カテゴリー別アーカイブ: 研究

[R] sjPlotパッケージのバージョンアップ

Rで回帰モデルの図示をするときに私が使うパッケージは主に2つあって,1つはeffectsパッケージ,もう一つはsjPlotパッケージです。前者については,以前NagoyRで発表したことがあります。

effectsパッケージを用いた一般化線形モデルの可視化

後者は,lm, glm, lmer, glmerなどの関数で作った回帰モデルの結果が入ったオブジェクトを渡すと,その結果をggplot2に渡して可視化してくれます(その他にもいろんな可視化が可能ですが,私が使うのは主に回帰モデルの可視化です)。昔(数年前)までは,sjp.lm,sjp.glm,sjp.lmer,sjp.glmerなど,もとの回帰モデルに合わせて図示する際の関数を選ぶ仕様になっていました。そして,交互作用図を描きたいときは,sjp.int関数を使うというような。それが,最新版のsjPlotパッケージでは,これらの関数がなくなりすべてplot_modelという関数に統一されているようです(下記のサイトによると2017年10月にこの変更があったようです)。使用例は以下のサイトが参考になります。

„One function to rule them all“ – visualization of regression models in #rstats w/ #sjPlot

交互作用図は,type引数でintにするか,またはtypeをpredにして,termsで交互作用を指定するようです。

plot_model(fit, type=”int”)

or

plot_model(fit, type =”pred”, terms =c (“test”, “group”))

みたいな感じです。これについては,下記のページが参考になります。

 

Plotting Interaction Effects of Regression Models

より詳細な引数の説明などは以下のページに書いてあります(RDocumentationのページ)。

plot_model function | R Documentation

D院生のときに書いたスクリプトではGLMMの結果の可視化にsjp.glmerとかsjp.intを使っていたので,それらが動かなくなっていました。調べたらこういう仕様の変更があったと。一つの関数で,引数の組み合わせで色々な図が描けるというのは便利でいいですね。ただ,テーブル形式(HTML)で回帰モデルの結果を出力するsjt.lm系の関数は,lm, glmなどと組み合わせて,sjt.lm, sjt.glm, sjt.glmer, sjt.lmerなどのままのようです。

それから,最近lme4のモデル式の書き方でstanを使ったベイズ推定ができるbrmsというパッケージを知った(遅い)のですが,plot_model()はbrmsパッケージのモデルにも対応しているようです。まだ試してはいないので,いつかまたブログに書こうかなと思います。

では。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

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キソケンとはなんだったか

外国語教育メディア学会中部支部外国語教育基礎研究部会(以下,キソケン)の2017年度報告論集が発行されました。

2017年度報告論集

私も一応まだ運営に携わっていますので,まずは報告論集を今年度も無事に発行できたことにホッとしています。この報告論集には,部会長が書く巻頭言が毎号あります(私も2015年度2016年度の報告論集で巻頭言を書きました)。今年度の巻頭言のタイトルは「基礎研の未来」でした。

キソケンに定期的に参加する人数が減っていることや,運営を担える部会員が減っていることなどから,規模の縮小はやむを得ない,という部会長の決断を文章として目の当たりにし,残念な気持ちになりました。ただ,その判断自体は尊重しているので,これからのキソケンのあり方について,現実的なビジョンが今後見えてくるといいなと思っています。

さて,今日はそんなキソケンは私にとってなんだったのかというお話です(長いです)。本題に入る前に,「キソケンってなに?」という方に少しだけキソケンの説明をしたいと思います。知っているよという方は読み飛ばしていただいて構いません。キソケンはもともと院生中心の勉強会だったものを学会の支部所属の研究部会として立ち上げたことが始まりと言われています(始まったときにはいなかったので伝聞です)。研究部会になると,部会の活動費として年間1万円,研究部会で発表することで支部紀要の投稿権が得られるなどのメリットがあります。また何よりも,勉強会は自らの意志で継続的に活動することが難しく,立ち上がっては消え,立ち上がっては消えを繰り返すことにしないためにも,研究部会という名目で活動していたというのも大きな理由だったと聞いています(はじまったとk)。この最後の意味では,キソケンがあることで,外国語教育の基礎的な事を勉強する場ができ,学年や大学を超えたネットワークも広がるなど,規模は小さくとも続けていくことにメリットはあると思っています。

で,私にとってのキソケンは,なんでもできる公園みたいなところでした。(比喩的な意味での)学校のグラウンドはやれ野球やサッカーなどの球技はダメだ,関係者以外は立入禁止だ,など色々な制限があります。でも,キソケンでは野球もできればサッカーもできる。自分たちが来てほしいと思う人たちに来てもらえる。そういう場所だったように感じています。

具体的に言えば,年次例会の基調講演あるいは不定期開催の特別セミナーで話を聞きたい先生をお呼びすることができるというのは,個人ではなかなか難しいことです。研究部会の例会の基調講演という名目があるからこそ,自分たちが話を聞きたい先生方をお呼びして60-90分のお話を聞けるのです。しかも無料で。これには,第2回年次例会以降,リアリーイングリッシュ株式会社様,第5回年次例会ではセンゲージ ラーニング株式会社にもご支援いただいたおかげです。「呼びたい先生を呼べる」ということの裏側で,「大学院生がここまでやるかぁ」というようなお腹の痛いメールのやりとりや懇親会でのやりとりを何度もしたことは事実です。

また,会場の問題もありました。学会目的での使用には使用料が発生する大学も最近では多く,部会費の数倍の会場費が必要となるということもありました。研究費で拠出することもできず,誰かが自腹を切ってまでそんなことやるのか?とも思いますし,かといって会場費がかからないからという理由で日々の業務でお忙しい先生に「会場を使わせていただきたい」というのも忍びないし,会場設営などをお手伝いいただいたりするのも申し訳ない。そんな状況でした。

つまり,「割と背伸びしすぎた」しわ寄せが下の世代にいってしまったのでした。私としては,背伸びしていて足攣りそうだったとも思いますが,それもポジティブにとらえています。院生がこんな経験はなかなかできないし,そういう経験をしたことが今後にも生きてくるだろうというように。いずれは「大学院生だから」というお守りもなくなってしまうわけで,そのときに強く生きていけるだけの力はついたのかなと思います。とはいっても,その負担が開催して得られるメリットよりも大きいと感じられるのなら,あえて負担しなくてもよいことでしょう。その時間で別の生産的なことはいくらでもできるでしょうから。

「なんでもできる場所」ということについては,自分の中にあった問題意識を形にできる場所というのもありました。「自己満足」と言われれば「そうでしたすみませんでした」という他ないのですが,第4回の若手シンポジウム,第5回のキャリアパス座談会は,私がやりたいと思っていたことを形にしたものです。どちらも,早稲田大学の石井雄隆先生に多大なご尽力をいただきました。若手シンポジウムは,自分たち世代(80年代後半生まれ世代)が教育実践を語る場を作りたかったというものです。学会での研究発表は院生時代から盛んにやられていても,自身の教育実践について発表する機会はあまり多くないように思っていたからです。ですが,そういう若手でも授業運営については信念をもって取り組んでいるはずで,そのことを話す機会を作りたかったのです(実は最初は若手論者バトル的なことを考えていましたけど)。はじめから狙っていたわけではありませんが,結果的に若手シンポジウムの登壇者が大修館の『英語教育』でリレー連載をすることになり,「やってよかったな」とホッとしました。キャリアパスについても,企画していた時点では「そういう話は表立ってしづらいし,表立ってできることはあまり役に立たない」みたいな意見をいただくこともありました。実際にやってみて,当日はフロアからやウェブ上でのコメントも活発でした。報告論集に書き起こし原稿を載せてありますので,そちらの反応はこれからかなと。私としては,関係者の皆様にご協力いただいたことに感謝しつつ,それでもやって無意味だったというような評価はしていません。もちろんもっと良く出来たかもしれませんが。

最後に,報告論集についても,「書きたいことを書いて載せられた」という点で自分にとっては良かったです。私は2014年度から2016年度まで,つまり私が博士後期課程に在籍している間は毎年1本を報告論集に投稿していました。キソケンの報告論集は査読なし扱いなので,査読なしだから出しても意味がないというように思う人もいるかもしれません。それはそれで有りだと思います。ただ,私にとってはだからこそ,「書いて残しておきたいもの」ではあるけれども「ジャーナル論文にするような性格のものではないようなもの」を書いて出すのにちょうどよい場所でした(そういうアイデアが当時割とあったとも言えます)。例えば,2014年度には「実験研究の過程と手法のよりよい理解のためにーマイクロリサーチ体験という試みー」と題した論文を出しました。これは,2014年度に静岡で行った学生向けのワークショップについてまとめたものです。マイクロリサーチ体験というのは,事前テスト-処遇-事後テスト-分析-結果-議論といった一連の流れをその場で実演し,研究の進め方についての理解を深めるというものでした。これは,キソケンのメンバーで行ったWSであったので基礎研論集に出したということもありますが,例えばどこかの学会誌に出そうとしたとしてもどの枠で出せばいいのかわかりません。ただ,どうしてもやって終わりではなく文章として形にしておきたかったのです。

2015年度は,「外国語教育研究における二値データの分析ーロジスティック回帰を例にー」というテクニカルレポートを書きました。これは,当時自分で勉強していたことをまとめたかったことと,Rのコードとともに残すことで自分の後輩にも読んでもらいたかったという意図がありました。院生時代にもデータ分析に関する相談を受けることは多く,その際に一般化線形モデルや一般化線形混合モデルを使ったらどうでしょうということがしばしばありました。そのときに,もちろんそれに関する書籍を紹介することもできましたし,グーグル検索すればロジスティック回帰に関する記事はたくさん見つけることができます。ただ,外国語教育研究の例で,Rのコードとともに,ということになるとなかなか例がありませんでした。そこで,「この論文がウェブで無料で公開されていますので読んでください」と言いたかったということです。これも,もちろんmethodological reviewというような形でジャーナルに投稿することもできたかもしれません。私にはその力はなかったというのもありますが,そこにリソースを割くよりも手っ取り早くpublishしたかったというのもあります。

2016年度は査読付き雑誌に2回落ちた論文を横流しする形で出したので,それまでのものとはやや性格は異なります。ただ,これも「教育実践について形になった論文をとにかく出したかった」ということと,同じような研究をやっている方々に読んでもらうためにオープンにウェブで公開したかったということが理由です。実際,自分も関わったプロジェクトに関する論文で引用したりもしました。草薙さんと共著で書いた「外国語教育研究における事後分析の危険性」という論文も,読まれる価値はあるけれども,学会誌等の投稿規定にはそぐわないだろうということがあって基礎研論集に書きました。

さて,長くなってしまいましたが,例会にしろ,論集にしろ,私は自分が運営として携わりながらもこうしたキソケンの活動を自分の研究活動の幅を広げるために大いに有効活用できたと思います。もちろんそこに色々な人達の協力と犠牲があったわけなのですが。キソケンは私にとってはそういう自由な表現ができる場所だったということです。週例会にも「自分を成長させるためにはどんな場所であるべきか」という視点があればいいなと思います(今はないということではないですが)。どんなことでも,義務感にかられてやるのは長続きしないものですし,活動自体も有意義なものにはなりにくいです。とくに学年が上になってくるとどうしても「初学者に教えるDの院生」的なことになりがちです。もちろんそこにもたくさんの学びの機会が転がっていることは間違いないのですが,一歩間違うと「なんでこんなこと教えてやらないといけないのか。なぜこんなことも知らないのか。時間がもったいない」となってしまいます。そうならないためにも,「自分の学びはどこにあるのか」という視点を全員が持って活動していけると,たとえ規模が縮小しても有意義な活動を続けていけるのではないかなと思います。そして,そういうことは院生時代だからこそできる機会だなとも就職した今は思います。

ちょっと説教臭くなってしまいましたが,後輩に向けたエールということでお許しください。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

博士後期課程で学んだこと

2014年4月に名古屋大学大学院国際開発研究科博士課程後期課程に入学してから4年,たくさんの先輩の背中を追いかけていたらいつのまにか自分が追いかけられる立場になり,そしてついに博士後期課程を修了しました。

名大に来てからたくさん学んだことがあって,それが今の,そしてこれからのベースになっていくのだろうと思います。そんなたくさんのことから,私自身が学んだことをいくつか書き記しておきたいと思います。自分のために書きますが,今名大に残っている後輩や,これから(名大に限らず)大学院で学ぶ人たちにも何か得るものがあれば良いなと思います。

以下に書くことは,あくまで私が「学んだと思えること」,そしてその中で「その事を学べて良かったと思っていること」です。これが唯一ということでもないですし,色々なやり方や考え方があると思います。

まず1つ目は,議論する事を恐れないということです。当たり前のように思われるかもしれませんが,これが意外と難しかったりするようです。ゼミや授業の中でも,プライベートな飲み会や休憩の中でも,とにかくたくさんのことを議論したことは本当に財産だなと私は思っています。ただ黙って聞いているだけでも,得るものは多い環境だったと思います。ただ,その何倍も自分を成長させてくれたと思うことは,自分が考えたことを口に出す経験を毎日繰り返したことでした。

私は以前,アカデミックな議論ができるようになるにはインプットだけでいいのか,それともアウトプットが必要なのかという記事を書いたことがあります。今思うのは,おそらくアウトプットが必要なのではないかということです。修士の後輩を見ていても,よく発言する人はグンと伸びるなという気がします。

私はブログを始めてかれこれ5年近く経ちますので,自分が考えていることを言葉にして,そして発信するという経験は名大に入る前からある程度は積んでいたつもりです。また,一時期ツイッターにはまっていて1日平均100ツイートくらいしていた時期もありました。その時も,ネット上ではワーワー言っていてツイッター上で議論もたくさんしました。そういう経験もあったからこそ,すんなりと入っていけたというのもあるかもしれません。ただしその経験を抜きにしても,アカデミックな議論をする際にはみんなが平等であり,先輩・後輩だとか,先生と学生だとか,そういう垣根なく自由に活発な議論を行える場があったということは本当に貴重な経験であったと思います。そういう日々の積み重ねがあったからこそ,学会での質疑応答にもそれなりに参加できるようになったのだと思っています。

2つ目は,とにかく研究に没頭するということでした。これも意見は分かれるところかもしれません。あまりに研究ばかりしていて周りが見えなくなったり,あるいはメンタル的に落ち込んでしまって病んでしまうということもあるかもしれないからです。私はメンタルが多少はタフだったのか,毎日毎日1日のほとんどの時間を研究室で過ごすことは苦ではありませんでした。もちろん,時期によっては気分が乗らずに部屋から出ないということもありましたが,そうしたことは数えるほどしかありませんでした。むしろ,周りの先輩たちは毎日研究室にいましたので,それが当たり前だと思っていたということもあります。それに,大学院生でも博士後期課程となれば研究活動は給与の発生しない「仕事」ですから,お給料をもらって働いている方と同じかそれ以上に「勤務」しないのはサボっているのも同じだとも思っていました。

念のためですが,こうしたしばき根性を正当化したいわけではありません。わたしにはそうした環境が合っていたというだけです。また,名大に来る前には中学校で働いていましたから,辛いとか大変だとか色々はありつつも,毎日研究室に来て自分のやりたい研究に没頭できるということを「大変だ」と思ったことはありませんでした。「中学校の激務に比べればなんてことはない」という気持ちでいました。

もちろん,息抜きは適度にしていたと思います。たまに外でキャッチボールしたり,少し足を伸ばして飲みに出かけたりということも院生仲間でやっていました。個人的にはAmazon Primeビデオで映画やドラマをたくさん見たり,DAZNでサッカー中継を見たりもしていました。

話を戻すと,2つ目の研究に没頭するという事と,1つ目の議論する事は,相乗効果を持っているとも思っています。1人で頭の中で考えててもやはり限界があると思うので,その時に自分を次のステージに連れて行ってくれることが多かったのは人に話す機会を持った時だったなと振り返って思います。学会やゼミでのフォーマルな発表に限らず,色々な機会で人と話すことで思考が整理されたり,自分には見えていなかった視点が見つかったりしました。そして,この人と話す機会を増やすということが3つ目です。

人と話す機会を増やすには,学外に積極的に出て行くことも必要になります。同じ環境でいつも一緒にいる人と話をしていると,お互いの考えが似通って来たり,ある話題に対して共通の見解を持ちやすくなることが多いと思います(私はそうでした)。その時に,学会や研究会に行って普段話す機会の少ない人たちと話をすることはすごく刺激になりました。私はあまりソーシャルなタイプではないので,知り合いが全くいない学会では尻込みしてしまうタイプです。そういう方は,小さな勉強会や研究会に行ってみると良いかなと思います。人数が少ない方がコミュニケーションも取りやすいですし,小さな会は週1や月1など,学会の大会よりも頻度が高いので,つながりも構築しやすいです。私はD1の夏くらいから名古屋で行われている研究会に毎月参加するようになりました。そこに参加して毎月輪読と発表をしていたことで,自分の研究のみにのめり込みすぎず,視野を広げていられたと思っています。

最近は休止してしまっていますが,Skype読書会で学んだこともたくさんありました。イントロ系の本でも,何回も読めばその度に違う視点で読むことができましたし,自分の意見を述べたり,要約して説明したりする練習にもなりました。論文の輪読になっても,普段なかなか議論する機会のない先生方と論文を批判的に読む機会は貴重で,勉強になることだらけでした。そのツッコミは考えつかなかったなあということや,そのツッコミに対してこういう切り返しもあるかあなど,いつも頭をフル回転させて考えていました。和気あいあいな雰囲気でしたが,実は毎回緊張しながら参加していました。自分の意見は的外れじゃないかとか考えてしまって。それでも,そうやって自分の考えをまとめたり,意見を述べたりという機会を定期的に持ち,そして多様な考えを持った方々と議論できたことは自分を成長させてくれたなと思います。

1つ目の議論することを恐れないということも,こうした研究会や読書会に定期的に参加していたことと無関係ではないでしょう。読書会や研究会に参加して,「何も言わずに過ごす」ということはないわけで,「とにかく何か自分も発言して,貢献しないといけない」という状況が当たり前だと思うようになりました。ゼミだとそれでも誰も何も言わない環境でしたから,プライベートで議論する機会や研究会や勉強会に出ていなかったら,今のようにアカデミックな議論をする力は身についていなかったかもしれません。

最後は,とにかくたくさんのデータを見て,触って,考える,ということです。これは個人的になんらかの量的データを扱う研究をしているからですが,生のデータを自分の手で(というかRで)分析するという経験をたくさんしたことで,統計の知識だったり考え方だったりが割とスムーズに入ってくるようになったと思います。とにかく手を動かして,わからないところは調べて,「こういうもんなんだ」というところはひとまず「そういうもんだ」と思って先に進み,ということの繰り返しでやっていたかなというのが私の経験から言えることです。

統計の技術的なことについては,解析技術の進歩がものすごく早くなっていることを鑑みて,「身につける必要がない」という人もいます。むしろ,そのベースになる数学や背景にある思想こそを身につけるべきだという意見です。これには一理あると思います。しかしながら,私は100%同意はできません。なぜなら,実際にデータを扱って分析してみるという経験無しには難しいと思うからです。つまり,ふつうの文系(とくくりましたが言語教育系まで狭めた方がいいかもしれません)には数学や思想の理解はボトムアップ的な経験なしでは容易ではないように思います。

生のデータに数多くあたってデータ処理や分析をやるからこそ,数学的なことも付随的についてくるのかなというのが個人的な印象です。私はそうでしたし,数学的なことは強いけど分析技術は全然ないという人を同じ分野で見たことがありません。あと20年したらそういう人も出てくるのかもしれませんが。

というわけで,皆さん色々お考えはおありでしょうが,私が思う院生として大事なことを4つあげました。4年間お世話になりました。今後ともよろしくお願いします。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

人に厳しい人の覚悟

自分ではそういう意識はないのですが,私はしばしば「怖い人」と言われたりします(周りから言われて意識するようになった)。

対外的に愛想の良さが求められる場面ではない限り、基本的に1人で行動するときには「話しかけるな」オーラを出している自覚はあります。ただ,そういうことではなくて「相手を見ずにストレートにモノを言う」ところを「怖い」と形容されるのかなと思っています。

最近は丸くなったと言われますが,数年前くらいならゼミで博論の発表した先輩に「小学生の自由研究やってるんじゃないんですよ」って言ったこともあります(あの時は若かったと反省しています)。しかし私がそういうスタンスで他の人の研究にコメントすることは,私の研究にも同じコメントが向けられることを容認しているという覚悟もあります。上述の「自由研究じゃないんだから」は,研究課題の導出過程に当該分野での課題やその批判的なレビュー,その分野への貢献と言った視点が全くなく,「私はこれが知りたいのでこれやりました」というような内容の発表へのコメントでした。言い方はもっと考えるべきだったと思っていますが,博士論文に値する学術研究としての価値が見出せないという点については今でも間違っていないと思っています。

私の研究も見る人が見たら「自由研究じゃないんだから」と言われるかも知れません。そういうコメントがあればそれなりの対応をしようと思いますし,真摯にコメントを聞き入れて今後に活かそうと思うでしょう。私の研究や発表が可愛いとか大事だとか思っているわけではないからです。批判が生まれることはあっても,研究分野に貢献する何かが提示できればいいと私は思っています。私がそう考えるだけで,こうした考え方は一般的ではないのかもしれませんが。

私が他の人にするコメントは,常に自分の研究にも跳ね返ってくるものだと私は思っているのです。少なくともアカデミックな文脈において,私は個人を攻撃したりはしません(そりゃ居酒屋で愚痴るとかあの人嫌いとか絶対言わないわけではないですけども)。自分は人に厳しくコメントするが,人から厳しいコメントは受けないというのはアンフェアというか,卑怯です。

「田村は相手を選ばずに誰に対しても同じテンションでコメントするよね」というようなことを言われたこともあります(批判的な意味ではないと補足されましたけども)。これは私の個人的な考えですが,学会(やそれに準ずる場所)での発表や論文投稿やその他の媒体での出版は,常に批判的で建設的なコメントをもらえる機会だと思っています。そしてそれが自分の研究のクオリティを上げることにつながると思っていますし,自分の成長にもつながると思っています。だからこそ発表をするし,論文を投稿しようと思うわけです。そういった気持ちでなければ発表してはいけないと言うつもりはないですが,発表者が何を思って発表しているかは私にはわからないので,私が発表者だとしたらコメントしてもらえてよかったと思うだろうというようなコメントをしたいと私は思います。それは簡単なことではないですし,なかなかうまくいった試しがありません。そうではあっても,頭の中で考えているだけでは自分のコメントに意義があるかを確認できないのでコメントします(変なコメントばかりしているかもしれません)。

時には私の発表に対して辛辣なコメントがあるかもしれませんし,その事で不快な思いをすることもあるのかもしれませんが,それが建設的なコメントである限りは,「何か言ってもらえるだけありがたい」と思いたいです。また,おそらくですが自分の発表などが届く範囲が広がれば広がるほど、ほとんど個人攻撃に近い無意味なコメントも増えていくのでしょう。

そうではあっても,私のいうことがすべて肯定され,私の行いがすべて賛同されることがもし仮に,万が一あるとしたら,それは気をつけなければいけない事ではないかと思います。それは,周りから建設的で批判的なコメントをするに値しない人だと思われているかもしれないからです。また,その状況に慣れすぎたり,自らその方向に向かっていけば,ひとたび批判的なコメントに晒された時に,そのコメントに対して過剰に「攻撃された」と感じてしまうかもしれません。もしそうなることがあったとすれば,私はすでに研究者ではなくなっていると思います。

教育に関していうと,ビリーフの部分もかなり大きいですから,自分が信じてやってきたことに対して批判されると,なおさら個人攻撃のように感じられることもあるのかもしれません。もしそうしたことが起こっても,その批判から真摯に学ぶことは忘れないようにしたいです。

そして,歳をとればとるほど自分の信念を批判されることも耐えがたくなってくるのでしょう。そんな時でも,学び続ける姿勢を忘れずに生きていきたいと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

Comprehensibilityってなんなのさ

ずっと下書き状態で放置していたのですが,「田村さんがJ-SLARFのあとにcomprehensibilityについてブログを書くとおっしゃっていたので楽しみにしていたのですが…」という問い合わせをいただいてしまったので頑張って加筆して公開することにしたいと思います。


最近の(私より)若い人たちの間では,comprehensibilityといわれる尺度(注1)と相関する変数をあげたら優勝大会というのがどうも人気のようです。しかしながら,このcomprehensibilityというのがまた得体の知れない曲者で,そういう大会に参加されている方々でも「よくわかっていない」もののようです。

とりあげられる変数は,音声発話から算出される言語的特徴量であることが多いようで,言語的特徴量から近似的に予測できる人間の主観的な心理尺度の1つということなのかなと思いますが,私にもよくわかりません。「comprehensibilityは心理的に実在するものか」という質問をさせていただいて,この質問があまり良くなかったことを反省しています。comprehensibilityが,人間の主観であるとすれば,それは人間の主観を離れて存在することが不可能ですから,実在はしないものであるといえるのかもしれません。私がお尋ねしたかったことは,comprehensibilityが構成概念だとしたとき(注2),そのモデルはどういったものになっているのだろうかということでした。言語的特徴量の数値それ自体には良い悪いという主観的な判断は存在しないはずで(注3),その個々の数値についてのなんらかの価値判断の総体となったものがcomprehensibilityというものだと考えてよいのか,とも言えるかもしれません。あるいは,個々の数値というよりもその数値が正確さ,流暢さといった概念を形成し,そうした概念についての主観的な判断の総体なのかもしれません。あるいは,可能性としては低そうですが言語的特徴量のようなものについてはなんの価値判断もなく,comprehensibility評価装置のような機構に言語的特徴量の値を入力した時,そこから初めてcomprehensibilityについての主観が生まれるのかもしれません。

このとき,正確さや流暢さといったものとしていくつかの変数をまとめる(あるいはまとめずに解釈する)ことに対する問題点はCAF警察の後輩にまかせるとして,人がある言語産出の理解(発話の理解や作文の理解など)に取り組んだとき,「この人の発話(作文)は文法的に正確だ」とか思うその主観的な判断は,その人の「文法的に正確な言語を産出する能力」と同じものなのかということも考えてみるとおもしろそうです。主観から離れた能力が存在するのかという意味で。

そして,このcomprehensibilityというのはいわゆる「スピーキング能力」と何が違うのかや,スピーキング能力とcomprehensibilityはどういう関係性なのだろうかというのも気になるところです。発話にあらわれる言語的特徴量は人の持つ「スピーキング能力」が反映されたものだと考えると(注4),言語的特徴量はスピーキング能力を反映したものだともいえます。そして,その同じ言語的特徴量を用いてcomprehensibilityというものをこちらは形成モデル的に測定しようとしているようにみえます。スピーキング能力がテキストに反映されていると考えれば,反映モデルでスピーキング能力を測定しようとすれば良いはずです。それを形成モデルでcomprehensibilityという新しい指標値を立てることによる利点はなんなのでしょうか(私の不勉強かもしれませんので,この論文を読めば書いてあるということでしたらご教示ください)。また,三者(comprehensibility, 言語的特徴量,スピーキング能力)の関係はどのようになっているのでしょうか。comprehensibilityに詳しい方にぜひ教えていただきたいです。

蛇足ですが,「よくわからない」ものを応答変数にして回帰する前に,comprehensibilityというヤツの正体を少しずつでもいいから明らかにする研究はやったらどうだろうとも思います。例えば,聞き取りにかかるmental effortが聞き取りやすさということなら,聞き取りづらい発話を聞くことにmental effortが割かれているのかどうか,逆に聞き取りやすい発話を聞くときにはmental effortがそれほど必要ないのかどうか,ということを確かめる実験をやってみるというのはどうでしょうか。これは,心理実験的にそこまで難しいことでもないと思います。

では,このへんで。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注1. 妥当化されてないので尺度というのもあれですが。スコア?ですかね。

注2. comprehensibilityは構成概念ではないという見方もありえます。つまり,comprehensibilityは単純に能力の影響を受けたテキストの値を変換したものであって,comprehensibilityという固有の値をもつわけではないと考えるということです。

注3. 言語的特徴量自体に対して主観的な判断を尋ねる場合もあるようですが。

注4. 能力は全部形成モデルだ,という考えもありますが,テスティング系の研究者はおそらく能力がパフォーマンスやテストにあらわれると考えていると理解しています。

p.s. 新年一発目の挨拶もせず,このようなブログを更新してしまいました。年末年始は例年よりも長く1週間も実家に滞在したのが災いしたのか,名古屋のアパートに帰ってきてからキーケースを東京の実家の玄関に置き忘れるという大失態を犯し,寒空の中途方に暮れるという波乱の幕開けとなった2018年。何か悪いことが起こるという前兆かもしれませんので,いつも以上に気を引き締めて生活していきたいと思います。

 

母語話者との差は埋めるべき?

昨日(日付変わったので一昨日),私の博論の内容について発表する機会をいただきました。発表の時間は短かったのでかいつまんで結果と解釈を提示する程度でしたが,その中でいただいたコメントに対して,一晩考えて私なりに少し丁寧にここに答えを書いておこうと思うに至りました。

私の博論では,母語話者と学習者のある課題についての結果を比較して,母語話者と学習者で意味と形式のマッピングが異なるところに焦点をあてています。

そこで,母語話者とは異なる点について,「どうやったらその差を埋めることができるか」,「教え方の工夫などで解決可能か」という点について,ご質問をいただきました。おそらく,背景には「母語話者に少しでも近づくこと」が英語指導の目標になっているのだという価値観があるのかと想像しますが,私が取り組んでいる言語習得や言語処理に関わる研究については,そうした母語話者としての差を「埋める必要があるもの」であるとはまったく捉えていません。これは,(a) 費用対効果と対象としている言語現象,という話と,(b) native-normという価値観,という話の2つが絡み合った問題なのかなと思っています。

(a)の費用対効果については,私の対象としている言語現象が,「誰もが英語学習を通して明示的な指導を受けたことがあると言い切ってもよい」ものであるか,逆に「習ったことも,あるいは聞いたことすらもないようなもの」を扱っているからです。博士論文は1点目で,複数形の形態素です。「名詞に-sがつけば複数」という至極シンプルな規則は,英語学習者なら初級者でも「知っている」はずです。しかし,それがどういった「意味」と関連付けられているのか,博論ではどのように「数(number)」と関連付けられているかを問題にしています。そして,それはとても根本的な現象を扱っているように思えて,実は英語学習の目標を考えれば取るに足らない些細なことで,「名詞に-sがつけば複数」とだけ知っていればそこまで問題にならないことだと思っていますし,言語使用場面で,その使用目的に照らして,目的を達成するために私の行った課題で明らかになるようなものが問題になるとも正直あまり思っていません。実際,複数形の形態素のせいで英語使用に苦労するということはあまりないでしょう。

また,「習ったことも聞いたこともない」ようなことについては,「習ったことがないからできない」という考えもあるかもしれませんが(後述しますが実際はそうではないことも有りえます),その前に「なぜ教えられていないのか」を考える必要があるのではないかと思っています。つまり,学習英文法として取り上げられていないのは,そこに含める必要性がないことが含意されているように思うのです。そのレベルの現象について,例えば特別な指導を施すことで母語話者との差を埋めることができても,リソースの制約がある中で何を取り上げ,何を取り上げないのかという意思決定をしなければならないときに,他に指導すべき事項を差し置いて「言語のある特定的な側面について母語話者との差を埋める」ことを選択することは妥当でしょうか。

例えば,Tamura et al. (2016)で扱ったtough構文で(1a)は適格文であるのに対して,(1b)が非適格文であることやその背後に働く原理を「説明する」ことは,「一般的な」英語指導の文脈で必要なことでしょうか。

(1a)  He said that his wife was difficult to please.

(1b) * My younger sister was difficult to be an actress.

 

ちなみに,このような非文に対して,日本語を第一言語とする英語学習者は主観的には規則を説明できなくとも,「なんとなく」(1b)が非文であるというようなことを偶然確率よりも高い確率で判断することができることがわかっています(ただし,その判断に要する時間は長いです)。

2点目,(b)native-normという価値観については,なんで母語話者との差を「埋める必要があるものである」と考えているのだろうと思ってしまいます。もちろん,自分の信念としてそのように思うことを否定したりはしませんが,学習者にそれを課すことには疑問があります。この観点はなんら新しいことでもありませんし,multicompetenceという言葉とともに語られたりもしています。「英語教師の仕事は学習者の英語力を伸ばすことだ」ということに対しても,私はそこまで否定的に捉えているわけではありませんが(注1),「英語教師の仕事は学習者の英語力を限りなく母語話者のそれと差異のないものにすることだ」と言われるとそれは賛同しかねます。これは,

明示・暗示の測定と指導法効果研究

というエントリーで書いたこととも関係あるかと思います。私が博論でやった研究は,ミリ秒レベルの反応時間の差で,さらにこれは非常に特殊な実験環境による言語の処理で,その意味ではいわゆる生態学的妥当性は低いでしょう。ただ,そうでもしなければtapできない側面なのです。そこまでしないと見えないレベルの差の有無には教育的示唆などありませんし,そのレベルの差を「埋めるべきもの」であるというようにも考えていません。もちろん,差が生まれる要因には興味がありますし,それを探求することについて意義があることだと思っているのでそういう研究をしています。つまり,「埋められない差があること」を私は問題だとはまったく思っていませんし,それが仮に存在することが明らかになったとしても,それはむしろ「教育的示唆」という意味ではプラスに働くことすらあると思っています。ここが費用対効果の話とも絡んでくるのですが,

3単現の-(e)sは口をついて出るくらいまで練習 

と似たような問題で,母語話者との埋められない微細な痕跡が残るような文法項目について,熱心に誤りを訂正したり明示的な説明をしたりすることはリソースの無駄遣いと言ってもよいでしょう。そういうことに時間を使うくらいなら,もっとやるべきことはたくさんあるはずです。これは,「教えなくても勝手に学習させればよい」という議論を展開したいというわけではありません。限られたリソースの中では「教える」時間は限られているので,「引き算の思考」をしたほうが有益ではないかと思っているのです。つまり,「教えても教えても難しい」あるいは「どう頑張っても母語話者のような正確性を身につけることは難しい」というものが明らかになれば,それについては,リソースの配分をやや減らして,「-sがついたら複数だよ」って知っていれば良いという程度にするということができるのではないでしょうか。あるいは,「教えなくてもある程度はできそうだ」ということがわかれば,その部分についてもリソースを減らして良いという判断ができるはずです。ただし,「教えないとできない」,「どのように教えたらできるのか」,という見方をしていると,それが仮に余分なリソースを必要とするものであるとすれば,そうした結果が明らかになればなるほど「やらないといけないこと」が増えてしまい,結局その負担を被るのは英語教師自身になります(注2)。もちろん,「リソースが有効に活用されているのか」を精査することは必要でしょう。それじゃあ効率が悪いから,別の方法を使いましょうという提案については,リソースを増やすことにはつながっていませんし,それでむしろ効率化して余剰が生まれるかもしれません。

そうした現状で「工夫を凝らした特殊な指導を与えたらテストの点数が有意に向上した」みたいなことをやったりするのにそこまで躍起になるのは,どうしてなのだろう,と不思議に思うこともあります。また,ある1つの文法項目が何らかの方法で測定された際に,その数値が「統計的に有意に向上した」や「効果量◯◯だった」というような事実の積み重ねで,私が見ていたような「差」を埋めることができるとも思っていません。

実験研究における母語話者との比較は,母語話者が常に「正しい」とも限りません。むしろ「母語話者だからこそ」学習者とは違う結果になったということも有りえます。学習者に実施する課題とまったく同じ課題を母語話者にも課せば,概してそれらは母語話者にとっては「簡単」な課題となりがちですし,そのときに予想とは違う(こちらが想定していないストラテジーを使って文や語を処理する)ことが起こることは十分にありえる話です。そうした意味でも,nativeが正しく,もし仮にL2と何らかの差異が見られたときにそれが必ずしもL2が何か欠陥があるということ示していないかもしれないということです。

指導の文脈における母語話者との比較については,結局は,目的論・目標論の話とも関わってくる問題ですし,仮に英語能力の伸長が目標であるという合意形成ができたとしても,それが「母語話者レベルではなくてもよい」となったときにどのような目標を設定するのかという話にはなってきます。そのあたりについては,私個人としては「タスク・ベースの指導」という考え方を採用したい問題であると思っています。つまり,学習者が教室の外でも「それなりに」機能すること(彼ら・彼女らが直面した問題を自律的に解決すること)ができるかどうかを判断の規準にするということです。これを導入するには色々クリアすべきハードルがあることは事実ですが。

ということで,集合写真に僕が写っていなかった(早めにお暇したのでそもそも写真が撮られたことすら知らなかった)ことで仲間はずれにされたのではないか,いじめられてやしないか,と福田さんにご心配いただけたりもしましたが,個人的には発表してコメントをいただけたことで,私の考えを整理することにもなりましたので,収穫はあったと感じています。今日は午後からだと勘違いしていて午前中の発表を3つとも聞き逃してしまうという失態を犯してしまい(悠長に俺の空でラーメン食べている場合ではありませんでした),申し訳ありませんでした。

午後の最後の2つの発表(新谷先生と鈴木渉先生)については,「習得」・「学習」といったときに習得・学習されたものはいったいなんだったのだろうというのが気になったりしていました(おそらく須田先生が「それってuseじゃないの?」とご質問なさったのも近いと思います)(注3)。1日目については,comprehensibilityってなんなんだろうと思ったので,その話はまたいつか。

ではまた。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。


注1. これについてさえ,「英語教育の目標は英語力を伸ばすことである」と言い換えたとき,その主張が英語教師の大多数に受け入れられているというようには思っていません。

注2. その「教える」が明示的文法指導といわれるようなものであったときの別の問題としては「文法の明示的指導研究について思うこと」を参照。

注3. 瞬発力が足りなくて,その場でうまく言葉にすることができなかったのですが,あとから考えて整理して自分で理解できたのでここに書きました。

CAFの(相関と)発達の順序

いま,とある実践報告論文を書いていて(共著),頭の中がこんがらがってきたので整理するために書いておきます。

CAFの相関と発達順序の話。こういう論文があります。

Koizumi, R., & In’nami, Y. (2014). Modeling complexity, accuracy, and fluency of Japanese learners of English: A structural equation modeling approach. JALT Journal, 36, 25–46.

5つの異なるスピーキングタスクでSyntactic Complexity, Accuracy, Speed Fluency, Repair Fluencyの指標をそれぞれ1つずつで共分散構造分析をしましたよという論文ですざっくりいうと。もともとはSyntactic Complexityだけ2つの指標だったり,CAF因子の上にspeaking proficiencyを置くモデルだったりspeaking proficiencyにすべての指標がloadしているモデルだったりも比較したけどCAF因子仮定したモデルが一番良かったという話ですざっくりいうと。それで,

「CAFはあります!」

「ねーよ」

っていう話は後輩のCAF警察に任せるとして,結果の解釈の話です。4つの因子間の相関をもとに色々議論している箇所があって(How Are CAF Interrelated?の節),流暢に話す(単位時間あたりの発話語数が多い)学習者は修正回数も多く(Repair Fluencyも高い),なおかつ正確さも高くて統語的に複雑な文(AS Unitあたりの節の数が多い文)を産出するそうです。で,その直後に,

Further, the results also indicate that as learners progress from beginning to lower intermediate levels, they develop the ability to produce such speech, thereby gradually improving SC, accuracy, and speed fluency (although not necessarily synchronously).

と書いてあります。熟達度があがると,徐々に複雑さも正確さも発話スピードもあがるよと。うんうん。まぁ相関あるってことはある数値が高くなると他の数値も高くなるということだからそういうことって素直に解釈して…いいのかな?ちなみに,「結果」とは,統語的複雑さと正確さの相関は= .88,統語的複雑さと発話スピードは= .63で,正確さと発話スピードの因子間相関はそれほど高くなく,= .35である,ということを指していると考えられます。その直後,

It is speculated that improvement in fluency may lead to enhanced SC, which may result in heightened accuracy; that is, when learners learn to speak faster, they may gradually come to use a greater number of clauses and longer units (sentences) and subsequently may produce more accurate utterances.

むむむ??

いや,言っていることがもっともらしいので,きっとそうなんだろうなとは思いつつ,この因子間相関から流暢さが先に発達してその後に文が複雑になって最終的には正確さもあがってくるって言えるかなぁって考えてしまいます。いや,きっとそうなんだろうと思いますし,すごくしっくりくる説明なんですよ。ただ,このspeculationと因子間相関の間に見えないギャップみたいなものを感じてしまっていて,そのギャップを自分の中の「そうなんだろうな」っていうやつで勝手に埋めてしまっている感じです。なんなんでしょうねこのもやっと感。

流暢さというのは単位時間あたりの語数なので,統語的複雑さがあがると(節の数が増えると)必然的に語数も増えるという傾向はあるでしょう。ただし,「単位時間あたりの」というのがポイントで,すごーくゆっくり,だけど節の数が多い発話をすることは論理的には可能なんですよね。

1分間で,1文が(話を簡単にするためにAS Unitではなく文にします)5語からなる文(I like soccer very much)みたいなものを5つ発話したとすると,合計は25語で,60で割ると0.416という発話スピード。一方で,1文の中に節が3つあるような文(I think that she likes playing soccer)を2文しか発話できなかったとすると合計は14語で60で割ると0.23…で流暢さは落ちる。一方で,後者の文は1文あたり節が3つで,前者の文は節が1つなので,統語的複雑さは後者のほうが上。という感じ。

ただし,統語的複雑さと発話スピードの相関は.63なので,そういうパターンはほとんどなかったということになります。対象が中高生の初級者だということを考えても,節の埋め込みがそんなに多い文を頭ひねって作り出せるかっていうとそんなに現実的ではない気ももちろんします。

正確さとスピードに相関があまりない(ないわけじゃない)というのはまぁうなずけて,スピードが早くても正確じゃない人もいれば,逆にスピードが遅くても正確というパターンもあるからですよね。ただしスピードが遅ければ遅いほど正確さがあがるという関係が見られるわけでもないので,多少は流暢ならまぁまぁ正確さもあるかもね,くらいの感じなのでしょう。

よくわからなくなってきました。最初に疑問に思っていたのは,流暢さがある程度発達すると複雑さが上がり,そして複雑さがあがってくると正確さもあがるというような発達を仮定したとき,それがデータによって示されるというのはどういうことなのだろうということでした。

多分,

  1. 流暢さの値が高くとも複雑さや正確さの値は高くない(そこに相関がない)という状態があり,
  2. 次に同じ学習者群(または最初の学習者集団よりも熟達度が高い学習者)が時間を経たとき(発達したとき)に,流暢さと複雑さの値には相関があるが,流暢さと正確さに,複雑さと正確さにも相関がないということが観察され,
  3. その後,またそれよりも時間を経たときに,複雑さと正確さの相関が高くなり,流暢さと正確さの相関もちょっと高くなる,ただし正確さと流暢さの間には高い相関はない

みたいなデータが得られたとしたら,「なるほど。流暢さ,複雑さ,正確さ」という順番で発達していくのかなぁ,ということが頭に浮かびます。ただ,横断的でもなく,縦断的でもない1つの集団のデータの因子間相関からはいまいち「発達」ということをストレートに解釈しにくいよなぁと私には思えます(あるいは私の頭が悪いからかもしれません)。

先ほどの因子間相関だと,まずは正確に話そう。正確に話せるようになると,複雑さもあがってくるだろう(正確さと複雑さの相関が高くなる),複雑さがあがると節の数も増えるので流暢さもあがってくるだろう(複雑さと流暢さの相関が高くなる),というところまでは(他のことを色々無視していれば)いけそうな気もしてきます。ただ,最終的には正確さと流暢さの相関がなくなっていくことにならなければいけないので,ある程度複雑さがあがって流暢さもあがると,実は正確さは落ちていくのだーとか言わなくてはいけなくなります。なので,この説明はやや「きれいさ」が落ちるかなとは思います。

やっぱり,語数がのび,節の数が増え,そして正確になる,という仮説のほうが正しそうです。いや,そうなんです,正しそうなんですけど,でも「実際にそういう仕組みになっている」といえるためにはどういうデータが得られないといけないのかな,ということを考えた時,そのときに浮かぶイメージと因子間相関の間のギャップにもやもやしたのでした(たぶん頭が悪い)。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。