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ライティングにおいて文の数を制限するとどうなるか

はじめに

下記のanf先生のブログ読んで考えたことを書きます。今まであまり深く考えたことがなかったんですが,以前に自分が関わった研究と,高校ライティングの入試問題の形式って,直接的ではありませんが,つながるところがあるかもしれないなという話です。

2020年度埼玉県公立高校入試問題のライティング問題から読み取るメッセージ

ライティング問題における文の数の指定

上の記事中の中では埼玉県公立高校入試でのライティング問題で文の数の指定が近年では5文以上となっていたものが,今年度は3文以上という指定になったという話があります(それだけがメインじゃないんですけど)。一見すると,書かなければいけない文の数が減るというのは要するに求められる分量が減ったと捉えられると思います。ちょっと別の角度から文の数の指定を考えてみたら面白いかもしれないということを以下で考察してみたいと思います。

文の数の上限をつくるという発想

あくまで,入試問題での指定は,「◯文以上で」という最低ラインを示しているものです。つまり,3文はいいけど2文ではいけないと。これも「制限」ですが,文の数の制限は別のやり方もあります。それは,上限を設けるということです。文の数の下限を設けるというのは,ある一定以上の流暢さ(ここでは入試という限られた時間内である程度の分量が書けること)を求めているというメッセージになると思います。

一方で,同じ内容を表現するにあたって文の数の上限をつけるとどのようなメッセージになるでしょうか。これは1文の中にどれだけ節(または句)を埋め込めるのか,つまり,どれだけ複雑な文が書けるのかを見ますよというメッセージになるでしょう。もちろん,意識的に節を増やそうと考えることを求めているわけではありません。ただ,伝える内容が同じ時,文の数が減るというのは1文の統語的複雑さ(簡単に言うと1文に含まれる節の数が多いことや1文に含まれる語数が多いこと)が必然的に(そして意識するかは別として)あがることが見込まれます。

本当に節は増えるのか?

以前,大学生・大学院生を対象に以下のような研究をしたことがあります。

How Do Japanese EFL Learners Elaborate Sentences Complexly in L2 Writing? Focusing on Clause Types

論文の概要は以下のとおりです。

ライティングによる絵描写タスクを日本語を母語とする英語学習者に課し,その際に用いる文の数に制限をかけることで統語的に複雑な文の産出を誘発し,学習者がどのような節を用いて文を複雑に書こうとするのかを明らかにしようとした論文です。別途行ったエッセイライティング課題をライティングの熟達度として操作的に定義し,熟達度によって用いられる節の数が異なるのかも検討しました。結果として, 文の数が制限されることにより等位節,関係節,非定型節の産出が増え,これらの節は文を複雑にするために学習者がよく用いることが明らかになりました。また,非定型節は熟達度が高くなるほど多く用いられる傾向にありました。これらの結果に基づき,節の数や節の長さなどの指標を用いるのだけではなく,節の種類にも着目することで,学習者のライティングをより詳細に捉えられる可能性について論じました。

https://tamurayu.wordpress.com/2017/02/27/nishimura-et-al-2017/

この研究では,上限を決めるというより,6コマの絵描写を6文で書くよう指示した場合と,そのような制限をつけなかった場合を比較しています。したがって「◯文以内」という上限をつけたわけではありません。よって,上限をつけた場合も同じようなことが期待できるとは限らないという点には注意が必要です。

入試問題へそのまま応用できるというわけではないが…

文数の下限ではない指定という方法が,入試問題の形式として応用可能かというとあまりそうは思っていません。ただ,文数の制限という操作は必ずしも流暢さを引き出す目的ではなく,複雑さを引き出すことにも応用できるのではないかという示唆が上記の研究にはあると思っています。

課題として,それなりに内容的な分量を求めるように工夫すれば,5文以内という制限よりも短い文数で書くことを難しくすることはできそうです。それを例えば2文とかで書いていた場合には,内容的な点でのタスクのゴールを満たしていないということで減点することができます。そして,同じ文数でも…and…but…のように等位接続詞で文をつないでいるのか,Even though…,…のような従属節を使っているのか,the places where the students can learn…のように関係節を使っているのかで,文法知識の発達段階をみることができそうです。もちろん,節だけではなく,節を句で表すことができるかどうかというのも複雑さを上げるという意味ではポイントになります。ただし,特に主語位置でのnominalizationは文理解がしづらくなるので要注意と言われることもあります(https://owl.purdue.edu/owl/english_as_a_second_language/esl_students/nominalizations_and_subject_position.html)。

また,埼玉県入試問題のように,最低ラインがあるような場合でも,うまく比較できれば有益な知見を生み出すこともできるかもしれません。

例えば,3文という最低ラインの作文と,5文という最低ラインの作文を比較することを考えます。この時,もし産出される文数が減るのであれば,そのときに1文の統語的複雑さはどうなるのか,また,そのときにどのような手段で複雑さをあげるのか,というのは面白い観点になり得ます。もちろん,作文で求められる課題があまりにも異なっていると比較としての意味はなしませんが。

おわりに

この記事では,文の数を制限する(下限or上限)を設けるという操作と,それがどのような言語産出を誘発するのかということについて考えてみました。私はこの記事で,「複雑さ」とか「統語的複雑さ」といった用語を割とゆるく使いましたが,それが一体何なのか,そしてどういった指標でそれを捉えるのかといった問題は,それだけで本1冊が書けるくらいの研究領域になっています。よって,あまり安易にこの分野に足を踏み入れると危険ではあるのですが,文数の制限と言語産出というのは,教育的示唆にも繋げやすいかなと思うので,ライティングに興味のある院生さんがいたらぜひ掘り下げていってもらいたいなと思ったりもします。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

後輩の原稿を読んであげてほしい

はじめに

この記事は,主に現在大学院に在学していて,そして同じ大学院に(大きなくくりでの分野が同じ)先輩・後輩の関係があるような人(主に私の後輩なんですがそれ以外の人にも)向けで書いています。ただし,私が博士後期課程時代を過ごした環境はかなり特殊な環境だったので,どんなところでも実践可能なわけではないかもしれないという点だけご留意ください。

最近,発表や論文投稿などを意欲的に行っている後輩の話を聞いて,先輩が後輩の成果物が他の人の目に触れる前に見てあげるというようなことが私がいたときのようには行われていないのかなと感じることがありました。それはもったいないなと思うと同時に,きっといろんな要因があるかなと思うので,いくつか論点をあげてみたいと思います。

自分がどういう経験をしてきたか

私が所属していた大学院では,いわゆる講座制のような形で,ある研究室(ゼミ)に所属して,そのゼミのトップである教授のもとで研究を行っていくというスタイルではありませんでした。主の指導教官は決まっていても,その先生以外のゼミに出ることは当たり前に行われていて,縦と横の相互交流が非常に活発な環境でした。また,学生の自主性を尊重する土壌があったので,学生同士で縦に横につながって共同研究をすることもたくさんありました。一方で,先生主導で研究をやるということは私はほとんど経験しませんでした(別にこのことにまったく不満はないです念の為)。そうした環境だったからか,先輩が後輩の面倒を丁寧に見てあげるということも,明文化されないルールのようなものとしてありました。ゼミ発表前のレジュメチェックから,口頭発表申し込み前のアブストラクトのチェック,投稿論文のチェックなど,後輩は先輩にチェックをしてもらっていました。それだけにとどまらず,同期同士で見せあったり,ときには先輩(n=1)から読んでほしいと頼まれることもまれにありました。余談ですが,私が見聞きする範囲では,現所属先の研究科(厳密に言うと私は大学院の担当になっていないので私の所属は学部ですが)は人数もそこまで多くないのと,フルタイムの院生が多くないのでそういったことがあまり行われていないのかなと思いました。

後輩からしたら先輩にお願いはしづらい

普通に考えて,ただでさえ忙しそうに見える先輩ですし,自分の論文を読んでもらおうと思うのは躊躇して当然です。投稿論文はどこに投稿するかで長さは変わってきますが,それなりの量の論文をまず読んで理解しなければいけませんし,その問題点を指摘したり,質をあげるためのコメントをすることはそれなりに労力がかかることです。学年が近かったり,いつも行動をともにするような親密度があればハードルはいくらか下がるかもしれませんが,それでも後輩からは頼みづらいでしょう。

後輩の立場にある人に言いたいのは,先輩は忙しそうに見えるかもしれませんが,先輩だって後輩に頼られることは嬉しいことなので,勇気を出してお願いしてみてほしいということです。もちろん,締め切り直前に送るとか,「明日までにお願いします」みたいな無理なお願いはNGです。余裕を持って仕上げて,そしてある程度時間の猶予をもって「○○日が投稿の締め切りですので,○○日までにコメントいただければと思います」みたいな感じで依頼するのがいいでしょう。こうしたやりとりは1度ではなく,何度も繰り返せるのが理想的です。

先輩の立場にある人は,そういう後輩からの声のかけづらさを考慮して,積極的に後輩に声をかけてあげてほしいなと思います。「最近論文書いてる?」「今度の○○は投稿するの?」とか,そういう日常的な会話の中で後輩の事情を聞いてあげていれば,「実は今○○に投稿する論文を書いてるんです」みたいなことをもあるはずです。そうなったら,「投稿する前に送ってもらえたら読むよ~」とかって言ってあげれば,後輩が感じるハードルはぐっと下がるでしょう。

後輩の指導をするというのは自分のためになる

正直,自分が論文を書いていなかったら人の論文にコメントするなんてできませんよね。だからこそ,先輩は自分が論文を書いている姿を積極的に後輩に示してあげるとともに,自分が経験したことを少しでも後輩に還元できるようにしてほしいなと思います。もちろん,自分のことに使える時間を人のために費やすわけですから,めんどくさいと思ったりするかもしれません。ただ,私はこうしたことも次にあげる3点で研究者としての自分の成長に必ずつながると思っています。

1. 自分のこの先のキャリアで役に立つ

あまり将来の利益という観点で語るのは好きではありませんが,そういうことも2つあるかなと思います。1つは,大学教員で指導生を持ったとき。もう1つは,査読者になったときです。

普通,誰かの論文を見てコメントをするというのは指導生をもつ大学教員しかやらないような仕事だと思います。それを大学院時代に経験できるというのは,大学教員としてそのようなポジションについたときに間違いなく役に立つでしょう。また,論文をそれなりに書いていて,それなりに研究者として認知されるようになれば国内の学会誌であったり国際誌であったりの査読を頼まれることがあります。これも研究者の重要な責務の1つです。出版前の論文を読んで,論文の問題点,評価できるポイント,どうしたらもっと良くなるかを指摘するというのは,まさに査読者が行うことだと思います。研究者を目指すのであれば研究コミュニティへの貢献という観点でも良い査読者になったほうがいいに決まっていますので,人の論文を読んでコメントすることは査読者になるための練習でもあると思います。

2. 自分の論文を読む目線が変わる

1つ目のポイントは長期的な視点で役に立つという話でしたが,もちろん短期的にも人の論文を読むことの意味はあります。それは,人の論文を読むと論文をより客観的に自分の論文も読めるようになるということです。議論の流れがちぐはぐなことに気づいたり,結果の解釈の問題に気づいたり,本当にいろいろなところに「論文を書く」ということに対しての学習のポイントが転がっています。そういったことは,出版された論文を読むだけ,あるいは自分で書いた論文を読み直すだけではなかなか経験できません。後輩の論文を良くするためには何が必要なのか,ということを考えることは,必ずや自分の論文を良くすることにもつながってきます。そしてこれは,いままさに自分が書いている論文であったり,直近の未来に論文を書く際にも生きてくることなのです。

3. 自分の幅を広げる

自分の研究に関わる論文だけを読んでいたりすると,なかなか他の領域の話を読む機会に出会うことはできません。同じ分野の後輩といえど,自分とそこまで近い領域の研究ではない研究をしている後輩の論文を読めば,その領域のことを勉強する機会にもなります。そうすれば,自分の視野も広がりますし,少しメタ的な目線で複数の研究領域の関連性を考える機会にもなります。

これは私も院生時代に経験したことがあるのですが,ある程度研究テーマが決まってくるとどんどん細部にのめり込んでしまって,そこから派生的に別の研究テーマを生み出そうとしがちになってしまいます。そうすると,なんでその研究やっているのだろうとか,その研究が分野にどう貢献できるのだろうという視点を取ることが難しくなってきます。こういうときに,少し離れた分野の研究を読むと,その視点を1つ抽象的なレベルにもっていくことができると感じています。自分の専門と言える領域で一流を目指すのはもちろんですが,私が見ていて一流だなと感じる人は,その領域外についても豊富な知識を持っていて,やろうと思えばその領域で質の高い研究ができるだろうなという人です。これは私の個人的な意見ですが,そういう研究者って憧れませんか?

時間はかかるかもしれないが誰でも経験できることでもない

繰り返しになりますが,いくら自分にメリットがあるといっても時間はかかります。それは間違いありません。ただ,先輩と後輩の交流が活発に行われているという環境でなければ,そもそも後輩の研究論文を読むという機会はないわけです。そう考えると,どこの大学院でも,そして誰でもが経験できることではありません。自分を成長させてくれる機会が周りにあるのであれば,それは積極的に活かしてほしいなと思います。

ただ後輩の論文を読むだけではなく,一緒に共同研究をやるというのも非常に有効な手段でしょう。この話はまた別の機会にできれば書きたいなと思います。

おわりに

私はまだまだペーペーなので,こんな偉そうなことを言う立場でもないのは重々承知の上ですが,投稿前に論文を読み合う文化というのはそのコミュニティの研究力を上げるということを私は信じて疑わないので,こういう記事を書きました。研究ってやっぱり一人じゃできないというか。願わくば,私のところの研究科もそうやって活発になってほしいなぁと思っているのですが,私はまだまだそちらの運営に関わるほど偉くないので,いつかそういう仕事をするようなときが来たら,頑張りたいなと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

インプット仮説とアウトプット仮説ってそういうことか?

はじめに

Twitterに流れてきた下記の記事を読みました。

4技能の英語民間試験を大学入試に導入」の根拠とされる学習指導要領改訂のポイントとは?

入試にスピーキングだったりライティングだったりの産出技能を取り入れることに関連して,第二言語習得研究におけるインプット仮説とアウトプット仮説が紹介されています。そして,そこからアウトプットの重要性が導き出されます。この2つの紹介の仕方に語弊があるというか,当該記事の筆者と同様に第二言語習得研究を専門としている者として納得がいきませんでした。この記事でどこに語弊があって,なぜ納得がいっていないのかを書いておきたいと思います。私がここで取り上げる事自体は,上記記事の中心的話題というわけでは必ずしもないですが,理論的な援用がされていると考えられる部分に問題があるのではという意味で指摘する必要があると考えた次第です。

インプット・ファースト?

この記事ではインプット仮説はインプットの重要性を主張したもの,そしてそれに対比されるようにアウトプットの重要性を説いたのがアウトプット仮説だと紹介されています。それについては異論ありません。ただし,インプット仮説=「インプット ・ファースト」と表現することは語弊があると思います。つまり,インプット仮説とアウトプット仮説の対立は,

なぜ英語学習の早い時期からアウトプットが必要なのでしょう?最初はインプット(リスニング・リーディング)だけでは駄目なのでしょうか?

という問いに対する答えを与えてくれるようなものではないし,研究者たちもそのような主張をしているわけではないということです。

この2つの仮説の対立は,必ずしも「先にインプットがあってからアウトプット」ということではありません。言語習得にはまずはインプットというのは大前提の話なのでそこは否定しようがないはずで,アウトプット仮説を提唱したSwainもそのように主張したわけではありません。

インプット仮説はインプットのみ(正確にいうと理解可能なインプット)で習得がされるとした(注1)のに対して,アウトプット仮説は,インプット理解のみでは言語の形式面に注意を向けなくても意味の理解が可能な場合が多く,インプットのみでは限界があるということを指摘したわけです。この主張の背景にはカナダのイマージョン環境でフランス語を学ぶ学習者たちの存在がありました。イマージョン環境でフランス語を学び,フランス語を理解すること,そしてフランス語を使って対話相手に理解されることができるようにはなっても,産出技能ではまだ母語話者とは差があり,非母語話者としての痕跡が残ってしまったのです。この状態からさらに上のレベルに到達するためにはアウプットを通して言語の形式面に注意した処理が必要になるのではないかというのがSwainの考えでした。

初期段階からアウトプットも大事だという主張には同意

私も,学習の初期段階でアウトプットをさせるべきではないとは思っていませんし,インプットだけで良いとは思っていません。インプット・ファーストの原則は守りながらも,アウトプットもさせれば良いだけです。このことを,学校の授業展開を例に取って考えてみましょう。

マクロな視点で見た時に,例えば最初の3年間はインプットしかやらず、その後3年間でアウトプットだけやるというのが「インプット・ファースト」であれば,私は反対です。また,これの方がいいという研究者もあまりいないのではないでしょうか。

大事なことは,インプットの方が簡単だから先でアウトプットの方が難しいから後なのではないということです。インプットにも,アウトプットにも,難易度の差はあるわけです。つまり,簡単なインプットがあれば難しいインプットもあり,簡単なアウトプットもあれば,難しいアウトプットもあるということです。私が大事だと考えるのは,簡単なインプット→簡単なアウトプットという難易度の順番です。つまり,インプット→アウトプットということだけではなく,まずは難易度の低いものから徐々に難しいものへという大きな流れも考える必要があるのです。この点において,私は学習の初期段階でもアウトプットさせることは可能だし,むしろ学習者のレベルにあっているのであればどんどんさせていいと思っています。

ミクロなレベルでの授業の構成では,インプット->アウトプットになることは十分にありえますし,むしろアウトプットを取り入れている授業のほとんどはこうした形態になっているのではないでしょうか。例えば最初の1時間目はインプット,2時間目はアウトプットというように「インプット・ファースト」になっていることは当然あるでしょう。あるいは1時間の中で最初の30分はインプットでその後の30分でアウトプットということもあるかもしれません。そして,このことを私は何ら間違っているとは思っていません。むしろ,「インプット・ファースト」は大原則であるとさえ思っています。

「インプット・ファースト」とPPPは違う

ただしここで注意したいのは,このインプットからアウトプットという流れは,必ずしも直前に受けたインプットがその場で習得されてその直後のアウトプットで完璧な形で表出すると想定しているわけではないということです。Presentation, Practice, Production (PPP)の授業構成のように,その日に教えた文法をその日のうちに正しく産出させるような考え方を私は採用しません。むしろ,第二言語の発達はある側面を1回または数回の授業で完璧にして,完璧である側面を増やしていくのではなく,不完全ではあるけれども総体としての形を作っていくという過程を辿るからです。このような考え方でいくと,次の記述にも同意できません。

「インプット・ファースト派は「まずはしっかりと文法を理解してから、アウトプットの練習をしよう」と考えます。

前述のように,ミクロな視点でインプットは先にすべしという考え方を「インプット・ファースト派」と呼ぶのであれば,私は間違いなく「インプット・ファースト派」だと思います。しかしながら,私は「まずはしっかりと文法を理解してからアウトプットの練習をしよう」などとは考えません。これは過去に書いたいくつかのブログ記事であったり,下記の本に収録されている拙稿を読んでいただければわかるかと思います。

タスク・ベースの英語指導―TBLTの理解と実践 

まとめ

ここまでの議論から明らかなように,上記記事中のインプット仮説・アウトプット仮説の説明の仕方は,学術的に不適切であると言えます。一般向けに書かれた記事ですので,ある程度噛み砕いて説明する必要があったことは十分に理解できますが,それでも上記記事は読者にインプット仮説を誤った形で伝えています(注2)。

「インプット・ファースト」はインプット仮説の主張のことを指しているのではなく,私の主張は誤読に基づいているという反論もあり得るかもしれません。しかしながら,それはかなり無理筋でしょう。インプット仮説を紹介する節の最後に、「この『インプット・ファースト』の法則」と書いてあるにもかかわらず,「この『インプット・ファースト』の法則」がインプット仮説を指しているわけではないと読むほうが困難です。だとすれば,「この『インプット・ファースト』の法則」の「この」が指しているのはなんでしょうか。

おわりに

「第二言語習得研究者のコミュニティはあまり身内の批判をしないけれど,誤ったものを誤っていると指摘することも研究者の大事な責務である」,というような話を寺沢さんとポッドキャスト収録で話したので,今回はこういった記事を書きました(注3)。それ以上でもそれ以下でもありません。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

 

注1.英語ではcomprehensible inputと言いますが、これも抽象的な概念なので、実際に何が学習者にとってのcomprehensible inputとなるのかとかを操作的に定義するのは結構難しいという問題があります。ここではこの問題には触れません。また,インプット仮説の意義はこれだけではなくて,習得(acquisition)と学習(learning)を分けたというところにもあると個人的には思っています。詳しくはまた別の機会に論じたいと思いますが,このような考え方自体は形を変えて今でも受け継がれているといえると思います。例えば,明示的・暗示的知識もこの流れでしょう。

注2.アウトプット仮説の説明自体(気づきと文法の意識化の話など)は問題ないかと思いますが,インプット仮説との対比の仕方は語弊があると思います。

注3.英語教育2.2CAST2月号ではこの話にはなっていませんが,寺沢さんとの対談の最終回にこの話をしています。

 

「英語教育を変えたい」みたいな素朴信念の先へ

はじめに

昔から,「そんなの研究じゃない」って思うような発表をいろいろな場所で見たり聞いたりして,そのたびに「問題点がどこにあるか」を指摘することは容易にできたし,してきていたという自負があります。しかしながら,なぜそういう発表があるのか,どうして「そんなの研究じゃない」と私が(そしておそらくは多くのちゃんと研究している人が)思ってしまうことを「研究だ」と思い込んでしまうのかについてはあまり深く考えたことがありませんでした。このことについて考えてみると,その一因は英語教育についての素朴な信念なのかもしれないと思うに至りました。以下,英語教育系の研究を始めようと思う学部生や大学院生の方に特に読んでほしいなと思いながら書きます(※ただ,書き始めたらただのナラティブみたいになったので研究の参考にしようという気持ちであまり期待せず暇つぶし程度に読んでください)。

B4的全能感

英語教育系で,大学の学部生くらいまたは大学院に入りたての修士1年生くらいで,ちょっと研究に興味出てきたくらいの頃って,「日本の英語教育を変えたい」みたいな素朴な信念を持つことってよくあると思うんです。ほとんどは自分の受けてきた英語教育の経験だったり自分が見聞きする範囲の話だったりあとは世間一般で根拠もなく言われるような話に基づいてるようなものです。私はその素朴な信念を持つようになることって発達段階みたいなもので,誰しも(は言い過ぎだとしても多くの人が)通るようなものだと思うのです。かくいう私も恥ずかしながら,学部を卒業して修士号取得のためにアメリカに行った時はまさにそういうことを本気で思っていた時期がありました。

日本の英語教育はてんでダメだ。教え方が間違ってるんだ。そして入試がいけないんだ。

みたいなやつです(注1)。もっといい教え方をしたら,もっと入試が変わったら,日本の英語教育は良くなるに違いないみたいなの。もしこれを読んでくださっている方が学部生や大学院生だとしたら,そういうことを思っていたりしているかもしれません(その事自体は私は「発達段階」だと思っているので全く悪いことだと思っていません)。また,「確かに昔はそんなこと思っていた時期もあったなぁ」みたいなことを思っているオトナの方もいるかもしれません。これってB4的全能感みたいなものかなと。

私は特に身近に英語教育の大学院生が活発に研究しているような学部に所属しておらず,そしてそもそも大学院生の人がどんな研究しているのかすら知る機会はありませんでした(あったのかもしれませんがおそらく当時はあまり興味もなかったので覚えていないのだと思います)。そういう中で,「大学院に行く」と決意したくらいですから,周りの学部4年生よりも自分には知識があると思いこんでいました。少しは,本当に少しは本を読んでいたし,ゼミでも結構鋭い意見を出す学生っていう自意識みたいなのもあったんです。うぬぼれですね。今振り返ると。いや,素朴信念を持っている人がすべてそういう人だと言いたいわけではないのです。ただ,「英語教育を変えたい」みたいなことを思うのって,「英語教育がだめだという認識」と「英語教育を変えられる、そして変えた方が絶対に良いという認識」の2つから来ていると私は思っています。この2つについて詳しく解きほぐすみたいなことをやっていると日が暮れてしまうのでここではやりませんが,結論からいうとどっちの認識についても「そんな簡単な問題じゃあねぇよ」っていう話なのです。そのことに気づける機会があった(ある)のかどうか,というのが大きいのではないかなと思います。

私の昔話

えらそうなこと書いていますが,前述の通り私も「素朴英語教育改革論者」みたいなこと言ってたんですね。むかーしむかしは。このブログのメニューにあるTogetterまとめで過去のものを見てもらうと,そのことが少しはわかるかなと思います。そのような過去をもつ私が,今客観的に当時の自分を振り返ることができるのはなぜなのか,という話を少しさせてください。

私は,2011年にTwitterを初めて,当時はTwitterでフォロワー数増やしたいみたいな願望持っていました。そこで,どうやったらTwitterでフォロワー数増やせるかなとか思って調べていたときに,誰が言ってたのかもはや思い出せないのですが「Twitterのプロフィール欄にはデカイ夢を書け」みたいなアドバイスを読んだんです。それを思いっきり真に受けた私は「日本の英語教育を変えたい」とかってプロフィール欄に書いてたんですね。いや,若かったからとかでは片付けられないくらい恥ずかしくて,おええええええええええって感じになりますね。その当時のことを知っている方からは,今でも当時のことをいじられることが今でもよくあります。

話が少し脱線しましたが,私はそうやってTwitterというメディアで恥ずかしげもなく「英語教育をがえだい!!!」って叫んでいたわけです。一方で,その今となっては恥ずかしい過去というのが,実は幸いなことだったなと思うこともあるのです。それはなぜかといえば,私が持っていた「英語教育をがえだい!!!」みたいな素朴な信念に対して「いや,世の中そんな単純じゃあねぇよ」と言ってくれる大人の人がたくさんいたからなんですね。名前はあえて出しませんけども色々な人とやりとりして,言語政策の本を読んでみたらとか,言語帝国主義の本を読んでみたらとか言われて(注2),「そうか俺は何も知らないのに意気がってたんだ」みたいになるわけです。自分の視野が狭すぎるってことに,全然気づいてなかったんです(注3)。

素朴さに気づけないと…

私は運良く,自分が抱いていたような英語教育に対する思いがすごく素朴な信念であることに気づくことができました。ところが,その素朴信念を相対化する機会に恵まれないままに大学院に進んで研究を始める人も当然ながらいて,そういう人ってたいてい「◯◯の効果」みたいな研究をやりたいというようなケースが多いような気がしています(具体例挙げると誰かの個人的批判になりかねないのでなにか具体的な指導法とかを◯◯に入れてご想像ください)。オブラートに包まずにいうと,自分が信仰しているやり方に対して「科学的な」根拠を与えたいタイプの人が多いというのが勝手なイメージです。別に実践的な示唆を目指したい研究がダメとかではありません。例えば,フィードバックの研究とかって最初は実践的な疑問から生まれてきてますよね。そして分野の1領域を形成するような大きなフィールドになった。「明示的指導」なんかもそうだと思います。

でも,たいてい「自分の興味あること」から出発する研究って研究と呼べる代物にならないことが多い気がします。というか,最初からバイアスかかってないですか?というのは常に問いたいです。例えば、「シャドーイングの効果に興味あります」という人がいたとき、「シャドーイングに効果があると思ってるからそれを確かめたい」って思ってませんか?って。自分が信じてることと逆の結果が出たときに、信じてることが支持された時と同じ態度で論文書けますか?っていうことですね。そういう中立的な態度って結構大事だと個人的には思っています。

自分の関心と分野の関心の往復運動をしながら研究課題を見つけられるといいのですが,あまりにも前者ドリブンすぎると独りよがりになるというか。もちろん、実践研究みたいなものもあるのでそういうアプローチを否定したりはしないのですが。

まとまらないけど

 全くまとまらないんですが,何かを変えようと思って簡単に変わるものじゃないし,その理由がいくつかの個別の要因に還元できるほど世の中単純になってないよねってことを頭の片隅に入れておくことって大事だと思うんです。それから,とにかく自分の持ってる素朴な信念を相対化する意識を持っていることも大事なんじゃないかなと。うまく言葉にできている自信はないんですが,まあたまにはこういうまとまりのない話でも公開してしまいます。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注1. これこじらせたままオトナになってしまった人もまれに見るのですが,そういう人はあまり研究の舞台で目立つことはないのでとりあえず置いておきます。

注2. 金髪の写真をアイコンにしたよくわかんねぇ若者が「英語教育をがえだい!!!」とかいって絡んでも,おすすめの本を教えてくれるほどに当時のTwitterはまだいいところだったんですね。今だったらブロックされているかもしれないところです。それから,自分がいま若い時の自分みたいな人を見た時,自分がしてもらったような対応できるかと言われると自信はないです。

注3. 自分で自分を少しだけかばうと,そうやって言われて素直に本買って読むくらいには真面目だったんです。

2019SLRFで発表します

実は海外の学会で口頭するの初めてです。そもそも口頭発表自体がだいぶ久しぶりなので結構緊張しています。スライドの細かいところは多分直前までいじるので変更があるかと思いますが,Github上に資料を置いています。

https://github.com/tam07pb915/2019SLRF

前にJSLARFで喋った博論の話なんでJSLARFにいた方は発表会場立入禁止ですが,資料とかもオープンにしてなかったので個人的には今回が初公開っていう感じです(もちろんウェブには博論の要旨が公開されてるんですが)。JSLARFで喋った時は実験2つの話をざっくりしたのですが,今回はそのうちの1つの実験だけについてで,もう少し先行研究とのつながりをメインに話せるかなと思っています。サラミしているというよりは,投稿する論文にするときにうまく1つにコンパクトにまとめるのが難しく,実験1つで1本の投稿論文として出そうと思うにいたったため,1つの実験だけでストーリーになるようにしているつもりです。したがって,博論全体のストーリーとはちょっと違います。

学期開始直前でガンガンメールがくるし帰国までにやらないといけないこともどんどん増えてきているので,発表終わったら引きこもりすることになるかと思いますが,どうかご理解くださいますようお願い申し上げますm(_ _)m

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

「知っている」事の影響を排除するための2つのアプローチ

思いついたことを書き留めておくだけのメモ記事です。粗いところもあるかもしれませんがご容赦ください。

「狭義の」(文法の)第二言語習得研究が目指していることは,母語話者が持っているのと同じ知識を第二言語学習者も身につけることができるのか,できるとすればそれはなぜか,できないとすればそれはなぜか,というのが分野の抽象的で大きな問いであるというのがざっくりとした私の理解です。

で,この問いに迫ろうとしたときに問題となるのが,いかにして「知っている」ことの影響を排除するのかなという点です。母語話者は基本的には言語の規則を意識的には知らない(説明はできない)という状態で,でもある法則に従って規則的な振る舞いをするわけですよね。その規則的な振る舞いを言語理論で説明しようというわけです。そういうことを見ようとすると,学習者が意識的に知っていること(言葉で規則を説明できること)を対象にしていては意味がないじゃん,ということになります。知っているだろうよ,というような現象を対象としている限り,「知っている」からできるという可能性を排除することができません。よって,習っているはずもないのに母語話者と同じような振る舞いを見せる現象があるよ,とか,あるいはそれが第一言語によって同じような振る舞いを見せたり見せなかったりするよ,というような方向性で研究をデザインしていくことになります。そして,それを生成文法の理論から予測していこうとすると。生成ベースの第二言語習得研究をやっている人たちの基本的な考え方はそういうことなのかなというのが私の個人的な印象です(もちろんそうじゃない人もいるとは思いますけれど)。

一方で,SLAの初期からずっとSLA研究者が関心を持ち続けてきたことは,「知っている(=規則は説明できる)のにも関わらず,産出などをさせると間違いが頻繁に起こってしまう」という第二言語学習者に典型的な現象についてどのような説明を与えるのか,ということです。この関心を説明するために生まれたのが,明示的・暗示的という2つの知識源を仮定する考え方でしょう。つまり,知っている=明示的知識はあるけれども,産出などの課題で主に使用されると考えられている暗示的知識が不十分であるために,誤りが生じてしまうというようなロジックです。この考え方でいくと,そもそもの出発点が「知っているのにできない文法項目」(典型的なのが三単現の-s)の振る舞いについての説明を与えることになります。よって,知っていることの影響を排除しようとしたときに,「習っていないであろう項目を対象とする」という理論ベースの考え方は採用されえません。そこでどうなるかというと,測定の方法としてできるだけ「知っている知識」が作動しないような課題を用いるというアプローチを取ることになります。文法性判断課題に時間制限をつけたり,elicited imitationを使ったり,その後の反応時間パラダイム(自己ペース読み課題やword monitoring課題)や視線計測,そして脳系の測定具を使うというように,測定具によって「知っている」ことの影響を排除しようとしてきた,というのがもう一つのアプローチとしてあるのかなと考えています。

私も最初の関心は後者のアプローチにあり,どうすれば明示的知識の干渉を抑えた知識の測定ができるのか,という点にありました。ところが,それでは拉致があかない部分もあります。明示的・暗示的知識系の研究の重大な欠陥だと思っている部分で,それは,「意識的かどうか」についてを直接的に測定してこなかった(できなかった)という点です。反応時間や視線計測というパラダイムを用いたとしても,何らかの反応の違いが観察されたときに,それが「おやっ?」という意識にのぼるレベルの知識を使ったから反応時間や注視時間が長くなったのか,はたまた自分では全く気づいてもいなかったけれどもそうなってしまったのか,については測定していませんでした。よって,暗黙の了解として「反応時間や注視時間の条件間差は無意識なものである」だとか,「因子分析したら文法性判断や誤り訂正課題とは違う因子にローディングするからと自己ペース読み課題や視線計測で測られているものは暗示的知識であるのだ,みたいな想定をしてきたんですよね。それってなんかちょっとそこを当然のことのように受け入れちゃってもいいのかしら。という疑問が生まれてくるわけです。そういうこともあって,私が博士後期課程時代に扱ってきた文法現象は(もちろんこれは草薙さんの影響を大いに受けているのですが),どちらかというと前者の「知っているはずもないような文法」を対象にしているものが多くなっていきました。今必死にディスカッションを書いているthere構文の数の一致 (当時はこれも明示・暗示に当てはめようとしてたんですが今は違う方向性で書こうとしてます)だったり,tough構文の研究  なんかはまさにそういうことだったと言えます。conceptual numberの研究(これは言語習得よりは文処理ですが)も,「そんなことは習っているはずもないけどなんかガーデンパス回避しちゃう」というような話でもあります。

別にどちらがいいとか悪いとかいうわけではないのですが,同じように第二言語の文法習得を対象にしている研究で,「知っていることの影響をできるだけ排除したい」という目的は共有していたとしても,そのときに知っているはずもない現象を対象とするのか,はたまた当然知っているだろうというような現象を扱って測定具の工夫によって知っているという知識の干渉を極力抑えるというアプローチに行くのか,そういう違いが出てくるのは結構興味深いことなんじゃないかなぁということを考えたのでした。

もちろん,これはただの思いつきなので,そもそもの前提が間違っているとか,2つのアプローチは別に同じ方向を向いているわけではないとか色々あるかもしれませんが,こういう整理の仕方ってどうですか?というような投げかけ的な記事でした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

文法知識の手続き化の謎(Sato and Kimのレビュー)

下記論文を読んでちょっとしたレビューというか考えたことを書き留めておこうと思います。

Sato, M., & McDonough, K. (2019). Practice is important but how about its quality? Contextualized practice in the classroom. Studies in Second Language Acquisition. Advance Online Publication. doi:10.1017/S0272263119000159

ざっくりとした内容は,WH疑問文の習得について,教室内で教師とのやりとりという形での”practice”を5週に渡って繰り返していくと,当該項目の手続き化が起こるかどうかという話です。従属変数は正確さと流暢さという2つの側面。それから,練習セッション前の段階での宣言的知識が,練習での伸びとか練習後の正確さを予測するかというのも研究課題です。

宣言的記憶,手続き的記憶,手続き化

本当は,この辺の用語の説明省こうと思っていましたが,やはり自分の理解と論文でどういう捉え方しているかを照らし合わせたほうがいいと思ったのでこの節では用語の理解の確認をします(そもそもそんなものが必要な概念ってなんなのってなりますけど)。論文に書かれている内容自体に興味があるという方は読み飛ばしてください。

宣言的記憶(declarative memory)は,規則に対する(または規則そのものの)知識であると言われています。キーボードのタイピングの例(嫌いな人は嫌いな例ですけど)でいえば,キーの位置の規則といえばいいでしょうか。または,どのキーをどの指で押下するかという知識と言ってもいいかもしれません。タイピングに慣れないうちは,意識しながらキーの位置を確認して押下しますし,スピードもゆっくりですよね。それが,タイピングの練習を重ねるに連れて,だんだんキーの位置がわかってきて,指の使い方も慣れてくるので押し間違いが減ってスピードがあがると思います。これをスキル習得理論から捉えれば,宣言的記憶から手続き的記憶(procedural memory)に頼った行動に徐々に変化しているということになります。これが手続き化と呼ばれるものです。そして,その状態でさらに練習を続けていけば,キーの位置を確認しなくても「体が覚えている」状態になると思います。いわゆる「ブラインドタッチ」みたいなものができるようになるわけですよね。これが自動化(automatization)です。

手続き化というのはこの論文では,なんらかの行動の正確さとスピードが向上することとであると解釈していいと思います。冒頭のイントロでそのような説明がされているので。同じ行動を何度も繰り返す(練習を重ねる)ことによって,ある行動の正確さとスピードが向上するということです。スキル習得理論(Skill Acquisition Theory)はここでいう正確さとスピードの向上というのが,頭の中のシステム自体の変容だと捉えます。つまり,宣言的記憶(declarative memory)に頼った状態から徐々に手続き的記憶(procedural memory)に移行する,これを手続き化(proceduralization)と呼びます。

宣言的知識はあったのか

さて,論文の内容に入っていきます。私がこの論文で一番もやっとしたところは,宣言的知識・手続き的知識というスキル習得理論を理論的枠組として援用ているにもかかわらず,宣言的知識とは何を指すか,そして手続き化とはどのようなプロセスかといったようなことを無視して無理やり結果を解釈しようとしている点です。

まず,知識の手続き化には宣言的知識を持っていることが不可欠です。宣言的知識を持った状態で練習を重ねることにより手続き的知識を獲得し,それが自動化していくというのがこの理論のベースにあるからです。だとすれば,宣言的知識のテストで宣言的知識を学習者が持っていることを事前に確かめる必要があるでしょう(もちろん,実際にテストはやっています)。ここにばらつきがなければそもそも回帰分析もうまくいかないはずなので,ある程度ばらつきがある学習者を対象にするというのはわかります。そうは言っても,事前の宣言的知識テストのスコアの平均値は59%SD25.12です。正規性の逸脱はしていないという報告があるので正規分布だと仮定すると,半分以下しか正答できなかった学習者もいると考えられます(注1)。そして,平均値で59%も決して高いとは言えませんよね。そのようなテストスコアしかなかった学習者は,果たしてどうやって手続き化したのでしょうか。というか,そもそも手続き化できたと言っていいのでしょうか。Wh疑問文の生成にはwhの移動やsubject-auxiliary inversion, 一般動詞の場合はdo挿入もあります。これらが複雑に組み合わさる文法だからこそ,その中のどの部分の知識はあってどの部分の知識はないのかがわからないと,何の宣言的知識があったのかやその手続き化もブラックボックス化してしまうのではないかと思いました。

行われたcontextualized practiceについて

疑問文の産出をある程度コントロールしながら教室内で意味のあるやり取りを,というのはわかります。その中で最大限できることをやったのだということも。ただ,画像とともに疑問詞が一緒に提示されて,それをもとに疑問文の産出が行われたというのはちょっと引っかかります。あくまで”practice”だからと言われたら何も言い返せませんが,コンテクストを大事にするということをauthenticityを大事にするということだと理解して読み進めた私からすると,それが”contextualized”かあという感想になります。結局,疑問文の生成にかなり意識を集中させることが可能であるという状況での口頭産出練習活動ということですね。結果的には,そういった状況で練習を重ね,ある程度その効果があったとしても,最終的に正確性は65%程度にしかならなかったのだというのは結果を解釈する上で重要なポイントでしょう。

それから,宣言的知識の影響を調べる分析では5回のセッションのうちの2, 3, 4が合計されて1と5は省くという処置をしたということが書いてあったのですが,”so as to avoid the independence of observation for the inferencial statistics”(p.13)というロジックがよくわかりませんでした。隔週でタスクの内容が異なるので,これやるとそのバランスが崩れてしまうのではと思いました。まあそこに突っ込むとそもそも複数クラスでタスクの順番のカウンターバランスとか取っているわけでもないので,ここで言われている流暢さや正確さの発達が単純に時系列の変動だけによるものとは言えないでしょう。タスクのタイプやそこで扱われたテーマによる変動も含まれているはずです。

また,対照群の設定もありませんので,研究自体はケーススタディとして扱われるべきものかと思います。「教室環境だから仕方ない」だけでこのあたりの実験デザインの粗さにすべて目をつむっていいわけではないと個人的には思いますので,今後別のデータでも同様の研究が重ねられていくといいのかなと思います。

事前の宣言的知識の手続き化への影響

結果で,練習前に行った宣言的知識のテストスコアは正確さや流暢さの発達を予測しなかったということが言われています。つまり、事前の宣言的知識を測る文法テストのスコアが高ければ高いほど正確さや流暢さが伸びやすい、あるいはスコアが低ければ低いほど伸びないという現象やその逆で高ければ伸びにくい、低ければ伸びやすいというような関係性がみられなかったということになります。このことを、著者らは次のように解釈しています。少し長いですが引用します。

Interestingly, the scores of the declarative knowledge test, administered prior to engaging in contextualized practice, did not predict the extent of the practice effect on accuracy or fluency changes. This result indicates that having declarative knowledge of a grammatical structure may not be related to the development of the procedural system of that structure when practice is considered as the cause of the changes. Accordingly, it could be said that contextualized practice alone facilitates a positive change in accuracy, on the one hand. On the other hand, the result seems to challenge skill acquisition theory in that learners may not need an explicit understanding of a grammatical structure to benefit from contextualized practice. However, in the current study, all learners possessed some declarative knowledge of the target structure. Hence, it is premature to argue that practice alone is sufficient to develop procedural memory of a grammatical structure. What the results suggest is, instead, that the amount of declarative knowledge was not related to the extent to which each learner benefited from practice (p.21).

事前の文法テストスコアとの相関がなかったことは、知識がなくても練習すれば良いということは意味しないという主張です。その根拠として、参加者の知識がゼロではなかったからと言っています。つまり、なんらかの知識は持った状態で練習をすることの意味はあるということです。ただし、どのくらい知識を持っているかは関係ないとも言っています。しかしながら,これは矛盾していると思います。これをサポートするには、知識の閾値みたいなものを想定する必要があるでしょう。つまり,知識がないとダメであり、かつ知識の量が関係ないとすれば、ある一定程度の知識が必要で、その先のレベルの知識は関係ないという想定になるはずです。そうるすと,その閾値とはどこなのか,その閾値が意味することはなにか,が重要になってきます。これを突き詰めると,前述した宣言的知識のテストスコアの解釈や,それが何を測っているのかという問題に再びぶつかるわけです。

まとめ

まとめると,Sato and Kim (2019)はタイトルがちょっと煽りすぎでは?と思います。確かに,practiceといっても機械的な口頭産出練習じゃだめだ,もっと文脈依存でコミュニカティブなインタラクションの中での練習でなくては,という主張自体はわかりますし,そのことを文法知識の手続き化という理論的な枠組みを当てはめて研究に落とし込んだのは面白いと思いました。ただ,宣言的な文法知識とはいったい何なのか,そして文法的知識が手続き化するとはどういうことなのか,という部分が分野として確立されたものが提示しづらいところが原因で疑問が色々浮かぶ研究かなというのが個人的な感想です。こういうところに失望して教室SLA研究を「研究」としてやることに対しての意欲を自分は失ったんだなぁと再確認することとなりました。論文を読んでからずっと放置していて公開までに3ヶ月かかってしまいましたが,とりあえず,私がこの論文を読んだ感想はそんなところです。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

 

注1: Rのrnorm関数を使い,n = 34, m = 59, sd = 25.1として乱数を発生させ,その中で50を下回る人数を数えるというのを10,000回繰り返すと,中央値は12人,最小値は3人,最大値は20人でした。