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タスクにおける”sub-goal”という概念

はじめに

下記の本を月例の研究会で1章ずつ読んでいます。

Recent Perspectives on Task-Based Language Learning and Teaching

Ed. by Ahmadian, Mohammad / García Mayo, María del Pilar

この本全体については,Cognitive-Interactionist, Sociocultural Theory, Complexity Theory, Pedagogic and Educationalという4つのperspectivesからなる12章の本で,個人的には通読するよりも気になった章だけつまみ食いするという読み方がいいかなと思います。正直言ってあまりおもしろくない(質があまり高くない)チャプターも結構ありますので。

 

第7章がおすすめ

この本の第7章は,Martin Bygateが書いた”Dynamic Systems Theory and the Issue of Predictability in Task-Based Language: Some Implications for Research Practice in TBLT”という論文です。タイトルにDynamic Systemsと書いてありますが,そこまでDSTを推しているということではなく,「タスクってさ,何かやらせてみてもどんなことが起こるかわからないしリアクティブに教えるのがいいっていうけどやっぱそういうの不安だもん」みたいな言説について,predictabilityが一応ありますよっていうことを言うための理論的基盤としてDSTを持ってきているという印象です。それをベースにして,ケーススタディ的にデータを見てみるというようなのがこの論文の流れです。

この章を読むまでは,「この本は失敗だったかもしれない」と思うほどがっかりさせられるようなものが多かったのですが,この第7章は面白いなと久しぶりにワクワクしました。もちろん,ちょっとそれはどうなのと思うところもあるにはありました。ただ,それを差し引いても面白かったです。

 

何がそんなに面白かったか

一言で言えば,この記事のタイトルにもしている”sub-goal”という概念を導入している点が個人的にはこの論文で一番inspringだと思ったところです。示しているデータはおそらく過去の研究のものでしたし,特に分析をしっかりしているということではないのですが,それでもこの”sub-goal”というものはTBLTの研究でいろんなことができそうだなと思えた,そう思わせてくれるような内容でした。もちろん,実践においても示唆があることだと思いました。

sub-goalとはなにか

TBLTをご存知の方には馴染みのあることだと思いますが,タスクにはゴールがあります。spot-the-difference taskなら2つの絵の間にある違いをすべて見つけ出すことがゴールですし,picture description taskなら絵(または写真)を見ずに口頭で描写し,もとの絵(や写真)にできるだけ近いものを完成させるというのがゴールになります。この章で例として用いられているタスクは,6コマ漫画を6人で分割して1人が1コマずつ持ち,見せ合わずに正しい順番に並び替えるというものです。この場合,「正しい順番に並び替える」というのがゴールになります(注1)。

Bygateが言っているのは,このゴールに向かう前の段階にいくつかのphaseがあるということです。どんなphaseかというのを説明する際にBygateは,pragmaticとかdiscourseとかいう言葉を説明の際に使っています。少し長いですが,このphaseについて説明している箇所を本文から引用します。

A phase was defined in terms of the pragmatic coherence of a stretch of discourse which while not in itself achieving the overall task goal, likely contributed to achieving a useful enabling sub-goal. For instance, descriptions of the individual pictures in random order would contribute to the sub-goal of sharing information about the pictures, but would not themselves achieve the overall goal of sorting out the sequence and telling the story (even if by chance the students did actually provide the descriptions in the exact sequence of the narrative). Similarly, discourse during which students exchanged information about what they thought was going on in their respective pictures could not be interpreted as ‘telling the story’ either. Where students spent time suggesting potential sequencing of the pictures (still without seeing them), possibly accompanied by brief justifications, this kind of talk too contributes to a potentially useful subgoal, but still does not constitute the ‘telling of the story’. Hence the macro-purposes of the different discourse phases were inferred in relation to the pragmatic criterion: what are the speakers jointly trying to do at this point? Identification of phases enabled an assessment of the trajectories that the groups followed (p.155).

上の引用中では,”(sorting out the sequence and) telling a story”というのがタスクの最終的なゴールで,そこに到達するために有効なやりとりや言語行為をphaseとしています。複数コマ漫画の並び替えならば,まずは個々人の持っている写真を描写することからスタートすると予測されるので,それが一つのphaseになるというわけです。そして,自分の写真とグループメンバーの写真についての情報を全員が持った状態で,それぞれの写真に描かれている情報の違いを見つけることになります。そして,「いったいどんなストーリーなのだろうか」という話をしながら前後関係を特定していくことになると予想されます。これらの段階もすべてphaseであると。そして学習者はこういった複数のphaseを経て,最終的なゴールに辿り着くというわけです。

Bygateは,複数コマ漫画並び替えタスクでは次の5つのphaseがあるとしています。

  1. Description
  2. Comparison
  3. Interpreting gist
  4. Sequencing
  5. Narrative

ちょっとなんでだろうなと思ったことは,タスクの特性などから予測してこのphaseを導出したのではなく,実際の発話の書き起こしを分類してそれぞれのラベルを貼ったという点です。その後に,結果の解釈として,「複数のグループでタスクをやらせたけど,ほとんどのグループのタスク遂行中の発話に5つのphaseが見られた」みたいな議論に持っていっているのです。そして,このことから学習者たちのやりとりは予測可能なtrajectoryを通ってゴールに向かうという話につなげています。もともと発話データから導出した概念なのだから,導出に用いたものと同じ発話データにphaseが見られるのは,複数グループで見てみたとはいえある程度当たり前なのでは…という話です。さらに,もし仮にそこに違いがあり,違うグループでphaseの種類や用いられた数が異なっていたとすれば,最初に設定した5つのphase自体がそもそも分析に役に立たない枠組みだということになりますよね。この点については謎です。

また,個人的に気になったのは,最終的にタスクを達成できたかどうかと,用いられたphaseの数自体には関連が見られなかったという点です。例えば,分析している5つのグループのうちで3のgetting gistが見られなかったグループが1つ,5のnarratingが見られなかったグループが1つ,2のcomparisonと4のsequencingが見られなかったグループが1つという記述がありますが,この3つのグループはいずれも最終的なゴールである並び替えには成功しているというのです。この部分については,例えばcomparisonがなかったグループはもしかするとズルして絵を見せあっていたのかもしれないというような考察がなされています(このグループは終わるのも早かったらしいです)。しかし,もし仮にタスクの最終的な達成と何も関連がないのであるとすれば,このsub-goalという考え方自体がそんなに大事なものなのか?という疑問も湧いてきます。

さらに,言語使用面についてはphaseによって特徴的な部分が見られなかったと考察しています。つまり,同じphaseなら同じような言語表現が用いられるというようなことはなく,同じcomparisonというphaseでもグループごとに様々な表現を用いて行っていたと書かれています。ただし,”linguistic domains“については予測が可能かもしれないとしています。このdomainの例として,下記のようなものがあがっています。

the language for expressing impressions, inferences and approximations; the language of description and for identifying similarities and differences; the language for expressing motivations and consequences; the language for sequencing; and the language used for checking understandings (p. 160).

素人考えでちょっと微妙だなと思うのは,このdomainというのはほとんどphaseのラベルと同じようなものなのではということです。会話分析みたいなことに明るいわけではないのですが,ここまで抽象度があがってしまうと,それが予測できたことで何に活かされるだろうかということは疑問です。

 

sub-goalという考えのなにがそんなに大事?

さて,なんか,sub-goalってなんか別にそんな大事じゃないじゃんと思っておられる方もいるでしょう。私もここまでは批判的に書いてきています。ここからは,「そうはいっても結構色々なところに通じる概念じゃないかな」ということを書きたいと思います。

先ほど,「タスクの達成とは関係ない」という議論がされていると書きましたが,もし仮にそれがそうだったとしても,教室場面での教育介入を考えた際にはsub-goalという概念は大事だと思います。まずは,授業の準備段階でsub-goalは役に立ちます。

 

タスクの作成・計画段階で有益

これはタスクに限ったことではないのですが,どのような言語活動を仕組むにせよ,教師は活動を考え,その手順を構想し,最終的にどこに辿り着くことを目指すのかを思案しますよね。その際に,活動に取り組ませたときにどのようなことが想定されるかを全く考えない教師はいないと思うのです。「きっとこんなことが起こるだろうな」とか,「こういうことになったらどうしようか」などと考えながら,事前に準備しておいたほうがよいことについては仕込んでおき,指示の与え方や順序を工夫したほうがよさそうならそのように対策を打っておくはずです。このとき,例えば事前にタスクのsub-goalがわかっていれば,学習者が起こす行動の予測がつきやすくなるといえます。冒頭にも書きましたが,タスクは(特にやりなれていないものをやる場合は)出たとこ勝負の部分もあり,何が起こるかわからないから事前にあれこれ教えてこちらの想定内でやってほしいという教師の思いも理解はできます。しかし,今後sub-goalという枠組みで様々なタスク遂行中に発生するsub-goalsが明らかになってくれば,「このタスクをやる際にはおおよそA, B, C, Dのような4つのphaseを通過すると考えられます」みたいな提案ができますよね。これが事前にわかっていれば,自分の教えている学習者との兼ね合いで準備が必要な部分や,そのタスクに取り組む前にやらせたほうが良いことを前時にやっておくというようなことができるのではないでしょうか。もっと言えば,sub-goalが目標になるような”sub tasks” を用意して,それらのタスクに取り組ませた後のもっと大きなチャレンジとしてsub-tasksが複合的に必要となるような別のタスクを用意するというようなことも考えられます。このように,タスクを構想したり,授業の計画を立てたりする際に,sub goalsが明確になっているということは大事だと思っています。

 

タスク遂行中の介入指導で有益

次は,実際に教室場面での指導において,sub-goalがわかっているということが役に立つ場面を考えたいと思います。あるタスクを与えて,学習者がそれに取り組んでいるとき,なかなかうまく言っていないことに教師が気づいたとします。例えば,複数コマ漫画の並び替えタスクで沈黙してしまっているグループがあったとしましょう。このとき,どのように促せばタスクのゴールに向かえるでしょうか。このときも,sub-goalはヒントになり得ると思います。例えば,5つあるphaseの序盤でつまづいているようならば,「まずは全員の持っている絵について描写して,自分の持っているものと他のメンバーの持っている絵の違いがどこにあるかを特定してみよう」という指示ができると思います。つまり,descriptionとcomparisonというsub goalを明示するということです。その先の,みんなの持っている絵の違いはわかったけど,そこから先に進めないというグループがいたら,「全員の絵の情報を統合して,ストーリーを考えてみよう」という指示も可能でしょう。もちろん,phaseは順番にこなさなければいけないということではありませんが,指針としてその場で与える分には問題ないでしょう。

そんなめんどくさいことしなくても,「じゃあ最初から,『まずは描写,そして比較,あらすじの解釈,並び替え,ストーリーの完成』というphaseをすべて提示してそのとおりにやらせればいいではないか」という意見もあるかと思います。学習者のレベルによってはそうした道筋を示すことも必要になってくるかと思いますが,Bygateは,phaseに完全な順序があることや,まったくoverlappingがないということを否定しています。

it is important to note that the phases do not imply total predictability. For one thing, the phases sometimes occur more than once in a single transcript, with students going backwards and forwards between, say, finding the gist and trying out a sequence (p.160).

また,「たとえsub goalsが明示されなくとも学習者たちは多かれ少なかれphaseを経てゴールに到達する(=予測可能性がある)」ということを言っています。つまり,phaseは与えられなくてもある意味でタスク達成に向かう試行錯誤の中で創発するということですね。それを手助けしてやることはあったとしても,最初からこの通りにやりなさいというのはtoo much interventionかなと個人的には思います。「正しい手順」や「理想的な手順」のようなものがあると学習者が思ってしまい,それに囚われすぎてしまう可能性があるからです。例えば,2. comparisonからいきなり4. sequencingに入ることも十分にありえることです。「まって,私の絵ではりんごは食べかけで,Aくんの絵ではりんごは丸々1つあるから,きっと私の絵はAくんの絵よりあとにくると思う」のような発話が起こることは歓迎されるべきで,「まって順番考えるより先にストーリーをつかもうよ」となってしまっては学習者の自由な発想が抑制されてしまうかもしれません。よって,sub goalを与えてそれに沿ってタスクを行わせることは有効な手立てとは言えません。

つまり,事前に教えてそのとおりにやらせることができるから役に立つというわけではありません。そうではなく,リアクティブな指導がやりやすくなるということです。教師自身がsub goalsを把握した上でタスクを用いれば,そのグループの状況に沿って,またはぶつかっている困難点に合わせてリアクティブに介入を行うことができると個人的には思っています。

事後のフィードバックで有益

sub goalという考えは,事後のフィードバックにとっても有効かもしれません。もしも,時間内にうまく課題を達成できなかったグループがあったとして,そのタスクにおいてsub goalsをいくつ達成できたかという点で見てみると彼らの課題が見つかるかもしれないからです。Bygateの示したデータでは,すべてのグループがタスクを達成したため,「phaseとタスク達成の関係」は完全には明らかになっていません。タスクを達成できなかったグループがいたとして,そのグループがもし仮にすべてのphaseを通過したのにできなかったとすれば,phaseはirrelevantということになります。しかしもしかすると,どこかでつまずいたことが原因でタスクを達成できなかったという学習者がいるかもしれません。絵の微細な点について,描写しなかった(またはできなかった)けれども実はその点が他の絵との違いで,その情報を全員で共有していればタスクが達成できたかもしれないということはありえます。別のケースで,sequencingでつまづいて終了してしまったとします。このときに,follow, precede, come before, come after, first, next, then, before, afterのような前後関係を表す表現がうまく使えなかったので並び替えができなったということがわかれば,その学習者たちに必要なのはこうした前後関係を表現する言語リソースが足りていないということになり,そこがteaching pointになるでしょう。言語面については,varietyが大きすぎて一貫性は見られなかったというのがBygateの結論でしたが,具体的な場面での話に限定すれば指導のヒントにはなるでしょう。

研究への示唆

研究という視点では,このBygateの論文からもう少し発展させた研究が必要だと思います。例えば,他のタスク(意思決定タスクなど)でも同じようにphaseの共通性は高いのかどうかや,同一タスクでタスクの諸条件(複数コマ漫画並び替えタスクにおけるコマの数やグループの人数の組み合わせ)が変わってもphaseに変化はないのか,などが気になっています。

また,Bygateは会話の書き起こしからphaseを導出していますが,そうではなく,教える側があるタスク中に発生すると考えられるphaseを予測し,それがどの程度実際の会話で起こるのかといったこともpracticalな意味で関心があります。

あとは,少し非現実的かもしれませんが,実験的な操作を加えて群間比較するというデザインも思いつきます。たとえば,複数のphaseの中で特定の1つを禁止するような指示を与えてみて,そのグループがどれだけタスク達成に困難を抱えるかを比較することで,タスク達成に寄与しやすい(または必須かもしれない)phaseを特定するというようなこともできるかもしれません。

おわりに

以上,Bygateが提案した,taskのsub-goalという点について,批判的に検討し,その後に,意義があると思われる点についていくつか述べました。やはり,タスクの中身,つまりタスク遂行中に何が起こっているのか,そうしたことを,sub-goalという概念で整理することを試みたことにこの論文の意義があると思います。DSTの枠組みにうまくfitしているかという点についてもやや疑問があったのですが,あまり詳しく批判できるほどの知識を持ち合わせていなかったのでそのあたりはまた別の機会にということにしようと思います。ということで,今回は久しぶりにTBLTに関するお話でした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注1. もちろん,仮にオリジナルのストーリーとは違う順番であったとしても,こちらの想定を超えたイマジネーションで別の順序でも筋の通った物語になるということがあれば,そしてそれを説明できれば,「正しい」順番ではなかったとしてもタスクのゴールを達成したと評価することもできると思います。

 

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概念数の処理に関する論文が出ました

下記の論文が,First Viewで公開されました。論文がDLできない方は,著者用のリンクをお送りするのでご連絡ください。

TAMURA, Y., FUKUTA, J., NISHIMURA, Y., HARADA, Y., HARA, K., & KATO, D. (2018). Japanese EFL learners’ sentence processing of conceptual plurality: An analysis focusing on reciprocal verbs. Applied Psycholinguistics. Advance Online Publication. doi:10.1017/S0142716418000450

名古屋大学大学院のD2のときに院生仲間と一緒にやった研究です。初めて国際誌に投稿した論文なので,概要と投稿の経緯を書いて置こうと思います。

概要

ざっくりとした結論は以下のような感じです。

  • 日本語を第一言語とする英語学習者も,英語母語話者と同じようにA and Bという名詞句を概念的に複数として表象していて,その複数を構成する要素にもアクセス可能
  • ただし,the parentsのように複数の構成素が明示的でない場合にはその構成素にアクセスできない(母語話者もできないと先行研究で言われています)

具体的な実験では,次の4条件における下線部の単語単位での読解時間を比較して,aではガーデンパスに引っかかることなく読んでいるという結果になりました。

a. As the mother and the father battled the child played the guitar in the room.

b. As the parents battled the child played the guitar in the room.

c. As the mother and the father left the child played the guitar in the room.

d. As the parents left the child played the guitar in the room.

battleのような相互作用動詞が目的語を取らないという解釈にいたるためには,主語が複数である必要があります。その時には相互作用動詞の後ろの名詞句は主節の主語として解釈され,ガーデンパスを回避できるということです。4条件作っているのは,(a) A and B(conjoined NP)とthe parentsのようなplural definite descriptionを比較したこと,(b) 動詞のバイアスの影響ではないことを示すために自動詞と他動詞の両方が解釈として可能な動詞の条件も用意し,その場合にはガーデンパスを回避することができないことを示す必要がある,という2点が理由です。

出版までの経緯

冒頭にも書いたように,この論文はD2のときにデータ収集を行い,その年の全国英語教育学会熊本大会で発表を行いました。その後,論文の形にして最初に投稿したのがその年度の終わりの2016年3月でした。

最初の投稿

まず,Bilingualism: Language and Cognitionに出しました。そこでは,査読に回る前に,「母語話者と比較してないからだめ」という理由で突っぱねられましたが,「母語話者のデータがなくともこの実験の結果のみで十分に価値がある」という長めのメールを送り,いくつかの修正条件を提示されたのでその修正をし,最初の投稿から1ヶ月後くらいに再投稿しました。査読に周り,再投稿時点から2ヶ月たってreject通知をもらいました。とにかく,コメントの鋭さが今までに経験したことのないもので,すごくショックを感じるとともに,これをもとに修正したらもっと良くなるに違いないとも思えました。

二回目の投稿

大幅な書き直しが必要で,イントロ,バックグラウンド,ディスカッションとほぼすべて書き換えました。そして,2017年2月に今度はLinguistic Approaches to Bilingualismというところに出しました。外部査読に回るまでが1ヶ月,外部査読に回ってからは3ヶ月で結果が来たので,投稿から最初の結果がわかるまでは4ヶ月でした。そして,またrejectでした。

正直,査読者のコメントはそこまで批判的ではなく,3人いるすべての査読者が好意的なようでしたし,コメントも対応可能なものが多かったです。それでもrejectだったので,Editorに抗議するか迷いました。しかし,私の副査であったM先生に相談したところ,抗議しても結果が変わる可能性は限りなく低いので,もっと別の雑誌に投稿するほうが良いというアドバイスをいただきました。印象に残っているのは,「IFが低いジャーナルが必ずしも通りやすいジャーナルではない」という言葉でした。

三回目の投稿

この時点で,私自身は割と自信を失いかけていましたが,第二著者の福田さんが,「この研究は絶対に面白いから,Applied Psycholinguisticsに出してみよう」と提案してくれました。私は,「それは無理じゃないか…」と思っていたのですが,あきらめずにやることにしました。二回目の投稿でもらったコメントも,論文の質を上げることにとても役に立ちました。三回目に投稿するときには,ほとんど穴という穴は塞いだ状態で投稿することができましたし,論の流れもだいぶすっきりしたものになったと自分でも思えました(それでも今読み返せばまだまだだなと思います)。

Applied Psycholinguisticsに投稿したのが2018年の1月初旬で,約2ヶ月後の3月上旬に結果が来ました。Major Revisionでした。3人のレビュワーのコメントはマイナーなものがほとんどで,1回目,2回目の投稿のときの半分くらいのコメントしかなかったと思います(1度目,2度目は計50近くコメントあったと思います)。結果のわかったタイミングが年度末で私も何かと忙しかったのもあり,修正にまったく手をつけられませんでした。期限ギリギリのGWにようやく修正原稿を提出し,その1ヶ月後の6月上旬にMinor revisionという結果がきました。3人のうち1人のレビュワーが細かい修正を指摘してきたので,その点を直し,2週間後に提出しました。最初は注が11くらいあって,さらには語数が制限ギリギリだったので,注を削って語数の範囲内に収めるのに苦労しました。このジャーナルでの3回目の投稿から2週間後の7月上旬に採択通知が来て,それからは書類を出したり校正を受けたりしました。

感想

本当は,大学院生のうちに私も国際誌に出したいと思っていたのですが,それは結局叶えられませんでした。国際誌にこだわったというのは,心理言語学系では国際誌のほうが選択肢が多かったからというのがあります。また,どんどんチャレンジしていこうという雰囲気が私の周りだけでなく色々なところにあったことも理由でした。そういう意味では,この時代だったから出版された論文でもあると思っています。環境が少しでも違えば,出版を諦めていたか,全く別の形で出版されることになったと思います。

結果的に,自分の専門を語るときに使う,「心理言語学」という言葉の入ったジャーナルに論文が出たことはよかったのかなと思います。心理言語的なアプローチをする先輩は名大にもたくさんいらっしゃるので,その先輩たちに追いついてそして追い越したいという思いもありました。

時間はかなりかかってしまいましたが,時間をかけて査読のプロセスを経たことで最初の原稿よりはいいものになったなと思っています。もちろん,これからたくさん批判を受けることでしょうが,それもまた自分の研究をより良くするために大事なプロセスだと自分に言い聞かせています。

最後に

私は,実は名古屋大に在籍した4年間で,私が第一著者,福田さんが第二著者という論文を出したことがありませんでした(逆は1つあります)。彼とはずっと一緒に長く研究をやってきていたので,今回の論文でようやく私が第一著者で二人の名前が載った論文が出せてよかったなと思います。これからもがんばります。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

[R] sjPlotパッケージのバージョンアップ

Rで回帰モデルの図示をするときに私が使うパッケージは主に2つあって,1つはeffectsパッケージ,もう一つはsjPlotパッケージです。前者については,以前NagoyRで発表したことがあります。

effectsパッケージを用いた一般化線形モデルの可視化

後者は,lm, glm, lmer, glmerなどの関数で作った回帰モデルの結果が入ったオブジェクトを渡すと,その結果をggplot2に渡して可視化してくれます(その他にもいろんな可視化が可能ですが,私が使うのは主に回帰モデルの可視化です)。昔(数年前)までは,sjp.lm,sjp.glm,sjp.lmer,sjp.glmerなど,もとの回帰モデルに合わせて図示する際の関数を選ぶ仕様になっていました。そして,交互作用図を描きたいときは,sjp.int関数を使うというような。それが,最新版のsjPlotパッケージでは,これらの関数がなくなりすべてplot_modelという関数に統一されているようです(下記のサイトによると2017年10月にこの変更があったようです)。使用例は以下のサイトが参考になります。

„One function to rule them all“ – visualization of regression models in #rstats w/ #sjPlot

交互作用図は,type引数でintにするか,またはtypeをpredにして,termsで交互作用を指定するようです。

plot_model(fit, type=”int”)

or

plot_model(fit, type =”pred”, terms =c (“test”, “group”))

みたいな感じです。これについては,下記のページが参考になります。

 

Plotting Interaction Effects of Regression Models

より詳細な引数の説明などは以下のページに書いてあります(RDocumentationのページ)。

plot_model function | R Documentation

D院生のときに書いたスクリプトではGLMMの結果の可視化にsjp.glmerとかsjp.intを使っていたので,それらが動かなくなっていました。調べたらこういう仕様の変更があったと。一つの関数で,引数の組み合わせで色々な図が描けるというのは便利でいいですね。ただ,テーブル形式(HTML)で回帰モデルの結果を出力するsjt.lm系の関数は,lm, glmなどと組み合わせて,sjt.lm, sjt.glm, sjt.glmer, sjt.lmerなどのままのようです。

それから,最近lme4のモデル式の書き方でstanを使ったベイズ推定ができるbrmsというパッケージを知った(遅い)のですが,plot_model()はbrmsパッケージのモデルにも対応しているようです。まだ試してはいないので,いつかまたブログに書こうかなと思います。

では。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

キソケンとはなんだったか

外国語教育メディア学会中部支部外国語教育基礎研究部会(以下,キソケン)の2017年度報告論集が発行されました。

2017年度報告論集

私も一応まだ運営に携わっていますので,まずは報告論集を今年度も無事に発行できたことにホッとしています。この報告論集には,部会長が書く巻頭言が毎号あります(私も2015年度2016年度の報告論集で巻頭言を書きました)。今年度の巻頭言のタイトルは「基礎研の未来」でした。

キソケンに定期的に参加する人数が減っていることや,運営を担える部会員が減っていることなどから,規模の縮小はやむを得ない,という部会長の決断を文章として目の当たりにし,残念な気持ちになりました。ただ,その判断自体は尊重しているので,これからのキソケンのあり方について,現実的なビジョンが今後見えてくるといいなと思っています。

さて,今日はそんなキソケンは私にとってなんだったのかというお話です(長いです)。本題に入る前に,「キソケンってなに?」という方に少しだけキソケンの説明をしたいと思います。知っているよという方は読み飛ばしていただいて構いません。キソケンはもともと院生中心の勉強会だったものを学会の支部所属の研究部会として立ち上げたことが始まりと言われています(始まったときにはいなかったので伝聞です)。研究部会になると,部会の活動費として年間1万円,研究部会で発表することで支部紀要の投稿権が得られるなどのメリットがあります。また何よりも,勉強会は自らの意志で継続的に活動することが難しく,立ち上がっては消え,立ち上がっては消えを繰り返すことにしないためにも,研究部会という名目で活動していたというのも大きな理由だったと聞いています(はじまったとk)。この最後の意味では,キソケンがあることで,外国語教育の基礎的な事を勉強する場ができ,学年や大学を超えたネットワークも広がるなど,規模は小さくとも続けていくことにメリットはあると思っています。

で,私にとってのキソケンは,なんでもできる公園みたいなところでした。(比喩的な意味での)学校のグラウンドはやれ野球やサッカーなどの球技はダメだ,関係者以外は立入禁止だ,など色々な制限があります。でも,キソケンでは野球もできればサッカーもできる。自分たちが来てほしいと思う人たちに来てもらえる。そういう場所だったように感じています。

具体的に言えば,年次例会の基調講演あるいは不定期開催の特別セミナーで話を聞きたい先生をお呼びすることができるというのは,個人ではなかなか難しいことです。研究部会の例会の基調講演という名目があるからこそ,自分たちが話を聞きたい先生方をお呼びして60-90分のお話を聞けるのです。しかも無料で。これには,第2回年次例会以降,リアリーイングリッシュ株式会社様,第5回年次例会ではセンゲージ ラーニング株式会社にもご支援いただいたおかげです。「呼びたい先生を呼べる」ということの裏側で,「大学院生がここまでやるかぁ」というようなお腹の痛いメールのやりとりや懇親会でのやりとりを何度もしたことは事実です。

また,会場の問題もありました。学会目的での使用には使用料が発生する大学も最近では多く,部会費の数倍の会場費が必要となるということもありました。研究費で拠出することもできず,誰かが自腹を切ってまでそんなことやるのか?とも思いますし,かといって会場費がかからないからという理由で日々の業務でお忙しい先生に「会場を使わせていただきたい」というのも忍びないし,会場設営などをお手伝いいただいたりするのも申し訳ない。そんな状況でした。

つまり,「割と背伸びしすぎた」しわ寄せが下の世代にいってしまったのでした。私としては,背伸びしていて足攣りそうだったとも思いますが,それもポジティブにとらえています。院生がこんな経験はなかなかできないし,そういう経験をしたことが今後にも生きてくるだろうというように。いずれは「大学院生だから」というお守りもなくなってしまうわけで,そのときに強く生きていけるだけの力はついたのかなと思います。とはいっても,その負担が開催して得られるメリットよりも大きいと感じられるのなら,あえて負担しなくてもよいことでしょう。その時間で別の生産的なことはいくらでもできるでしょうから。

「なんでもできる場所」ということについては,自分の中にあった問題意識を形にできる場所というのもありました。「自己満足」と言われれば「そうでしたすみませんでした」という他ないのですが,第4回の若手シンポジウム,第5回のキャリアパス座談会は,私がやりたいと思っていたことを形にしたものです。どちらも,早稲田大学の石井雄隆先生に多大なご尽力をいただきました。若手シンポジウムは,自分たち世代(80年代後半生まれ世代)が教育実践を語る場を作りたかったというものです。学会での研究発表は院生時代から盛んにやられていても,自身の教育実践について発表する機会はあまり多くないように思っていたからです。ですが,そういう若手でも授業運営については信念をもって取り組んでいるはずで,そのことを話す機会を作りたかったのです(実は最初は若手論者バトル的なことを考えていましたけど)。はじめから狙っていたわけではありませんが,結果的に若手シンポジウムの登壇者が大修館の『英語教育』でリレー連載をすることになり,「やってよかったな」とホッとしました。キャリアパスについても,企画していた時点では「そういう話は表立ってしづらいし,表立ってできることはあまり役に立たない」みたいな意見をいただくこともありました。実際にやってみて,当日はフロアからやウェブ上でのコメントも活発でした。報告論集に書き起こし原稿を載せてありますので,そちらの反応はこれからかなと。私としては,関係者の皆様にご協力いただいたことに感謝しつつ,それでもやって無意味だったというような評価はしていません。もちろんもっと良く出来たかもしれませんが。

最後に,報告論集についても,「書きたいことを書いて載せられた」という点で自分にとっては良かったです。私は2014年度から2016年度まで,つまり私が博士後期課程に在籍している間は毎年1本を報告論集に投稿していました。キソケンの報告論集は査読なし扱いなので,査読なしだから出しても意味がないというように思う人もいるかもしれません。それはそれで有りだと思います。ただ,私にとってはだからこそ,「書いて残しておきたいもの」ではあるけれども「ジャーナル論文にするような性格のものではないようなもの」を書いて出すのにちょうどよい場所でした(そういうアイデアが当時割とあったとも言えます)。例えば,2014年度には「実験研究の過程と手法のよりよい理解のためにーマイクロリサーチ体験という試みー」と題した論文を出しました。これは,2014年度に静岡で行った学生向けのワークショップについてまとめたものです。マイクロリサーチ体験というのは,事前テスト-処遇-事後テスト-分析-結果-議論といった一連の流れをその場で実演し,研究の進め方についての理解を深めるというものでした。これは,キソケンのメンバーで行ったWSであったので基礎研論集に出したということもありますが,例えばどこかの学会誌に出そうとしたとしてもどの枠で出せばいいのかわかりません。ただ,どうしてもやって終わりではなく文章として形にしておきたかったのです。

2015年度は,「外国語教育研究における二値データの分析ーロジスティック回帰を例にー」というテクニカルレポートを書きました。これは,当時自分で勉強していたことをまとめたかったことと,Rのコードとともに残すことで自分の後輩にも読んでもらいたかったという意図がありました。院生時代にもデータ分析に関する相談を受けることは多く,その際に一般化線形モデルや一般化線形混合モデルを使ったらどうでしょうということがしばしばありました。そのときに,もちろんそれに関する書籍を紹介することもできましたし,グーグル検索すればロジスティック回帰に関する記事はたくさん見つけることができます。ただ,外国語教育研究の例で,Rのコードとともに,ということになるとなかなか例がありませんでした。そこで,「この論文がウェブで無料で公開されていますので読んでください」と言いたかったということです。これも,もちろんmethodological reviewというような形でジャーナルに投稿することもできたかもしれません。私にはその力はなかったというのもありますが,そこにリソースを割くよりも手っ取り早くpublishしたかったというのもあります。

2016年度は査読付き雑誌に2回落ちた論文を横流しする形で出したので,それまでのものとはやや性格は異なります。ただ,これも「教育実践について形になった論文をとにかく出したかった」ということと,同じような研究をやっている方々に読んでもらうためにオープンにウェブで公開したかったということが理由です。実際,自分も関わったプロジェクトに関する論文で引用したりもしました。草薙さんと共著で書いた「外国語教育研究における事後分析の危険性」という論文も,読まれる価値はあるけれども,学会誌等の投稿規定にはそぐわないだろうということがあって基礎研論集に書きました。

さて,長くなってしまいましたが,例会にしろ,論集にしろ,私は自分が運営として携わりながらもこうしたキソケンの活動を自分の研究活動の幅を広げるために大いに有効活用できたと思います。もちろんそこに色々な人達の協力と犠牲があったわけなのですが。キソケンは私にとってはそういう自由な表現ができる場所だったということです。週例会にも「自分を成長させるためにはどんな場所であるべきか」という視点があればいいなと思います(今はないということではないですが)。どんなことでも,義務感にかられてやるのは長続きしないものですし,活動自体も有意義なものにはなりにくいです。とくに学年が上になってくるとどうしても「初学者に教えるDの院生」的なことになりがちです。もちろんそこにもたくさんの学びの機会が転がっていることは間違いないのですが,一歩間違うと「なんでこんなこと教えてやらないといけないのか。なぜこんなことも知らないのか。時間がもったいない」となってしまいます。そうならないためにも,「自分の学びはどこにあるのか」という視点を全員が持って活動していけると,たとえ規模が縮小しても有意義な活動を続けていけるのではないかなと思います。そして,そういうことは院生時代だからこそできる機会だなとも就職した今は思います。

ちょっと説教臭くなってしまいましたが,後輩に向けたエールということでお許しください。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

博士後期課程で学んだこと

2014年4月に名古屋大学大学院国際開発研究科博士課程後期課程に入学してから4年,たくさんの先輩の背中を追いかけていたらいつのまにか自分が追いかけられる立場になり,そしてついに博士後期課程を修了しました。

名大に来てからたくさん学んだことがあって,それが今の,そしてこれからのベースになっていくのだろうと思います。そんなたくさんのことから,私自身が学んだことをいくつか書き記しておきたいと思います。自分のために書きますが,今名大に残っている後輩や,これから(名大に限らず)大学院で学ぶ人たちにも何か得るものがあれば良いなと思います。

以下に書くことは,あくまで私が「学んだと思えること」,そしてその中で「その事を学べて良かったと思っていること」です。これが唯一ということでもないですし,色々なやり方や考え方があると思います。

まず1つ目は,議論する事を恐れないということです。当たり前のように思われるかもしれませんが,これが意外と難しかったりするようです。ゼミや授業の中でも,プライベートな飲み会や休憩の中でも,とにかくたくさんのことを議論したことは本当に財産だなと私は思っています。ただ黙って聞いているだけでも,得るものは多い環境だったと思います。ただ,その何倍も自分を成長させてくれたと思うことは,自分が考えたことを口に出す経験を毎日繰り返したことでした。

私は以前,アカデミックな議論ができるようになるにはインプットだけでいいのか,それともアウトプットが必要なのかという記事を書いたことがあります。今思うのは,おそらくアウトプットが必要なのではないかということです。修士の後輩を見ていても,よく発言する人はグンと伸びるなという気がします。

私はブログを始めてかれこれ5年近く経ちますので,自分が考えていることを言葉にして,そして発信するという経験は名大に入る前からある程度は積んでいたつもりです。また,一時期ツイッターにはまっていて1日平均100ツイートくらいしていた時期もありました。その時も,ネット上ではワーワー言っていてツイッター上で議論もたくさんしました。そういう経験もあったからこそ,すんなりと入っていけたというのもあるかもしれません。ただしその経験を抜きにしても,アカデミックな議論をする際にはみんなが平等であり,先輩・後輩だとか,先生と学生だとか,そういう垣根なく自由に活発な議論を行える場があったということは本当に貴重な経験であったと思います。そういう日々の積み重ねがあったからこそ,学会での質疑応答にもそれなりに参加できるようになったのだと思っています。

2つ目は,とにかく研究に没頭するということでした。これも意見は分かれるところかもしれません。あまりに研究ばかりしていて周りが見えなくなったり,あるいはメンタル的に落ち込んでしまって病んでしまうということもあるかもしれないからです。私はメンタルが多少はタフだったのか,毎日毎日1日のほとんどの時間を研究室で過ごすことは苦ではありませんでした。もちろん,時期によっては気分が乗らずに部屋から出ないということもありましたが,そうしたことは数えるほどしかありませんでした。むしろ,周りの先輩たちは毎日研究室にいましたので,それが当たり前だと思っていたということもあります。それに,大学院生でも博士後期課程となれば研究活動は給与の発生しない「仕事」ですから,お給料をもらって働いている方と同じかそれ以上に「勤務」しないのはサボっているのも同じだとも思っていました。

念のためですが,こうしたしばき根性を正当化したいわけではありません。わたしにはそうした環境が合っていたというだけです。また,名大に来る前には中学校で働いていましたから,辛いとか大変だとか色々はありつつも,毎日研究室に来て自分のやりたい研究に没頭できるということを「大変だ」と思ったことはありませんでした。「中学校の激務に比べればなんてことはない」という気持ちでいました。

もちろん,息抜きは適度にしていたと思います。たまに外でキャッチボールしたり,少し足を伸ばして飲みに出かけたりということも院生仲間でやっていました。個人的にはAmazon Primeビデオで映画やドラマをたくさん見たり,DAZNでサッカー中継を見たりもしていました。

話を戻すと,2つ目の研究に没頭するという事と,1つ目の議論する事は,相乗効果を持っているとも思っています。1人で頭の中で考えててもやはり限界があると思うので,その時に自分を次のステージに連れて行ってくれることが多かったのは人に話す機会を持った時だったなと振り返って思います。学会やゼミでのフォーマルな発表に限らず,色々な機会で人と話すことで思考が整理されたり,自分には見えていなかった視点が見つかったりしました。そして,この人と話す機会を増やすということが3つ目です。

人と話す機会を増やすには,学外に積極的に出て行くことも必要になります。同じ環境でいつも一緒にいる人と話をしていると,お互いの考えが似通って来たり,ある話題に対して共通の見解を持ちやすくなることが多いと思います(私はそうでした)。その時に,学会や研究会に行って普段話す機会の少ない人たちと話をすることはすごく刺激になりました。私はあまりソーシャルなタイプではないので,知り合いが全くいない学会では尻込みしてしまうタイプです。そういう方は,小さな勉強会や研究会に行ってみると良いかなと思います。人数が少ない方がコミュニケーションも取りやすいですし,小さな会は週1や月1など,学会の大会よりも頻度が高いので,つながりも構築しやすいです。私はD1の夏くらいから名古屋で行われている研究会に毎月参加するようになりました。そこに参加して毎月輪読と発表をしていたことで,自分の研究のみにのめり込みすぎず,視野を広げていられたと思っています。

最近は休止してしまっていますが,Skype読書会で学んだこともたくさんありました。イントロ系の本でも,何回も読めばその度に違う視点で読むことができましたし,自分の意見を述べたり,要約して説明したりする練習にもなりました。論文の輪読になっても,普段なかなか議論する機会のない先生方と論文を批判的に読む機会は貴重で,勉強になることだらけでした。そのツッコミは考えつかなかったなあということや,そのツッコミに対してこういう切り返しもあるかあなど,いつも頭をフル回転させて考えていました。和気あいあいな雰囲気でしたが,実は毎回緊張しながら参加していました。自分の意見は的外れじゃないかとか考えてしまって。それでも,そうやって自分の考えをまとめたり,意見を述べたりという機会を定期的に持ち,そして多様な考えを持った方々と議論できたことは自分を成長させてくれたなと思います。

1つ目の議論することを恐れないということも,こうした研究会や読書会に定期的に参加していたことと無関係ではないでしょう。読書会や研究会に参加して,「何も言わずに過ごす」ということはないわけで,「とにかく何か自分も発言して,貢献しないといけない」という状況が当たり前だと思うようになりました。ゼミだとそれでも誰も何も言わない環境でしたから,プライベートで議論する機会や研究会や勉強会に出ていなかったら,今のようにアカデミックな議論をする力は身についていなかったかもしれません。

最後は,とにかくたくさんのデータを見て,触って,考える,ということです。これは個人的になんらかの量的データを扱う研究をしているからですが,生のデータを自分の手で(というかRで)分析するという経験をたくさんしたことで,統計の知識だったり考え方だったりが割とスムーズに入ってくるようになったと思います。とにかく手を動かして,わからないところは調べて,「こういうもんなんだ」というところはひとまず「そういうもんだ」と思って先に進み,ということの繰り返しでやっていたかなというのが私の経験から言えることです。

統計の技術的なことについては,解析技術の進歩がものすごく早くなっていることを鑑みて,「身につける必要がない」という人もいます。むしろ,そのベースになる数学や背景にある思想こそを身につけるべきだという意見です。これには一理あると思います。しかしながら,私は100%同意はできません。なぜなら,実際にデータを扱って分析してみるという経験無しには難しいと思うからです。つまり,ふつうの文系(とくくりましたが言語教育系まで狭めた方がいいかもしれません)には数学や思想の理解はボトムアップ的な経験なしでは容易ではないように思います。

生のデータに数多くあたってデータ処理や分析をやるからこそ,数学的なことも付随的についてくるのかなというのが個人的な印象です。私はそうでしたし,数学的なことは強いけど分析技術は全然ないという人を同じ分野で見たことがありません。あと20年したらそういう人も出てくるのかもしれませんが。

というわけで,皆さん色々お考えはおありでしょうが,私が思う院生として大事なことを4つあげました。4年間お世話になりました。今後ともよろしくお願いします。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

人に厳しい人の覚悟

自分ではそういう意識はないのですが,私はしばしば「怖い人」と言われたりします(周りから言われて意識するようになった)。

対外的に愛想の良さが求められる場面ではない限り、基本的に1人で行動するときには「話しかけるな」オーラを出している自覚はあります。ただ,そういうことではなくて「相手を見ずにストレートにモノを言う」ところを「怖い」と形容されるのかなと思っています。

最近は丸くなったと言われますが,数年前くらいならゼミで博論の発表した先輩に「小学生の自由研究やってるんじゃないんですよ」って言ったこともあります(あの時は若かったと反省しています)。しかし私がそういうスタンスで他の人の研究にコメントすることは,私の研究にも同じコメントが向けられることを容認しているという覚悟もあります。上述の「自由研究じゃないんだから」は,研究課題の導出過程に当該分野での課題やその批判的なレビュー,その分野への貢献と言った視点が全くなく,「私はこれが知りたいのでこれやりました」というような内容の発表へのコメントでした。言い方はもっと考えるべきだったと思っていますが,博士論文に値する学術研究としての価値が見出せないという点については今でも間違っていないと思っています。

私の研究も見る人が見たら「自由研究じゃないんだから」と言われるかも知れません。そういうコメントがあればそれなりの対応をしようと思いますし,真摯にコメントを聞き入れて今後に活かそうと思うでしょう。私の研究や発表が可愛いとか大事だとか思っているわけではないからです。批判が生まれることはあっても,研究分野に貢献する何かが提示できればいいと私は思っています。私がそう考えるだけで,こうした考え方は一般的ではないのかもしれませんが。

私が他の人にするコメントは,常に自分の研究にも跳ね返ってくるものだと私は思っているのです。少なくともアカデミックな文脈において,私は個人を攻撃したりはしません(そりゃ居酒屋で愚痴るとかあの人嫌いとか絶対言わないわけではないですけども)。自分は人に厳しくコメントするが,人から厳しいコメントは受けないというのはアンフェアというか,卑怯です。

「田村は相手を選ばずに誰に対しても同じテンションでコメントするよね」というようなことを言われたこともあります(批判的な意味ではないと補足されましたけども)。これは私の個人的な考えですが,学会(やそれに準ずる場所)での発表や論文投稿やその他の媒体での出版は,常に批判的で建設的なコメントをもらえる機会だと思っています。そしてそれが自分の研究のクオリティを上げることにつながると思っていますし,自分の成長にもつながると思っています。だからこそ発表をするし,論文を投稿しようと思うわけです。そういった気持ちでなければ発表してはいけないと言うつもりはないですが,発表者が何を思って発表しているかは私にはわからないので,私が発表者だとしたらコメントしてもらえてよかったと思うだろうというようなコメントをしたいと私は思います。それは簡単なことではないですし,なかなかうまくいった試しがありません。そうではあっても,頭の中で考えているだけでは自分のコメントに意義があるかを確認できないのでコメントします(変なコメントばかりしているかもしれません)。

時には私の発表に対して辛辣なコメントがあるかもしれませんし,その事で不快な思いをすることもあるのかもしれませんが,それが建設的なコメントである限りは,「何か言ってもらえるだけありがたい」と思いたいです。また,おそらくですが自分の発表などが届く範囲が広がれば広がるほど、ほとんど個人攻撃に近い無意味なコメントも増えていくのでしょう。

そうではあっても,私のいうことがすべて肯定され,私の行いがすべて賛同されることがもし仮に,万が一あるとしたら,それは気をつけなければいけない事ではないかと思います。それは,周りから建設的で批判的なコメントをするに値しない人だと思われているかもしれないからです。また,その状況に慣れすぎたり,自らその方向に向かっていけば,ひとたび批判的なコメントに晒された時に,そのコメントに対して過剰に「攻撃された」と感じてしまうかもしれません。もしそうなることがあったとすれば,私はすでに研究者ではなくなっていると思います。

教育に関していうと,ビリーフの部分もかなり大きいですから,自分が信じてやってきたことに対して批判されると,なおさら個人攻撃のように感じられることもあるのかもしれません。もしそうしたことが起こっても,その批判から真摯に学ぶことは忘れないようにしたいです。

そして,歳をとればとるほど自分の信念を批判されることも耐えがたくなってくるのでしょう。そんな時でも,学び続ける姿勢を忘れずに生きていきたいと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

Comprehensibilityってなんなのさ

ずっと下書き状態で放置していたのですが,「田村さんがJ-SLARFのあとにcomprehensibilityについてブログを書くとおっしゃっていたので楽しみにしていたのですが…」という問い合わせをいただいてしまったので頑張って加筆して公開することにしたいと思います。


最近の(私より)若い人たちの間では,comprehensibilityといわれる尺度(注1)と相関する変数をあげたら優勝大会というのがどうも人気のようです。しかしながら,このcomprehensibilityというのがまた得体の知れない曲者で,そういう大会に参加されている方々でも「よくわかっていない」もののようです。

とりあげられる変数は,音声発話から算出される言語的特徴量であることが多いようで,言語的特徴量から近似的に予測できる人間の主観的な心理尺度の1つということなのかなと思いますが,私にもよくわかりません。「comprehensibilityは心理的に実在するものか」という質問をさせていただいて,この質問があまり良くなかったことを反省しています。comprehensibilityが,人間の主観であるとすれば,それは人間の主観を離れて存在することが不可能ですから,実在はしないものであるといえるのかもしれません。私がお尋ねしたかったことは,comprehensibilityが構成概念だとしたとき(注2),そのモデルはどういったものになっているのだろうかということでした。言語的特徴量の数値それ自体には良い悪いという主観的な判断は存在しないはずで(注3),その個々の数値についてのなんらかの価値判断の総体となったものがcomprehensibilityというものだと考えてよいのか,とも言えるかもしれません。あるいは,個々の数値というよりもその数値が正確さ,流暢さといった概念を形成し,そうした概念についての主観的な判断の総体なのかもしれません。あるいは,可能性としては低そうですが言語的特徴量のようなものについてはなんの価値判断もなく,comprehensibility評価装置のような機構に言語的特徴量の値を入力した時,そこから初めてcomprehensibilityについての主観が生まれるのかもしれません。

このとき,正確さや流暢さといったものとしていくつかの変数をまとめる(あるいはまとめずに解釈する)ことに対する問題点はCAF警察の後輩にまかせるとして,人がある言語産出の理解(発話の理解や作文の理解など)に取り組んだとき,「この人の発話(作文)は文法的に正確だ」とか思うその主観的な判断は,その人の「文法的に正確な言語を産出する能力」と同じものなのかということも考えてみるとおもしろそうです。主観から離れた能力が存在するのかという意味で。

そして,このcomprehensibilityというのはいわゆる「スピーキング能力」と何が違うのかや,スピーキング能力とcomprehensibilityはどういう関係性なのだろうかというのも気になるところです。発話にあらわれる言語的特徴量は人の持つ「スピーキング能力」が反映されたものだと考えると(注4),言語的特徴量はスピーキング能力を反映したものだともいえます。そして,その同じ言語的特徴量を用いてcomprehensibilityというものをこちらは形成モデル的に測定しようとしているようにみえます。スピーキング能力がテキストに反映されていると考えれば,反映モデルでスピーキング能力を測定しようとすれば良いはずです。それを形成モデルでcomprehensibilityという新しい指標値を立てることによる利点はなんなのでしょうか(私の不勉強かもしれませんので,この論文を読めば書いてあるということでしたらご教示ください)。また,三者(comprehensibility, 言語的特徴量,スピーキング能力)の関係はどのようになっているのでしょうか。comprehensibilityに詳しい方にぜひ教えていただきたいです。

蛇足ですが,「よくわからない」ものを応答変数にして回帰する前に,comprehensibilityというヤツの正体を少しずつでもいいから明らかにする研究はやったらどうだろうとも思います。例えば,聞き取りにかかるmental effortが聞き取りやすさということなら,聞き取りづらい発話を聞くことにmental effortが割かれているのかどうか,逆に聞き取りやすい発話を聞くときにはmental effortがそれほど必要ないのかどうか,ということを確かめる実験をやってみるというのはどうでしょうか。これは,心理実験的にそこまで難しいことでもないと思います。

では,このへんで。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注1. 妥当化されてないので尺度というのもあれですが。スコア?ですかね。

注2. comprehensibilityは構成概念ではないという見方もありえます。つまり,comprehensibilityは単純に能力の影響を受けたテキストの値を変換したものであって,comprehensibilityという固有の値をもつわけではないと考えるということです。

注3. 言語的特徴量自体に対して主観的な判断を尋ねる場合もあるようですが。

注4. 能力は全部形成モデルだ,という考えもありますが,テスティング系の研究者はおそらく能力がパフォーマンスやテストにあらわれると考えていると理解しています。

p.s. 新年一発目の挨拶もせず,このようなブログを更新してしまいました。年末年始は例年よりも長く1週間も実家に滞在したのが災いしたのか,名古屋のアパートに帰ってきてからキーケースを東京の実家の玄関に置き忘れるという大失態を犯し,寒空の中途方に暮れるという波乱の幕開けとなった2018年。何か悪いことが起こるという前兆かもしれませんので,いつも以上に気を引き締めて生活していきたいと思います。