしなかった」という可能性もあるかもしれません。

さて,ここで,ニーズ分析(needs analysis)についてです。これは,言語教育の分野では最近だと特にTask-based Language Teaching(TBLT),English for Specific Purposes (ESP)との兼ね合いで聞かれることが多い用語かもしれません。あるいは,curriculum developmentやevaluation and assessmentの文脈でも使われると思います。TBLTにしてもcurriculum developmentやevaluation and assessmentでも,大事なことは「目標を設定する」ということです。どんな目標を設定すればよいのか,というときに,学習者のニーズに基づいた目標を設定するべきであり,それに基づいたシラバスデザインなりカリキュラムなりを作り,そしてその目標の達成度合いを評価することが重要であるという考えです。学習者の目線から教育内容を考えるというのは,先ほどの「生徒・学生が何を学びたいか」ということを考えているということができると思います。

学習者のニーズは,それが今必要であるという意味のニーズか,あるいは未来に必要になるという意味でのニーズかで違ってきます。例えば,私がアメリカにいた時に実習で教えていた移民の人達にとって必要なのは,彼らが今まさに生きていくために必要となる様々な場面での言語使用(買い物であったり職探しであったり)でした。当然そのニーズにあった言語教育が提供されていました。目標言語環境における言語教育では,そういった現在のニーズが重要視されることが多いでしょう。対照的に,例えば日本の外国語教育を考えてみると,現在のニーズというのはない場合が多いでしょう。あったとしても,それが入試突破や資格試験のスコアアップという意味でのニーズという場合がほとんどなのが現状なのではないでしょうか。むしろ,「実際に言語が使用できるようになる」ということを目標にした場合,大学の一般教養科目としての外国語教育,中でも英語教育では,学生が卒業後に必要となるであろう(あるいはかもしれない)ニーズに合わせたカリキュラムを組むことになると思います。そうなると,教員ができるのは,教える学生層の進路状況からニーズを逆算したり,あるいは学習者に直接聞いたりということになるでしょう。「卒業後の進路が明確に決まっている学生」が多ければ後者の方法も有効かもしれません。しかし,そうでない場合や,ニーズのばらつきが大きすぎる場合には,別の方法で的を絞ることになります。そこで,例えば題材自体はある学習者のニーズにフィットしていなくとも,そこで行われる活動で用いられる言語や,活動中に発生するインタラクションが実際の言語使用場面においても応用可能であるようなタスクを用いたりします。

と,こうやって「学習者のニーズ分析」から始まってタスクに落としこむところまでいったとろこで,一番最初の疑問にぶち当たっていることに気づかされます。つまり,「なぜ,全員のニーズの共通項や,最小公倍数をとって授業を組み立てようとするのか,それは結局全員に同じことをさせようとしている発想から抜け出せていないではないか」ということです。

こちら(教員側)であの手この手をつかって色々考えてやってるつもりが,実はそれって押し付けなんじゃないのか,と考えさせられてしまうのです。そう考えると,教育っていうのはそもそもが押しつけというか,暴力性を帯びた行為であるということになるのかもしれません。教員と学生のパワーバランスの話も関わってくるでしょう。今のところ僕の中で答えや解決策は見つかっていません。ただ,授業をする,何かを教えるということの難しさを考え,自分の今の実践や過去の実践を振り返り,またこれからの授業がどうあるべきかについて思いを馳せた。そんな日でした。

MBAの充電残り3%で充電器は研究室。そろそろ寝ます。

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