「知っている」事の影響を排除するための2つのアプローチ

思いついたことを書き留めておくだけのメモ記事です。粗いところもあるかもしれませんがご容赦ください。

「狭義の」(文法の)第二言語習得研究が目指していることは,母語話者が持っているのと同じ知識を第二言語学習者も身につけることができるのか,できるとすればそれはなぜか,できないとすればそれはなぜか,というのが分野の抽象的で大きな問いであるというのがざっくりとした私の理解です。

で,この問いに迫ろうとしたときに問題となるのが,いかにして「知っている」ことの影響を排除するのかなという点です。母語話者は基本的には言語の規則を意識的には知らない(説明はできない)という状態で,でもある法則に従って規則的な振る舞いをするわけですよね。その規則的な振る舞いを言語理論で説明しようというわけです。そういうことを見ようとすると,学習者が意識的に知っていること(言葉で規則を説明できること)を対象にしていては意味がないじゃん,ということになります。知っているだろうよ,というような現象を対象としている限り,「知っている」からできるという可能性を排除することができません。よって,習っているはずもないのに母語話者と同じような振る舞いを見せる現象があるよ,とか,あるいはそれが第一言語によって同じような振る舞いを見せたり見せなかったりするよ,というような方向性で研究をデザインしていくことになります。そして,それを生成文法の理論から予測していこうとすると。生成ベースの第二言語習得研究をやっている人たちの基本的な考え方はそういうことなのかなというのが私の個人的な印象です(もちろんそうじゃない人もいるとは思いますけれど)。

一方で,SLAの初期からずっとSLA研究者が関心を持ち続けてきたことは,「知っている(=規則は説明できる)のにも関わらず,産出などをさせると間違いが頻繁に起こってしまう」という第二言語学習者に典型的な現象についてどのような説明を与えるのか,ということです。この関心を説明するために生まれたのが,明示的・暗示的という2つの知識源を仮定する考え方でしょう。つまり,知っている=明示的知識はあるけれども,産出などの課題で主に使用されると考えられている暗示的知識が不十分であるために,誤りが生じてしまうというようなロジックです。この考え方でいくと,そもそもの出発点が「知っているのにできない文法項目」(典型的なのが三単現の-s)の振る舞いについての説明を与えることになります。よって,知っていることの影響を排除しようとしたときに,「習っていないであろう項目を対象とする」という理論ベースの考え方は採用されえません。そこでどうなるかというと,測定の方法としてできるだけ「知っている知識」が作動しないような課題を用いるというアプローチを取ることになります。文法性判断課題に時間制限をつけたり,elicited imitationを使ったり,その後の反応時間パラダイム(自己ペース読み課題やword monitoring課題)や視線計測,そして脳系の測定具を使うというように,測定具によって「知っている」ことの影響を排除しようとしてきた,というのがもう一つのアプローチとしてあるのかなと考えています。

私も最初の関心は後者のアプローチにあり,どうすれば明示的知識の干渉を抑えた知識の測定ができるのか,という点にありました。ところが,それでは拉致があかない部分もあります。明示的・暗示的知識系の研究の重大な欠陥だと思っている部分で,それは,「意識的かどうか」についてを直接的に測定してこなかった(できなかった)という点です。反応時間や視線計測というパラダイムを用いたとしても,何らかの反応の違いが観察されたときに,それが「おやっ?」という意識にのぼるレベルの知識を使ったから反応時間や注視時間が長くなったのか,はたまた自分では全く気づいてもいなかったけれどもそうなってしまったのか,については測定していませんでした。よって,暗黙の了解として「反応時間や注視時間の条件間差は無意識なものである」だとか,「因子分析したら文法性判断や誤り訂正課題とは違う因子にローディングするからと自己ペース読み課題や視線計測で測られているものは暗示的知識であるのだ,みたいな想定をしてきたんですよね。それってなんかちょっとそこを当然のことのように受け入れちゃってもいいのかしら。という疑問が生まれてくるわけです。そういうこともあって,私が博士後期課程時代に扱ってきた文法現象は(もちろんこれは草薙さんの影響を大いに受けているのですが),どちらかというと前者の「知っているはずもないような文法」を対象にしているものが多くなっていきました。今必死にディスカッションを書いているthere構文の数の一致 (当時はこれも明示・暗示に当てはめようとしてたんですが今は違う方向性で書こうとしてます)だったり,tough構文の研究  なんかはまさにそういうことだったと言えます。conceptual numberの研究(これは言語習得よりは文処理ですが)も,「そんなことは習っているはずもないけどなんかガーデンパス回避しちゃう」というような話でもあります。

別にどちらがいいとか悪いとかいうわけではないのですが,同じように第二言語の文法習得を対象にしている研究で,「知っていることの影響をできるだけ排除したい」という目的は共有していたとしても,そのときに知っているはずもない現象を対象とするのか,はたまた当然知っているだろうというような現象を扱って測定具の工夫によって知っているという知識の干渉を極力抑えるというアプローチに行くのか,そういう違いが出てくるのは結構興味深いことなんじゃないかなぁということを考えたのでした。

もちろん,これはただの思いつきなので,そもそもの前提が間違っているとか,2つのアプローチは別に同じ方向を向いているわけではないとか色々あるかもしれませんが,こういう整理の仕方ってどうですか?というような投げかけ的な記事でした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中