「英語教育を変えたい」みたいな素朴信念の先へ

はじめに

昔から,「そんなの研究じゃない」って思うような発表をいろいろな場所で見たり聞いたりして,そのたびに「問題点がどこにあるか」を指摘することは容易にできたし,してきていたという自負があります。しかしながら,なぜそういう発表があるのか,どうして「そんなの研究じゃない」と私が(そしておそらくは多くのちゃんと研究している人が)思ってしまうことを「研究だ」と思い込んでしまうのかについてはあまり深く考えたことがありませんでした。このことについて考えてみると,その一因は英語教育についての素朴な信念なのかもしれないと思うに至りました。以下,英語教育系の研究を始めようと思う学部生や大学院生の方に特に読んでほしいなと思いながら書きます(※ただ,書き始めたらただのナラティブみたいになったので研究の参考にしようという気持ちであまり期待せず暇つぶし程度に読んでください)。

B4的全能感

英語教育系で,大学の学部生くらいまたは大学院に入りたての修士1年生くらいで,ちょっと研究に興味出てきたくらいの頃って,「日本の英語教育を変えたい」みたいな素朴な信念を持つことってよくあると思うんです。ほとんどは自分の受けてきた英語教育の経験だったり自分が見聞きする範囲の話だったりあとは世間一般で根拠もなく言われるような話に基づいてるようなものです。私はその素朴な信念を持つようになることって発達段階みたいなもので,誰しも(は言い過ぎだとしても多くの人が)通るようなものだと思うのです。かくいう私も恥ずかしながら,学部を卒業して修士号取得のためにアメリカに行った時はまさにそういうことを本気で思っていた時期がありました。

日本の英語教育はてんでダメだ。教え方が間違ってるんだ。そして入試がいけないんだ。

みたいなやつです(注1)。もっといい教え方をしたら,もっと入試が変わったら,日本の英語教育は良くなるに違いないみたいなの。もしこれを読んでくださっている方が学部生や大学院生だとしたら,そういうことを思っていたりしているかもしれません(その事自体は私は「発達段階」だと思っているので全く悪いことだと思っていません)。また,「確かに昔はそんなこと思っていた時期もあったなぁ」みたいなことを思っているオトナの方もいるかもしれません。これってB4的全能感みたいなものかなと。

私は特に身近に英語教育の大学院生が活発に研究しているような学部に所属しておらず,そしてそもそも大学院生の人がどんな研究しているのかすら知る機会はありませんでした(あったのかもしれませんがおそらく当時はあまり興味もなかったので覚えていないのだと思います)。そういう中で,「大学院に行く」と決意したくらいですから,周りの学部4年生よりも自分には知識があると思いこんでいました。少しは,本当に少しは本を読んでいたし,ゼミでも結構鋭い意見を出す学生っていう自意識みたいなのもあったんです。うぬぼれですね。今振り返ると。いや,素朴信念を持っている人がすべてそういう人だと言いたいわけではないのです。ただ,「英語教育を変えたい」みたいなことを思うのって,「英語教育がだめだという認識」と「英語教育を変えられる、そして変えた方が絶対に良いという認識」の2つから来ていると私は思っています。この2つについて詳しく解きほぐすみたいなことをやっていると日が暮れてしまうのでここではやりませんが,結論からいうとどっちの認識についても「そんな簡単な問題じゃあねぇよ」っていう話なのです。そのことに気づける機会があった(ある)のかどうか,というのが大きいのではないかなと思います。

私の昔話

えらそうなこと書いていますが,前述の通り私も「素朴英語教育改革論者」みたいなこと言ってたんですね。むかーしむかしは。このブログのメニューにあるTogetterまとめで過去のものを見てもらうと,そのことが少しはわかるかなと思います。そのような過去をもつ私が,今客観的に当時の自分を振り返ることができるのはなぜなのか,という話を少しさせてください。

私は,2011年にTwitterを初めて,当時はTwitterでフォロワー数増やしたいみたいな願望持っていました。そこで,どうやったらTwitterでフォロワー数増やせるかなとか思って調べていたときに,誰が言ってたのかもはや思い出せないのですが「Twitterのプロフィール欄にはデカイ夢を書け」みたいなアドバイスを読んだんです。それを思いっきり真に受けた私は「日本の英語教育を変えたい」とかってプロフィール欄に書いてたんですね。いや,若かったからとかでは片付けられないくらい恥ずかしくて,おええええええええええって感じになりますね。その当時のことを知っている方からは,今でも当時のことをいじられることが今でもよくあります。

話が少し脱線しましたが,私はそうやってTwitterというメディアで恥ずかしげもなく「英語教育をがえだい!!!」って叫んでいたわけです。一方で,その今となっては恥ずかしい過去というのが,実は幸いなことだったなと思うこともあるのです。それはなぜかといえば,私が持っていた「英語教育をがえだい!!!」みたいな素朴な信念に対して「いや,世の中そんな単純じゃあねぇよ」と言ってくれる大人の人がたくさんいたからなんですね。名前はあえて出しませんけども色々な人とやりとりして,言語政策の本を読んでみたらとか,言語帝国主義の本を読んでみたらとか言われて(注2),「そうか俺は何も知らないのに意気がってたんだ」みたいになるわけです。自分の視野が狭すぎるってことに,全然気づいてなかったんです(注3)。

素朴さに気づけないと…

私は運良く,自分が抱いていたような英語教育に対する思いがすごく素朴な信念であることに気づくことができました。ところが,その素朴信念を相対化する機会に恵まれないままに大学院に進んで研究を始める人も当然ながらいて,そういう人ってたいてい「◯◯の効果」みたいな研究をやりたいというようなケースが多いような気がしています(具体例挙げると誰かの個人的批判になりかねないのでなにか具体的な指導法とかを◯◯に入れてご想像ください)。オブラートに包まずにいうと,自分が信仰しているやり方に対して「科学的な」根拠を与えたいタイプの人が多いというのが勝手なイメージです。別に実践的な示唆を目指したい研究がダメとかではありません。例えば,フィードバックの研究とかって最初は実践的な疑問から生まれてきてますよね。そして分野の1領域を形成するような大きなフィールドになった。「明示的指導」なんかもそうだと思います。

でも,たいてい「自分の興味あること」から出発する研究って研究と呼べる代物にならないことが多い気がします。というか,最初からバイアスかかってないですか?というのは常に問いたいです。例えば、「シャドーイングの効果に興味あります」という人がいたとき、「シャドーイングに効果があると思ってるからそれを確かめたい」って思ってませんか?って。自分が信じてることと逆の結果が出たときに、信じてることが支持された時と同じ態度で論文書けますか?っていうことですね。そういう中立的な態度って結構大事だと個人的には思っています。

自分の関心と分野の関心の往復運動をしながら研究課題を見つけられるといいのですが,あまりにも前者ドリブンすぎると独りよがりになるというか。もちろん、実践研究みたいなものもあるのでそういうアプローチを否定したりはしないのですが。

まとまらないけど

 全くまとまらないんですが,何かを変えようと思って簡単に変わるものじゃないし,その理由がいくつかの個別の要因に還元できるほど世の中単純になってないよねってことを頭の片隅に入れておくことって大事だと思うんです。それから,とにかく自分の持ってる素朴な信念を相対化する意識を持っていることも大事なんじゃないかなと。うまく言葉にできている自信はないんですが,まあたまにはこういうまとまりのない話でも公開してしまいます。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注1. これこじらせたままオトナになってしまった人もまれに見るのですが,そういう人はあまり研究の舞台で目立つことはないのでとりあえず置いておきます。

注2. 金髪の写真をアイコンにしたよくわかんねぇ若者が「英語教育をがえだい!!!」とかいって絡んでも,おすすめの本を教えてくれるほどに当時のTwitterはまだいいところだったんですね。今だったらブロックされているかもしれないところです。それから,自分がいま若い時の自分みたいな人を見た時,自分がしてもらったような対応できるかと言われると自信はないです。

注3. 自分で自分を少しだけかばうと,そうやって言われて素直に本買って読むくらいには真面目だったんです。

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