母語話者との差は埋めるべき?

昨日(日付変わったので一昨日),私の博論の内容について発表する機会をいただきました。発表の時間は短かったのでかいつまんで結果と解釈を提示する程度でしたが,その中でいただいたコメントに対して,一晩考えて私なりに少し丁寧にここに答えを書いておこうと思うに至りました。

私の博論では,母語話者と学習者のある課題についての結果を比較して,母語話者と学習者で意味と形式のマッピングが異なるところに焦点をあてています。

そこで,母語話者とは異なる点について,「どうやったらその差を埋めることができるか」,「教え方の工夫などで解決可能か」という点について,ご質問をいただきました。おそらく,背景には「母語話者に少しでも近づくこと」が英語指導の目標になっているのだという価値観があるのかと想像しますが,私が取り組んでいる言語習得や言語処理に関わる研究については,そうした母語話者としての差を「埋める必要があるもの」であるとはまったく捉えていません。これは,(a) 費用対効果と対象としている言語現象,という話と,(b) native-normという価値観,という話の2つが絡み合った問題なのかなと思っています。

(a)の費用対効果については,私の対象としている言語現象が,「誰もが英語学習を通して明示的な指導を受けたことがあると言い切ってもよい」ものであるか,逆に「習ったことも,あるいは聞いたことすらもないようなもの」を扱っているからです。博士論文は1点目で,複数形の形態素です。「名詞に-sがつけば複数」という至極シンプルな規則は,英語学習者なら初級者でも「知っている」はずです。しかし,それがどういった「意味」と関連付けられているのか,博論ではどのように「数(number)」と関連付けられているかを問題にしています。そして,それはとても根本的な現象を扱っているように思えて,実は英語学習の目標を考えれば取るに足らない些細なことで,「名詞に-sがつけば複数」とだけ知っていればそこまで問題にならないことだと思っていますし,言語使用場面で,その使用目的に照らして,目的を達成するために私の行った課題で明らかになるようなものが問題になるとも正直あまり思っていません。実際,複数形の形態素のせいで英語使用に苦労するということはあまりないでしょう。

また,「習ったことも聞いたこともない」ようなことについては,「習ったことがないからできない」という考えもあるかもしれませんが(後述しますが実際はそうではないことも有りえます),その前に「なぜ教えられていないのか」を考える必要があるのではないかと思っています。つまり,学習英文法として取り上げられていないのは,そこに含める必要性がないことが含意されているように思うのです。そのレベルの現象について,例えば特別な指導を施すことで母語話者との差を埋めることができても,リソースの制約がある中で何を取り上げ,何を取り上げないのかという意思決定をしなければならないときに,他に指導すべき事項を差し置いて「言語のある特定的な側面について母語話者との差を埋める」ことを選択することは妥当でしょうか。

例えば,Tamura et al. (2016)で扱ったtough構文で(1a)は適格文であるのに対して,(1b)が非適格文であることやその背後に働く原理を「説明する」ことは,「一般的な」英語指導の文脈で必要なことでしょうか。

(1a)  He said that his wife was difficult to please.

(1b) * My younger sister was difficult to be an actress.

 

ちなみに,このような非文に対して,日本語を第一言語とする英語学習者は主観的には規則を説明できなくとも,「なんとなく」(1b)が非文であるというようなことを偶然確率よりも高い確率で判断することができることがわかっています(ただし,その判断に要する時間は長いです)。

2点目,(b)native-normという価値観については,なんで母語話者との差を「埋める必要があるものである」と考えているのだろうと思ってしまいます。もちろん,自分の信念としてそのように思うことを否定したりはしませんが,学習者にそれを課すことには疑問があります。この観点はなんら新しいことでもありませんし,multicompetenceという言葉とともに語られたりもしています。「英語教師の仕事は学習者の英語力を伸ばすことだ」ということに対しても,私はそこまで否定的に捉えているわけではありませんが(注1),「英語教師の仕事は学習者の英語力を限りなく母語話者のそれと差異のないものにすることだ」と言われるとそれは賛同しかねます。これは,

明示・暗示の測定と指導法効果研究

というエントリーで書いたこととも関係あるかと思います。私が博論でやった研究は,ミリ秒レベルの反応時間の差で,さらにこれは非常に特殊な実験環境による言語の処理で,その意味ではいわゆる生態学的妥当性は低いでしょう。ただ,そうでもしなければtapできない側面なのです。そこまでしないと見えないレベルの差の有無には教育的示唆などありませんし,そのレベルの差を「埋めるべきもの」であるというようにも考えていません。もちろん,差が生まれる要因には興味がありますし,それを探求することについて意義があることだと思っているのでそういう研究をしています。つまり,「埋められない差があること」を私は問題だとはまったく思っていませんし,それが仮に存在することが明らかになったとしても,それはむしろ「教育的示唆」という意味ではプラスに働くことすらあると思っています。ここが費用対効果の話とも絡んでくるのですが,

3単現の-(e)sは口をついて出るくらいまで練習 

と似たような問題で,母語話者との埋められない微細な痕跡が残るような文法項目について,熱心に誤りを訂正したり明示的な説明をしたりすることはリソースの無駄遣いと言ってもよいでしょう。そういうことに時間を使うくらいなら,もっとやるべきことはたくさんあるはずです。これは,「教えなくても勝手に学習させればよい」という議論を展開したいというわけではありません。限られたリソースの中では「教える」時間は限られているので,「引き算の思考」をしたほうが有益ではないかと思っているのです。つまり,「教えても教えても難しい」あるいは「どう頑張っても母語話者のような正確性を身につけることは難しい」というものが明らかになれば,それについては,リソースの配分をやや減らして,「-sがついたら複数だよ」って知っていれば良いという程度にするということができるのではないでしょうか。あるいは,「教えなくてもある程度はできそうだ」ということがわかれば,その部分についてもリソースを減らして良いという判断ができるはずです。ただし,「教えないとできない」,「どのように教えたらできるのか」,という見方をしていると,それが仮に余分なリソースを必要とするものであるとすれば,そうした結果が明らかになればなるほど「やらないといけないこと」が増えてしまい,結局その負担を被るのは英語教師自身になります(注2)。もちろん,「リソースが有効に活用されているのか」を精査することは必要でしょう。それじゃあ効率が悪いから,別の方法を使いましょうという提案については,リソースを増やすことにはつながっていませんし,それでむしろ効率化して余剰が生まれるかもしれません。

そうした現状で「工夫を凝らした特殊な指導を与えたらテストの点数が有意に向上した」みたいなことをやったりするのにそこまで躍起になるのは,どうしてなのだろう,と不思議に思うこともあります。また,ある1つの文法項目が何らかの方法で測定された際に,その数値が「統計的に有意に向上した」や「効果量◯◯だった」というような事実の積み重ねで,私が見ていたような「差」を埋めることができるとも思っていません。

実験研究における母語話者との比較は,母語話者が常に「正しい」とも限りません。むしろ「母語話者だからこそ」学習者とは違う結果になったということも有りえます。学習者に実施する課題とまったく同じ課題を母語話者にも課せば,概してそれらは母語話者にとっては「簡単」な課題となりがちですし,そのときに予想とは違う(こちらが想定していないストラテジーを使って文や語を処理する)ことが起こることは十分にありえる話です。そうした意味でも,nativeが正しく,もし仮にL2と何らかの差異が見られたときにそれが必ずしもL2が何か欠陥があるということ示していないかもしれないということです。

指導の文脈における母語話者との比較については,結局は,目的論・目標論の話とも関わってくる問題ですし,仮に英語能力の伸長が目標であるという合意形成ができたとしても,それが「母語話者レベルではなくてもよい」となったときにどのような目標を設定するのかという話にはなってきます。そのあたりについては,私個人としては「タスク・ベースの指導」という考え方を採用したい問題であると思っています。つまり,学習者が教室の外でも「それなりに」機能すること(彼ら・彼女らが直面した問題を自律的に解決すること)ができるかどうかを判断の規準にするということです。これを導入するには色々クリアすべきハードルがあることは事実ですが。

ということで,集合写真に僕が写っていなかった(早めにお暇したのでそもそも写真が撮られたことすら知らなかった)ことで仲間はずれにされたのではないか,いじめられてやしないか,と福田さんにご心配いただけたりもしましたが,個人的には発表してコメントをいただけたことで,私の考えを整理することにもなりましたので,収穫はあったと感じています。今日は午後からだと勘違いしていて午前中の発表を3つとも聞き逃してしまうという失態を犯してしまい(悠長に俺の空でラーメン食べている場合ではありませんでした),申し訳ありませんでした。

午後の最後の2つの発表(新谷先生と鈴木渉先生)については,「習得」・「学習」といったときに習得・学習されたものはいったいなんだったのだろうというのが気になったりしていました(おそらく須田先生が「それってuseじゃないの?」とご質問なさったのも近いと思います)(注3)。1日目については,comprehensibilityってなんなんだろうと思ったので,その話はまたいつか。

ではまた。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。


注1. これについてさえ,「英語教育の目標は英語力を伸ばすことである」と言い換えたとき,その主張が英語教師の大多数に受け入れられているというようには思っていません。

注2. その「教える」が明示的文法指導といわれるようなものであったときの別の問題としては「文法の明示的指導研究について思うこと」を参照。

注3. 瞬発力が足りなくて,その場でうまく言葉にすることができなかったのですが,あとから考えて整理して自分で理解できたのでここに書きました。

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