42.5インチディスプレイが快適すぎる話

先日,42.5インチのディスプレイを買いました。

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知り合いのK先生が買ったというので,便乗しました。ただ,私がK先生から最初に話を聞いたときは,「そんなでかいモニタ必要ないでしょうw 大きすぎw」というもの。みなさんも,「テレビならわかるけど作業用のモニタでそんな大きいのは…という感想をお持ちになられたかもしれません。ウェブを少し検索してみても,

43インチ4KモニターをPCディスプレイにすべきじゃない理由!!

など,おすすめできないという方もいるようです。他にも,いろいろレビューを書いている方がいらっしゃるようなので,気になる方は覗いてみてください。

パソコンの4Kディスプレーは「43型」が便利だった

【開発環境】42.5インチディスプレイを試してみた!

【レビュー 大きすぎ?】巨大モニターLG 43UD79 Bを使ってみた感想 超高精細4K 43インチ級液晶モニター

私が使ってみた感想は,「ちょうどいい」です。むしろ,もうこれより小さいモニタには戻れないと言ってもいいくらいです。このモニタにする前は,23インチモニタと19.1インチ(かな?)のスクエア型モニタを使っていて,大きい方はWindows機,スクエア型の方はMBAをつないで使っていました。今は,23.5インチにMBAをつなぎ,42.5インチをWindows機で使っています(MBAとHDMIをつなぐ変換コネクタがないのでMBAつないだらどうかはわかりません)。

私の研究室の机は,デフォルトでおいてあるオフィスワーク用のデスクで,左右に引き出しがついているものです。横幅がそれなりにあるので,42.5インチのモニタを置いても,その横にUSBハブ,HDD,AirMac Time Capsuleを置くくらいのスペースはあります。逆側には23インチモニタ用のモニタアームもつけてます。

このモニタを置くために机上のモニタ台を取っ払い,ScanSnapを移動し,等々をしたので,むしろ逆に机が広くなったという印象さえあるくらいです。

モニタのみやすさについては,椅子のヘッドレストに首をしっかり固定した状態でちょうどよく,この状態でかなりはっきりと文字が見えるので,以前よりもモニタを見る姿勢がよくなったなと思っています。1画面表示で例えばウェブブラウザを開くと下のようにスペースが無駄になるので,基本はwindowsキー+左右矢印キーのショートカットキーでウィンドウを左右に寄せて,1画面上でウィンドウを左右に二分割するようにしています。

ウィンドウ1つでウェブブラウザを開くと右側のスペースがほぼ無駄になります。

2分割するとちょうどよいです。

論文をPDFで読もうという場合も見開き表示にしても拡大率が120%でいけます。2枚同時に並べて,横幅に合わせて拡大すると,だいたい150%でちょうどよくなります。普段150%にして見ているという方は,42.5インチモニタの快適さを強く実感できると思います。

左側のPDFはトップページの論文情報だけ幅が違うので左右に若干の隙間ができています

それから,MS-Wordファイルを開いた場合,見開き表示にコメント欄まで表示しても,横スクロールの必要がありません。たまに,大きくするとコメント欄が見づらくなって面倒だということもありますよね。そんなこともこの大きさのモニタなら何も問題ありません。ちなみに,下の画像の倍率は110%です。

シングルページだと,230%くらいで横幅がぴったりになり,ダブルスペースで15行くらいの表示になります。

そしてなんとなんと,RStudioも超快適です!RStudioはデフォルトで4ペイン表示なわけで,これがまさに42.5インチディスプレイの大きさと相性抜群なわけです。普段ならPlotsのペインが小さすぎてグラフを描いたらちょっと拡大してとかやっている人も多いかと思いますが,心配無用です。なぜなら何もせずともそこらのラップトップPCの画面より大きい画面でグラフが表示されるわけですから。縦幅もしっかりあるので,Markdownファイルとコンソールの表示領域も広いです。23インチモニタを縦置きしている気分ですね。

このデータのやつ分析の結果を早くまとめて発表しないとパイセンにしばかれる

これは私の買ったLGディスプレイの機能になりますが,画面分割のバリエーションが豊富に設定できます。4分割にもなりますし,左右どちらかは2分割でもう一方は縦長スクリーンのようなことも可能です。ウィンドウを開いてそのスペースに移動させると自動的にウィンドウサイズを調整してくれるので,左右に分割以外の方法で使いたいときにはもってこいでしょう。42.5インチは,21.5インチディスプレイが4枚と同等ですから,4分割でも小さくて見えづらいなどということは全くありません。


ただし,このディスプレイでもしかしたら気になる方がいるかなと思うのは,正面からディスプレイを見ていると画面端が少し死角になって見えなくなってしまうことです(注1)。普通にしている分には私は特に問題を感じていませんが,気になるという人もいるかもしれません。

このウィンドウ分割機能は便利ですが,もっと便利になるためにはどうなっていたら最高かという個人的なことを言わせてもらうと,画面分割がデスクトップ画面ごとに変更できるといいなあという感じです。私は,いつも仮想デスクトップをいくつか作ってWindowsキー+Ctrl+左右矢印キー(MBAならトラックパッドの四本指横スワイプ)でデスクトップを行き来するのが大好きなのですが,例えばデスクトップ1では二分割,デスクトップ2では三分割,みたいなことができたらもっといいなと思いました(別にこれができなくても何も文句はないです)。

ということで,私のお仕事環境には42.5インチは最強というお話でした。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

 

注1. 少しだけですね。私はデフォルトの表示サイズを150%にして使っていますが,それで1文字の半分が見えなくなるというくらいです。(顔を画面端に持っていって角度をなくせば見えます)

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「意思決定タスク」の難しさ

ライティングの話が多かったので,今回はスピーキングの話。

タスクのタイプには情報伝達・ナレーション・情報合成・問題解決・意思決定などがありますよね。といってもわかりにくいかもしれませんが,一言でタスクと言ってもそれが求めることによっていくつかのタイプに分類できるのではないかなという話です。タスク・タイプの詳しい解説については,下記の論文をご参照ください。

松村昌紀(2017)「タスク・タイプの理論的基盤と学習者の言語使用」『中部地区英語教育学会紀要』46, 55–62. doi:10.20713/celes.46.0_55

意思決定タスクとして有名なのは「無人島タスク」で,「無人島に持っていくものをみんなで相談して決める」というもの。これが大筋で、どういう経緯で無人島に行くことになったのか,何個まで無人島に持っていくことができるか,その無人島は一体どんな場所なのか,などのコンテクストをうまく設定することで,リアリティを持たせるとともに議論に一定の方向性を持たせたり,持ち物を決める際のリーズニングのベースとして機能させたりします。

意思決定タスクのゴールは「合意」で,話し合いの中で意見を1つに集約することが求められます。無人島タスクなら,「1つだけ持っていける」という制限だとしたらその持ち物を1つに決めることができればタスクが達成できたと判断することになります。

私も授業でよく意思決定タスクをやることがあります。授業で使っているテキストに関連させた内容にすることが多いのですが,実際にタスクをやらせると,「合意する」というのは結構ハードルが高いのだなということを思い知らされます。だからこそ,タスクを配列することになった時には意思決定タスクは後ろの方にすることになるんですけどね(余談ですが,実際にゼロからタスクを構想したとき,1番作りやすいのは意思決定タスクだと個人的には思っています)。

例えば,「4人の教員採用候補者の中から1人選ぶ」というタスクをやるとします(R.Ellis, 2003に例が載っています)。この時,目の付け所って色んなところにあるんですよね。というかそうしないとそもそもタスクとして盛り上がらないわけです。みんながみんな「絶対この人でしょ」みたいになってしまえば,議論した上で合意形成するというプロセスが必要ないわけですから。ところが,そうやって意見が割れるように仕組むところまではうまくいっても,それをすり合わせるのはなかなか難しい。教員側としては、たくさん議論してほしいわけですから,簡単に誰かの意見に同意して議論を終わらせるみたいなことだけはどうしても避けたいと考えます。そうすると,「誰かの意見に簡単に同意できないからとにかく自分の意見を貫き通す」ことになってしまいます。しかし時間内にどこかで合意しないとタスク達成にならないので,どこかで誰かが折れて1つの意見を最終的に採用することになります。この「折れる」とき,採用される意見に納得していて,その意見を出した人がみんなを(または2人で取り組んでいるのなら会話相手を)説得したというのならそれでいいなと思います。ただし,やり取りを聞いていると,その議論がかみ合わずに平行線になって止まってしまい、埒があかないからどちらかが折れて合意するという流れが圧倒的に多いように感じています。

もちろんタスクの設定の仕方の問題もあるでしょうし,学生の言語的なレベルの問題もあるでしょうし,言語に関わらず議論するスキルの問題もあるかもしれません。原因が1つに絞られるとは思っていませんが,とにかくこの意思決定タスクというのは難しいということが,この1年間スピーキングの授業をやっていて思ったことです。合議によって意思を決定するというゴールに到達するためには,どのようなサブゴール(cf. タスクにおける”sub-goal”という概念)があるのかなというのも考えなくてはいけないかもしれません。それが明らかになれば,ある程度誘導が可能だからです。ただ,それを事前に教えるというのはタスクっぽくなくなってしまうので,それもやりながら徐々に浸透させていくような工夫が必要になるかなと思います。

授業で「意思決定タスク」をやるときに,気をつけているポイントはありますか?ということをみなさんにぜひ聞いてみたいです。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

2018年の振り返り

毎年恒例になってきた一年の振り返り記事を今年も書こうと思います。これまでの振り返り記事も興味がお有りの方はどうぞ。

過去の振り返り記事

ブログのこと

この記事を書いている2018年12月30日時点でのこのブログのpage viewは76,252です。昨年の振り返りでは50,000を超えたと書いていたと思います。つまり,2018年の1年間で25,000近いアクセスがあったということですね。ありがたいことです。やっぱり上位は例年同様にR系の記事なのですが,今年1年間のアクセスランキングを見ていると,『人に厳しい人の覚悟』というのが上位に食い込んでいます。「あーそんなこともあったなぁ」という感じですね。

ブログの更新もそんなに頻繁にできているわけではないのですが,それでも月に2本弱くらいのペースで今年はやってきたようでした。『英語教育0.2』になってから5年が経ちましたが,他の英語教育ブログに負けぬよう10年選手,20年選手を目指してやっていこうと思います。学会等で,「実はブログ読んでいます」と言われると,恥ずかしくて死にたくなる一方で,「ブログやっててよかったな」と思ったりもします。自分にとっても,自分の所属先にとってもプラスになるようなブログになるようこれからも続けていきたいです。

私がブログを始めた際には多くの人がブログを書いていたように思いますが,今も定期的に更新されるブログがだんだん少なくなってきているような気がして寂しい気もします。Feedlyで更新がわかると,「あ!更新されてる!」ってなるあのワクワク感みたいなの,もっとほしいです(誰だ)。ということで,あ,そういえばブログもうしばらく書いていないなという方は明日からどうですか?

個人のこと

博士号取得

2018年は人生の色々な節目が一気にやってきた年でした。その最初の出来事が,博士論文を提出して博士号を取得したことでした。今では遠い昔のことのように思いますが,まだ1年も経っていないんですよね。『博士課程で学んだこと』という記事の中には実は書かなかったのですが,博士後期課程を終えるという経験の中で,今の自分に一番役に立っていることは,「自分をコントロールすること」かもしれません。指導教官であったY先生から教わったことでもありますが,「ネガティブなことを考えている時間はもったいない」という意識でアンガーコントロールしたり,ストレスや不安をうまく処理したりするのは博士後期課程で身につけられたからこそ今もなんとかやっていけているのかなと思います。

就職

博士号取得の次の出来事は,大学教員として就職したことです。非常勤講師として授業を担当したことはありましたが,大学教員としての仕事はそれ以上にやることがたくさんあって,とにかく毎日生きるのが必死でした。中学校教員をやっていた時を思い出して,「あのときに比べればなんてことなはい」の精神でGWに入るまでほぼ毎日仕事していたのが懐かしいです。後期になってからは授業にはなれてきたのですが,その他にメンタルに打撃を受ける仕事があって,Thunderbirdを開くたびに憂鬱な気持ちになる日々です。

仕事を続けるか続けないかの決め手は,お金,仕事のやりがい,人間関係のうちの最低2つに自分が満足しているかどうか,という話をどこかで聞いたことがありますが,私の職場は3つとも満たされている最高の職場なので,そうでなかったら相当しんどいなと思います。つらくてもキャンパスで同僚の先生に会えば声をかけてもらえたりお菓子をもらえたりするので,それに助けられているなと思います。自分の仕事のできなさを日々痛感して病みそうになるときもたしかにあります。そうであっても,「授業でもそれ以外の仕事でも,とにかく若いうちは失敗してもいいから全力でぶつかっていこう,それしかできないしそれでいいんだ。ただし学ぶ姿勢は大事にしよう。」という気持ちでやっています。

結婚

2018年の大きな出来事の最後は結婚したことです。就職する前から同棲していたのですが,6月にプロポーズして,11月に入籍しました。入籍してから特に変わったなと思うことはあまりないのですが,ふたり暮らしっていうのはいいですね。一緒にご飯食べたりとか,寝る前に一緒に海外ドラマ見たりとか,そういう何気ない日常の一コマが「一緒に」ってなると人生豊かになるなぁなんて思ったりします。数年後には,「なんで家にいるの?」とか言われるかもしれないので,今からビクビクしながら一生懸命家事炊事洗濯を頑張っています。

その他

健康面で言えば,今年1年間は特に体調を崩した記憶がないです。と書こうとして,博論の口頭審査の翌日にぶっ倒れてしまい,名古屋にいらっしゃっていた浦野先生との約束をドタキャンしたことを思い出しました。あのときは本当にすみませんでした(北海道の昆布おいしいです)。それ以外には,とくに風邪を引いたりもしていません。1年間で体重は5キロ減,体脂肪率は7%減で身体がだいぶ引き締まったなと思うのですが,これは食事に気を使ったり運動を少しはするようになったからなのか,あるいは仕事のストレスなのかはよくわかりません(苦笑)。

あとは,4年間住んだ名古屋を離れて大阪に引っ越したことも2018年の中では個人的に大きなことだったなと思います。関西弁はなかなか上達しませんし,ボケもツッコミも全然うまくなっていませんが,特に大阪を嫌いになることなくここまでは生活できています。食べ物も美味しいですし。唯一残念なのが赤だしが入手困難なことだけですね。スーパーに行っても低価格帯の300円くらいのやつが売ってなくて,小さめで400-500円のものを買わないといけないところだけは名古屋がやっぱりいいなと思います。月1で名古屋に行っているので,そのときにわざわざ名古屋のスーパーで買って帰っています。あとは季節柄というか,大阪では初詣にどこに行くんだろう?っていうのはありますね。名古屋ならとりあえず熱田神宮にいってきしめん食べて帰るっていう王道ルートが最高ですが,大阪だと初詣ってどこにいくんだろう?っていうのは最近よく思っています(調べない)。

おわりに

来年の目標とかはあまり考えないようにしようかなと思います。やっぱり年度で頭や仕事が切り替わるということもありますし。ただし,健康第一ということは忘れずにいきたいと思います。

最後になりましたが,みなさん,今年一年お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

タスクにおける”sub-goal”という概念

はじめに

下記の本を月例の研究会で1章ずつ読んでいます。

Recent Perspectives on Task-Based Language Learning and Teaching

Ed. by Ahmadian, Mohammad / García Mayo, María del Pilar

この本全体については,Cognitive-Interactionist, Sociocultural Theory, Complexity Theory, Pedagogic and Educationalという4つのperspectivesからなる12章の本で,個人的には通読するよりも気になった章だけつまみ食いするという読み方がいいかなと思います。正直言ってあまりおもしろくない(質があまり高くない)チャプターも結構ありますので。

 

第7章がおすすめ

この本の第7章は,Martin Bygateが書いた”Dynamic Systems Theory and the Issue of Predictability in Task-Based Language: Some Implications for Research Practice in TBLT”という論文です。タイトルにDynamic Systemsと書いてありますが,そこまでDSTを推しているということではなく,「タスクってさ,何かやらせてみてもどんなことが起こるかわからないしリアクティブに教えるのがいいっていうけどやっぱそういうの不安だもん」みたいな言説について,predictabilityが一応ありますよっていうことを言うための理論的基盤としてDSTを持ってきているという印象です。それをベースにして,ケーススタディ的にデータを見てみるというようなのがこの論文の流れです。

この章を読むまでは,「この本は失敗だったかもしれない」と思うほどがっかりさせられるようなものが多かったのですが,この第7章は面白いなと久しぶりにワクワクしました。もちろん,ちょっとそれはどうなのと思うところもあるにはありました。ただ,それを差し引いても面白かったです。

 

何がそんなに面白かったか

一言で言えば,この記事のタイトルにもしている”sub-goal”という概念を導入している点が個人的にはこの論文で一番inspringだと思ったところです。示しているデータはおそらく過去の研究のものでしたし,特に分析をしっかりしているということではないのですが,それでもこの”sub-goal”というものはTBLTの研究でいろんなことができそうだなと思えた,そう思わせてくれるような内容でした。もちろん,実践においても示唆があることだと思いました。

sub-goalとはなにか

TBLTをご存知の方には馴染みのあることだと思いますが,タスクにはゴールがあります。spot-the-difference taskなら2つの絵の間にある違いをすべて見つけ出すことがゴールですし,picture description taskなら絵(または写真)を見ずに口頭で描写し,もとの絵(や写真)にできるだけ近いものを完成させるというのがゴールになります。この章で例として用いられているタスクは,6コマ漫画を6人で分割して1人が1コマずつ持ち,見せ合わずに正しい順番に並び替えるというものです。この場合,「正しい順番に並び替える」というのがゴールになります(注1)。

Bygateが言っているのは,このゴールに向かう前の段階にいくつかのphaseがあるということです。どんなphaseかというのを説明する際にBygateは,pragmaticとかdiscourseとかいう言葉を説明の際に使っています。少し長いですが,このphaseについて説明している箇所を本文から引用します。

A phase was defined in terms of the pragmatic coherence of a stretch of discourse which while not in itself achieving the overall task goal, likely contributed to achieving a useful enabling sub-goal. For instance, descriptions of the individual pictures in random order would contribute to the sub-goal of sharing information about the pictures, but would not themselves achieve the overall goal of sorting out the sequence and telling the story (even if by chance the students did actually provide the descriptions in the exact sequence of the narrative). Similarly, discourse during which students exchanged information about what they thought was going on in their respective pictures could not be interpreted as ‘telling the story’ either. Where students spent time suggesting potential sequencing of the pictures (still without seeing them), possibly accompanied by brief justifications, this kind of talk too contributes to a potentially useful subgoal, but still does not constitute the ‘telling of the story’. Hence the macro-purposes of the different discourse phases were inferred in relation to the pragmatic criterion: what are the speakers jointly trying to do at this point? Identification of phases enabled an assessment of the trajectories that the groups followed (p.155).

上の引用中では,”(sorting out the sequence and) telling a story”というのがタスクの最終的なゴールで,そこに到達するために有効なやりとりや言語行為をphaseとしています。複数コマ漫画の並び替えならば,まずは個々人の持っている写真を描写することからスタートすると予測されるので,それが一つのphaseになるというわけです。そして,自分の写真とグループメンバーの写真についての情報を全員が持った状態で,それぞれの写真に描かれている情報の違いを見つけることになります。そして,「いったいどんなストーリーなのだろうか」という話をしながら前後関係を特定していくことになると予想されます。これらの段階もすべてphaseであると。そして学習者はこういった複数のphaseを経て,最終的なゴールに辿り着くというわけです。

Bygateは,複数コマ漫画並び替えタスクでは次の5つのphaseがあるとしています。

  1. Description
  2. Comparison
  3. Interpreting gist
  4. Sequencing
  5. Narrative

ちょっとなんでだろうなと思ったことは,タスクの特性などから予測してこのphaseを導出したのではなく,実際の発話の書き起こしを分類してそれぞれのラベルを貼ったという点です。その後に,結果の解釈として,「複数のグループでタスクをやらせたけど,ほとんどのグループのタスク遂行中の発話に5つのphaseが見られた」みたいな議論に持っていっているのです。そして,このことから学習者たちのやりとりは予測可能なtrajectoryを通ってゴールに向かうという話につなげています。もともと発話データから導出した概念なのだから,導出に用いたものと同じ発話データにphaseが見られるのは,複数グループで見てみたとはいえある程度当たり前なのでは…という話です。さらに,もし仮にそこに違いがあり,違うグループでphaseの種類や用いられた数が異なっていたとすれば,最初に設定した5つのphase自体がそもそも分析に役に立たない枠組みだということになりますよね。この点については謎です。

また,個人的に気になったのは,最終的にタスクを達成できたかどうかと,用いられたphaseの数自体には関連が見られなかったという点です。例えば,分析している5つのグループのうちで3のgetting gistが見られなかったグループが1つ,5のnarratingが見られなかったグループが1つ,2のcomparisonと4のsequencingが見られなかったグループが1つという記述がありますが,この3つのグループはいずれも最終的なゴールである並び替えには成功しているというのです。この部分については,例えばcomparisonがなかったグループはもしかするとズルして絵を見せあっていたのかもしれないというような考察がなされています(このグループは終わるのも早かったらしいです)。しかし,もし仮にタスクの最終的な達成と何も関連がないのであるとすれば,このsub-goalという考え方自体がそんなに大事なものなのか?という疑問も湧いてきます。

さらに,言語使用面についてはphaseによって特徴的な部分が見られなかったと考察しています。つまり,同じphaseなら同じような言語表現が用いられるというようなことはなく,同じcomparisonというphaseでもグループごとに様々な表現を用いて行っていたと書かれています。ただし,”linguistic domains“については予測が可能かもしれないとしています。このdomainの例として,下記のようなものがあがっています。

the language for expressing impressions, inferences and approximations; the language of description and for identifying similarities and differences; the language for expressing motivations and consequences; the language for sequencing; and the language used for checking understandings (p. 160).

素人考えでちょっと微妙だなと思うのは,このdomainというのはほとんどphaseのラベルと同じようなものなのではということです。会話分析みたいなことに明るいわけではないのですが,ここまで抽象度があがってしまうと,それが予測できたことで何に活かされるだろうかということは疑問です。

 

sub-goalという考えのなにがそんなに大事?

さて,なんか,sub-goalってなんか別にそんな大事じゃないじゃんと思っておられる方もいるでしょう。私もここまでは批判的に書いてきています。ここからは,「そうはいっても結構色々なところに通じる概念じゃないかな」ということを書きたいと思います。

先ほど,「タスクの達成とは関係ない」という議論がされていると書きましたが,もし仮にそれがそうだったとしても,教室場面での教育介入を考えた際にはsub-goalという概念は大事だと思います。まずは,授業の準備段階でsub-goalは役に立ちます。

 

タスクの作成・計画段階で有益

これはタスクに限ったことではないのですが,どのような言語活動を仕組むにせよ,教師は活動を考え,その手順を構想し,最終的にどこに辿り着くことを目指すのかを思案しますよね。その際に,活動に取り組ませたときにどのようなことが想定されるかを全く考えない教師はいないと思うのです。「きっとこんなことが起こるだろうな」とか,「こういうことになったらどうしようか」などと考えながら,事前に準備しておいたほうがよいことについては仕込んでおき,指示の与え方や順序を工夫したほうがよさそうならそのように対策を打っておくはずです。このとき,例えば事前にタスクのsub-goalがわかっていれば,学習者が起こす行動の予測がつきやすくなるといえます。冒頭にも書きましたが,タスクは(特にやりなれていないものをやる場合は)出たとこ勝負の部分もあり,何が起こるかわからないから事前にあれこれ教えてこちらの想定内でやってほしいという教師の思いも理解はできます。しかし,今後sub-goalという枠組みで様々なタスク遂行中に発生するsub-goalsが明らかになってくれば,「このタスクをやる際にはおおよそA, B, C, Dのような4つのphaseを通過すると考えられます」みたいな提案ができますよね。これが事前にわかっていれば,自分の教えている学習者との兼ね合いで準備が必要な部分や,そのタスクに取り組む前にやらせたほうが良いことを前時にやっておくというようなことができるのではないでしょうか。もっと言えば,sub-goalが目標になるような”sub tasks” を用意して,それらのタスクに取り組ませた後のもっと大きなチャレンジとしてsub-tasksが複合的に必要となるような別のタスクを用意するというようなことも考えられます。このように,タスクを構想したり,授業の計画を立てたりする際に,sub goalsが明確になっているということは大事だと思っています。

 

タスク遂行中の介入指導で有益

次は,実際に教室場面での指導において,sub-goalがわかっているということが役に立つ場面を考えたいと思います。あるタスクを与えて,学習者がそれに取り組んでいるとき,なかなかうまく言っていないことに教師が気づいたとします。例えば,複数コマ漫画の並び替えタスクで沈黙してしまっているグループがあったとしましょう。このとき,どのように促せばタスクのゴールに向かえるでしょうか。このときも,sub-goalはヒントになり得ると思います。例えば,5つあるphaseの序盤でつまづいているようならば,「まずは全員の持っている絵について描写して,自分の持っているものと他のメンバーの持っている絵の違いがどこにあるかを特定してみよう」という指示ができると思います。つまり,descriptionとcomparisonというsub goalを明示するということです。その先の,みんなの持っている絵の違いはわかったけど,そこから先に進めないというグループがいたら,「全員の絵の情報を統合して,ストーリーを考えてみよう」という指示も可能でしょう。もちろん,phaseは順番にこなさなければいけないということではありませんが,指針としてその場で与える分には問題ないでしょう。

そんなめんどくさいことしなくても,「じゃあ最初から,『まずは描写,そして比較,あらすじの解釈,並び替え,ストーリーの完成』というphaseをすべて提示してそのとおりにやらせればいいではないか」という意見もあるかと思います。学習者のレベルによってはそうした道筋を示すことも必要になってくるかと思いますが,Bygateは,phaseに完全な順序があることや,まったくoverlappingがないということを否定しています。

it is important to note that the phases do not imply total predictability. For one thing, the phases sometimes occur more than once in a single transcript, with students going backwards and forwards between, say, finding the gist and trying out a sequence (p.160).

また,「たとえsub goalsが明示されなくとも学習者たちは多かれ少なかれphaseを経てゴールに到達する(=予測可能性がある)」ということを言っています。つまり,phaseは与えられなくてもある意味でタスク達成に向かう試行錯誤の中で創発するということですね。それを手助けしてやることはあったとしても,最初からこの通りにやりなさいというのはtoo much interventionかなと個人的には思います。「正しい手順」や「理想的な手順」のようなものがあると学習者が思ってしまい,それに囚われすぎてしまう可能性があるからです。例えば,2. comparisonからいきなり4. sequencingに入ることも十分にありえることです。「まって,私の絵ではりんごは食べかけで,Aくんの絵ではりんごは丸々1つあるから,きっと私の絵はAくんの絵よりあとにくると思う」のような発話が起こることは歓迎されるべきで,「まって順番考えるより先にストーリーをつかもうよ」となってしまっては学習者の自由な発想が抑制されてしまうかもしれません。よって,sub goalを与えてそれに沿ってタスクを行わせることは有効な手立てとは言えません。

つまり,事前に教えてそのとおりにやらせることができるから役に立つというわけではありません。そうではなく,リアクティブな指導がやりやすくなるということです。教師自身がsub goalsを把握した上でタスクを用いれば,そのグループの状況に沿って,またはぶつかっている困難点に合わせてリアクティブに介入を行うことができると個人的には思っています。

事後のフィードバックで有益

sub goalという考えは,事後のフィードバックにとっても有効かもしれません。もしも,時間内にうまく課題を達成できなかったグループがあったとして,そのタスクにおいてsub goalsをいくつ達成できたかという点で見てみると彼らの課題が見つかるかもしれないからです。Bygateの示したデータでは,すべてのグループがタスクを達成したため,「phaseとタスク達成の関係」は完全には明らかになっていません。タスクを達成できなかったグループがいたとして,そのグループがもし仮にすべてのphaseを通過したのにできなかったとすれば,phaseはirrelevantということになります。しかしもしかすると,どこかでつまずいたことが原因でタスクを達成できなかったという学習者がいるかもしれません。絵の微細な点について,描写しなかった(またはできなかった)けれども実はその点が他の絵との違いで,その情報を全員で共有していればタスクが達成できたかもしれないということはありえます。別のケースで,sequencingでつまづいて終了してしまったとします。このときに,follow, precede, come before, come after, first, next, then, before, afterのような前後関係を表す表現がうまく使えなかったので並び替えができなったということがわかれば,その学習者たちに必要なのはこうした前後関係を表現する言語リソースが足りていないということになり,そこがteaching pointになるでしょう。言語面については,varietyが大きすぎて一貫性は見られなかったというのがBygateの結論でしたが,具体的な場面での話に限定すれば指導のヒントにはなるでしょう。

研究への示唆

研究という視点では,このBygateの論文からもう少し発展させた研究が必要だと思います。例えば,他のタスク(意思決定タスクなど)でも同じようにphaseの共通性は高いのかどうかや,同一タスクでタスクの諸条件(複数コマ漫画並び替えタスクにおけるコマの数やグループの人数の組み合わせ)が変わってもphaseに変化はないのか,などが気になっています。

また,Bygateは会話の書き起こしからphaseを導出していますが,そうではなく,教える側があるタスク中に発生すると考えられるphaseを予測し,それがどの程度実際の会話で起こるのかといったこともpracticalな意味で関心があります。

あとは,少し非現実的かもしれませんが,実験的な操作を加えて群間比較するというデザインも思いつきます。たとえば,複数のphaseの中で特定の1つを禁止するような指示を与えてみて,そのグループがどれだけタスク達成に困難を抱えるかを比較することで,タスク達成に寄与しやすい(または必須かもしれない)phaseを特定するというようなこともできるかもしれません。

おわりに

以上,Bygateが提案した,taskのsub-goalという点について,批判的に検討し,その後に,意義があると思われる点についていくつか述べました。やはり,タスクの中身,つまりタスク遂行中に何が起こっているのか,そうしたことを,sub-goalという概念で整理することを試みたことにこの論文の意義があると思います。DSTの枠組みにうまくfitしているかという点についてもやや疑問があったのですが,あまり詳しく批判できるほどの知識を持ち合わせていなかったのでそのあたりはまた別の機会にということにしようと思います。ということで,今回は久しぶりにTBLTに関するお話でした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注1. もちろん,仮にオリジナルのストーリーとは違う順番であったとしても,こちらの想定を超えたイマジネーションで別の順序でも筋の通った物語になるということがあれば,そしてそれを説明できれば,「正しい」順番ではなかったとしてもタスクのゴールを達成したと評価することもできると思います。

 

Word Onlineを活用したライティング活動

はじめに

最近ライティングの事ばっかり記事にしていていますが,他の授業もちゃんとやっています。ただ考えた事はとりあえずまとめておこうと思うので,今回はコンピュータ上でライティングさせながら”即時”フィードバックを出してみるというお話です。

前期は普通の教室で,紙ベースでライティングをさせていたのですが,後期は情報処理演習室で授業をやっています。学生の数は20人弱で,多分25を超えるようになってくると,一人一人にできるコメントは限定的になってしまうかなと思います。ただ,これも書く時間をどれくらい設けるか次第ですね。書く時間を学生数で割ったのが単純に一人の学生に費やすことができる時間なので,書く時間が長ければそれだけたくさんの時間を学生の書いたものを読んでコメントを出す時間に使えます。パソコンでやろうが紙でやろうが,人数が多いと厳しいですが,同じ人数で比較した場合には私が以下で説明する方法の方がはるかに効率がいいと思います。つまり,授業外で添削にかける時間をできるだけ減らしながら,授業内で学生にフィードバックを出す時間を最大化できるということです。しかも,授業運営ソフトウエアのようなものが整備されていないパソコン室(学生の画面を監視できない部屋)や,学生が個人のパソコンを持ち込んで行うような形態でもできるというのも重要な点だと思います。

背景

パソコンでライティングさせることにしたのは,パソコンで書かせる方が課題の提出,管理,フィードバックがやりやすいなとなんとなく思っていたということが大きいです。そういう思いで,授業にもだいぶ慣れてきた後期から教室を変えてもらうことにしました。

いわゆるパソコン室での授業で,授業運営ソフトウエアが入っているので,学生一人一人の画面を巡回して回ったり,こちら側から操作をしたりということもある程度は可能です。つまり,学生一人一人がMS Wordを使ってオフラインで書いて,それを提出ということもできます。

ただし,それを提出させたり,というところで色々めんどくさいことが起こりそうだなと感じました。また,授業管理ソフトウエアはライティング活動を念頭に置いてデザインされていないため,ライティングのフィードバックにはあまり向いていない(痒いところに手が届かない)というのも,オンライン上で全部一括管理してしまおうという発想に至った理由の一つです。

環境としては大学がOffice 365の契約を結んでいるので,各学生は自分のアカウントでOne DriveやOffice製品を使うことができるという感じです。そうでない場合には,下に挙げた論文でも使用されているGoogle Docsでも同じような事は可能だと思います。

どちらもやっている事は同じで、オンライン上でドキュメントファイルを教員と学生が共有して,授業の時にコメント欄を使ってフィードバックを出すということです。こうしたオンライン上でのライティング活動でフィードバックを出すという話は,以下の論文からヒントを得ました。

Shintani, N., & Aubrey, S. (2016). The effectiveness of synchronous and asynchronous written corrective feedback on grammatical accuracy in a computer‐mediated environment. The Modern Language Journal100, 296-319.

この論文では文法のフィードバックを出す際に,Google Docsを使って即時フィードバックを出す場合と,書き終わってから提出されたものにフィードバックを出す場合で比較を行っています。私の場合,どちらかというとフィードバックはorganizationに関わるものがメインです。「はじめに」でも書きましたが,オンラインでやる方が,私個人としてはライティングの授業における教員の負担がはるかに減ると思っていますので,むしろそちらのメリットを重視してこのやり方を採用としています。

授業前の準備

授業が始まる前にやるのは,学生と共有するファイルの準備です。これをせずに,学生にファイルを作らせて教員と共有するようにすることも可能です。その方が準備の手間が省けますが,ファイル共有の手順でつまづくケースがあって貴重な授業時間を浪費してしまいがちです(実際そうなりました)。そういったことを未然に防ぐ意味で、こちらで準備したものを共有する方がいいでしょう。

また,その他にもファイルを準備するメリットは2つあります。一つ目は,学生から共有されたものはフォルダ等にまとめて管理したりしづらいからです。私が使いこなせていないだけかもしれませんが,共有された側は複数のファイルをフォルダにまとめることができません。できることなら,クラスごと,そして課題ごとにフォルダ分けして管理しておきたいので,こちら側でフォルダ分けを行い,そこにファイルを用意するようにしています。二つ目のメリットは,フォルダ分けして学生のファイルがまとめて入ったフォルダごと共有することで,ピアフィードバック活動に簡単につなげることもできるからです。これについては記事の後半でもう少し詳しく紹介します。

というわけで,One Drive上でフォルダを作ったら,そこにファイルを人数分だけ用意します。何も書き込まれていないドキュメントファイルを人数分作って名前つけるみたいな作業は,ルーティン操作なのでシェルスクリプトとかでやると簡単かもしれません(参考:ファイルの連続コピーについて)。Rでもできますので私はRでやっています(過去記事)。

これでフォルダの中に学生の名前のついたファイルを人数分用意できたので,このフォルダごとOne Driveの共有機能で共有します。共有の方法はメールで送ってもいいですし,LMSなどに貼り付けてもいいでしょうし,いろいろなやり方が考えられるかなと思います。

授業でどう利用するか

学生にフィードバックを出す

授業では,One Driveフォルダの共有リンクを使ってフォルダにアクセスし,自分の名前のついたファイルを開くように指示します。フォルダ内のファイルが全員に共有された状態だと,「誰が誰のファイルを開いているかや編集しているのかがわからないのでは?」と思われるかもしれませんが,その心配はいりません。ファイルを開いた人の記録も,誰が編集したかの記録も残るので,そのことを学生に伝えれば問題ありません(少なくとも私の環境では)。他の人のファイルを開くこと自体は禁じられるべきことでもなく,色々な人の書いた作文から学ぶこともあると思いますし。ただ,「誰が開いたか,誰が編集したかはわかるので,くれぐれも他人のファイルでいたずらをしたり,書かれたものを勝手に消したりしないように」と忠告しておけばいいと思います。場合によっては,ファイルにアクセスした人の一覧を見せれば説得力も増すかもしれません。

学生は自分のファイルを開いたら,指示された課題をファイルに書き込んでいくことになります。具体的に何を書くかやどう書くかは,ライティングの授業で扱う課題の種類や授業の目標によって変わってくるでしょう。

教員は,学生全員分のファイルをブラウザ上でタブ表示にします。つまり,20人の学生がいれば,20個のタブを同じウインドウで開いておくということです。もちろん全部違うウィンドウで開いててAlt+Shift等でウィンドウ切り替えの方が楽だという方はそれでいいと思います。私は,Shift+Tabでタブ切り替えしています。学生が書いている間は,教師は教師用のパソコンで,Shift+Tabキーを使いながら書く学生の書いているファイルを”巡回指導”します。

何かコメントしたいことのある学生がいれば,コメント機能でコメントを書いていきます。文法の間違いなど,場所が特定される場合にはその場所を選択して「正しい形だけ」コメントしています。あとは構成や文と文のつながりなどについて,日本語で書き込んだり,いいなと思う箇所があれば,「この部分はみんなにも真似してもらいたいからあとで全体に紹介するね」みたいなことも書いています。

このやり方が、いわゆる「机間巡視」をしながら出すフィードバックより良いなと思うのは,「学生のライティングを邪魔することなくコメントができる」ということです。つまり、オーラルでのやりとりでは学生が今まさに書いている部分以外にコメントを出す場合、学生は当然教師の指摘を「聞く」ことが求められます。一方でオンライン上では,学生は自分のタイミングでコメントを確認することになります。この、「注意を同時に向ける」ことこそがフィードバックの意義なのかもしれませんが,逆にコメントしづらいなと思うこともしばしばあるので,オンラインで即時フィードバックの方がいいなと思っています。

書いて残るという点でも、口頭でフィードバックするよりも良いなと思います。学生からも、そして教師から見ても、「どんなやりとりがあったか」が記録されるわけなので。学生からしても、先生を呼びやすい人と、あまり自分から呼びづらい人がいると思うので,そういう場合はコメント欄でやりとりすれば良いかなと思います。もちろん,上述したように誰でもファイルを開ける状態ですから,コミュニケーションの記録が残るということはそのやりとりを誰かに見られる可能性があるということではあるのですが(誰かどんなコメントされているかをいちいち見て回るほど暇な人はいないでしょうけど)。

また,1人の学生から次の学生に移動するのも,タブの切り替えは1秒以下で済み,文字の視認性も手書きよりはるかに高いので,瞬時に読んでコメントが出せます。これが紙ベースだと,机と机の移動も時間がかかりますし,さらには書いている学生の紙を覗き込むように見る必要があり,場合によっては視認性の低い手書き文字の場合もあって読んでコメントを出すまでに若干の時間がかかります。このロスを20人分積み重ねれば、20分のライティング中に5分くらいは多く学生にコメントを出せる時間が確保できると思います。

ピアフィードバック活動に使う

教師-学生のやりとりだけではなく,学生-学生のやりとりもオンラインでやることができます。例えば,紙ベースでやっていたときには,過去記事で書いたようなピアフィードバックをやっていましたが,同じようなことはオンラインでもできるわけです。ただ,2人1組で第3者の書いたプロダクトにコメントするようなことはPC教室の性質上若干やりづらいというのはあるかもしれません(実際,私は後期はこの形はやらなくなりました)。

上述したように,個々のファイルではなくフォルダごと共有しているので,学生はクラスメイトのファイルを自由に閲覧することができます。この環境を生かして,「隣の人+◯人のエッセイを読んでコメントをつけましょう」というようなピアフィードバック活動をしています。隣の人を指定しているのは,SlackのDonutというボットでペアで席に座るように指定していて,その他にもペアの活動とかを多く取り入れているからその延長線上くらいの意味合いしかありません。

コメントは,「ここは冠詞のaが入るのでは?」とか「andでつないでいるものの形が揃っていないよ」のような文法的なものもありますし,「これはキーワードだと思うので,1文付け足して少し説明したほうがわかりやすくなると思う」のような内容(あるいは構造)に関するコメントもあります。前期はパラグラフ,後期はエッセイをやっているので,後期はとくにイントロの構成であったり,各パラグラフ同士のつながりであったり,ということに注意して読むように指示することが多いです。

ピアフィードバックのあとには,特に出来が良いものを全体で共有して,「この部分がうまく書けているよね。」というようにモデルの提示をするようにしています。もちろん書く前にサンプルのエッセイはいつも提示していますが,やはり「自分のクラスメイトがよくできている」ということのほうが「参考になった」と感じることが多いのかなというのが私が見ていて思うことです。

現時点での課題

もう秋学期も終わりに近づいていますが,半期をOneDriveとMS Word Onlineを使ったライティング活動でやってきて思うことは,ドラフト作りに対するエフォートが減ったかなということです。もちろん,大学1年生の春学期と秋学期を比べれば,出席率や課題の提出率など,割と一般的にどちらも下がると言っていいくらい普遍的な現象のような気もするので,私の授業スタイル変更が影響を与えただけとは言い切れません。ただ,紙の場合は「授業中になんとか終わらせて出す」という感じで一生懸命やっていた学生も,オンラインだと「今終わらなくても宿題でいいや」,「スマホでいつでもできるし」のようになっているのかなと思うことがよくあります。そして,結局後回しになっても,授業期間以外にファイルを開いて書き込むということをやっている学生の割合が低く,「いつでもできる」と思うからこそ逆に取り組みづらくなってしまっているかもしれないなと思っています。一応こちらからも声掛けをするようにはしているのですが,この点についてはなかなか解決策が見つかっていないので,来年度春学期以降の課題かなと思っています。

おわりに

紙には紙の良さもあって,オンラインにはオンラインの良さもあるとはいえ,今回は紙,今回はオンラインのように分けて使うのも混乱の原因になるので,オンラインの良さを活かした上で,欠点を補いながら授業を作っていければいいなと私自身は思っています。やはり,授業外で添削にかかる時間は膨大なので,それを少しでも減らして授業の中でフィードバックを多く出すというのがオンラインでライティングをすることの一番大きな利点でしょう。この利点はライティングを教える側としてのsustainabilityとかquality of lifeにも関わるので,より良い形でオンラインフィードバックを活用した授業を模索していきたいと思っています。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

「しっかり」っていうの禁止

はじめに

前々から思っていたことなのですが,何度も言うのも嫌になってきたのでここにまとめて日本語で書いておきます。

私自身も「しっかり」という言葉を使っていることはあるかもしれません。よって,以下に書くことは,「自戒も込めて」ということになります。

言いたいことはとてもシンプルで,

「しっかり」,「ちゃんと」,「うまく」あたりの副詞って何か言っているようでほとんどなにも言っていないのと同じだから使用禁止

というだけです。「しっかり」・「ちゃんと」に比べると,「うまく」は事情が若干異なる場合もありますが,それでも別の言葉で言い換えたほうが良いことには変わりないと思います。幅広いコンテクストに当てはまることだと思いますが,特にこの記事で私が念頭に置いているのは,自分の思考を言語化したり,目標設定をしたりするときです。そうした場面では,「しっかり」系の言葉を使わないほうがよいでしょう。

なぜ「しっかり」はだめか

私は学生に,その授業で学んだことだったり,学んだことを次にどう生かしていくかという目標設定だったりを,いわゆる「振り返りシート」に書くことを毎週の授業で求めています。そういうときに,例えば,以下のような例が散見されます。

来週は課題をちゃんとやる

AとBの比較をしっかり書けるようにする

こうした記述を見ると,「ちゃんと」とは,課題で求められている事に対してのをあげていきたいということなのか,あるいは,極端に言えば質はともかくとして定められた期限までに提出するということなのかがわかりません。最悪のケースだと,「課題をちゃんとやる」の「ちゃんと」が何を意味しているのかについて無自覚であるということもあるかもしれません。そこが曖昧であれば,「ちゃんとやれたのか」の評価もできませんし,目標に対して自分がどう行動すべきであるのかも見えてきません。

「しっかり書けるようにする」のケースも同様で,「しっかり書く」とはいったいどういうことなのかがわかりません。つまり,どのようなプロダクトができあがれば,「しっかり書けた」のかがわからないということです。ただの,「AとBの比較を書けるようにする」と「AとBの比較をしっかり書けるようにする」の間にはどのような違いがあるのでしょうか。この部分がわからなければ,「しっかり書ける」ようになるためには何が必要で,そのために自分はどうすべきなのかがわかりません。これこそが,何か言っているようで何も言ってないのと同じであるということの意味です。目標を立てたところで,そのことを達成するためにどうすればよいかや,達成できたかどうかをどう評価できるのかがわからなければ,その目標は立てる意味がないと言ってもいいでしょう。

同じことは,学んだことについて書く場合も同様です。

○○さんのエッセイは,AとBの比較がよくできていたので,自分も真似したい

さて,「比較がよくできた」とはどういうことなのでしょう。それは,「何と何を,どういった観点から切り取って比較したものなのかがわかりやすい」というようなことなのか,それとも,「In contrast, On the other hand, whereasといった比較を導入する表現を使って書けていた」ということなのでしょうか。ここまで具体的に言語化できれば,「自分が真似する」ときに何を真似すればよいのかがより明確になってきていることがわかると思います。

なぜ「うまく」はだめか

「しっかり」や「ちゃんと」と根本的には同じで,「うまい」の示していることが抽象的すぎるというのが問題です。

言いたいことをうまく英語で言えなかった

くらいであれば,頭に浮かんだ内容を英語で表現できなかったということだとわかります。ただし,それは日本語では一語で言い表せることを英語では単語で表現しないので失敗してしまったのか,はたまた関係節を使えば言いたいことを言えたのに関係節が使えなかったのか,といったことについてはわかりません。もしかすると,英語に言い換えもできた,そして関係節も使えた,それでも自分にとっては納得のいくような流暢さで言えなかった,ということなのかもしれません。これがわからなければ,次に何を改善すれば「言いたいことをうまく英語で言える」状態になれるのかがわかりません。それがわからなければ,自分を向上させることは難しいですよね。

ではどうすべきか

もうおわかりかと思いますが,問題点は共通で,言っていることが「抽象的すぎる」ということです。よって,解決策はシンプルです。「しっかり」・「ちゃんと」・「うまく」といった単語を自分が使っているということに気づいたら,「しっかりってどういうことだろう?」というような疑問を自分に投げかけ,より具体的な言葉で言い換えるようにします。上述のだめな例は,例えば以下のように書き換えられます。

来週は課題をちゃんとやる->来週は,期限に遅れないように課題を出す

来週は課題をちゃんとやる->来週は,○語以上という指定を守る

AとBの比較をしっかり書けるようにする->AとBについて比較する理由を明確に書き,その上でどの観点で両者を比べているのかがわかるようなイントロダクションを書く

言いたいことをうまく英語で言えなかった->同棲を英語でなんと言えばよいのかわからなかった

もちろん,「しっかり」系の言葉を使うよりも,具体的に書くほうが何倍も頭を使うことになると思います。ただし,それこそが私が求めているものであり,その具体性があることでこちら(教員)も学生の課題を把握することができ,適切な方法で課題を克服する手助けをすることが可能になります。もちろん,自分の思考を言語化することで自分自身についての理解を深め,それを自律的に自分の行動につなげられるようになってほしいという思いもあります。そういう練習を大学生のうちに積んでおけば,卒業後にあらゆるところで役に立つはずです。

おわりに

上に書いたような現状については,私の責任もあると正直思っています。授業の最後の時間に振り返りということになると,やはり学生としては「さっさと終わらせて早く教室を出たい」と思うのが普通でしょう。あるいは,深い思考を促すに十分な時間を提供できていないという面もあるかもしれません。また,私の「意図」がしっかり (誤解のないように、間違いなく) 伝わっていなければ,そもそもなんのために振り返りをするのかもわからず,「具体的に言語化せよ」といってもそれがなぜ必要なのかがわかりません。この点も私の指導力不足だと思います。以上の点については,今後,私が改善すべきであると認識しています。

学生のみなさまにおかれましては,この記事に書いたようなことを意識して,「何か言っているようで何も言っていない」状態にならないよう努めてもらいたいと思います。これは,もちろん私の信念であることは間違いないですが,それ以上にそうでなければやっても意味がないからです。せっかくやる(やることを求められている)のだから,自分がやったことで得られるものが多いほうがよいですよね。というわけで,よろしくお願いします。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

概念数の処理に関する論文が出ました

下記の論文が,First Viewで公開されました。論文がDLできない方は,著者用のリンクをお送りするのでご連絡ください。

TAMURA, Y., FUKUTA, J., NISHIMURA, Y., HARADA, Y., HARA, K., & KATO, D. (2018). Japanese EFL learners’ sentence processing of conceptual plurality: An analysis focusing on reciprocal verbs. Applied Psycholinguistics. Advance Online Publication. doi:10.1017/S0142716418000450

名古屋大学大学院のD2のときに院生仲間と一緒にやった研究です。初めて国際誌に投稿した論文なので,概要と投稿の経緯を書いて置こうと思います。

概要

ざっくりとした結論は以下のような感じです。

  • 日本語を第一言語とする英語学習者も,英語母語話者と同じようにA and Bという名詞句を概念的に複数として表象していて,その複数を構成する要素にもアクセス可能
  • ただし,the parentsのように複数の構成素が明示的でない場合にはその構成素にアクセスできない(母語話者もできないと先行研究で言われています)

具体的な実験では,次の4条件における下線部の単語単位での読解時間を比較して,aではガーデンパスに引っかかることなく読んでいるという結果になりました。

a. As the mother and the father battled the child played the guitar in the room.

b. As the parents battled the child played the guitar in the room.

c. As the mother and the father left the child played the guitar in the room.

d. As the parents left the child played the guitar in the room.

battleのような相互作用動詞が目的語を取らないという解釈にいたるためには,主語が複数である必要があります。その時には相互作用動詞の後ろの名詞句は主節の主語として解釈され,ガーデンパスを回避できるということです。4条件作っているのは,(a) A and B(conjoined NP)とthe parentsのようなplural definite descriptionを比較したこと,(b) 動詞のバイアスの影響ではないことを示すために自動詞と他動詞の両方が解釈として可能な動詞の条件も用意し,その場合にはガーデンパスを回避することができないことを示す必要がある,という2点が理由です。

出版までの経緯

冒頭にも書いたように,この論文はD2のときにデータ収集を行い,その年の全国英語教育学会熊本大会で発表を行いました。その後,論文の形にして最初に投稿したのがその年度の終わりの2016年3月でした。

最初の投稿

まず,Bilingualism: Language and Cognitionに出しました。そこでは,査読に回る前に,「母語話者と比較してないからだめ」という理由で突っぱねられましたが,「母語話者のデータがなくともこの実験の結果のみで十分に価値がある」という長めのメールを送り,いくつかの修正条件を提示されたのでその修正をし,最初の投稿から1ヶ月後くらいに再投稿しました。査読に周り,再投稿時点から2ヶ月たってreject通知をもらいました。とにかく,コメントの鋭さが今までに経験したことのないもので,すごくショックを感じるとともに,これをもとに修正したらもっと良くなるに違いないとも思えました。

二回目の投稿

大幅な書き直しが必要で,イントロ,バックグラウンド,ディスカッションとほぼすべて書き換えました。そして,2017年2月に今度はLinguistic Approaches to Bilingualismというところに出しました。外部査読に回るまでが1ヶ月,外部査読に回ってからは3ヶ月で結果が来たので,投稿から最初の結果がわかるまでは4ヶ月でした。そして,またrejectでした。

正直,査読者のコメントはそこまで批判的ではなく,3人いるすべての査読者が好意的なようでしたし,コメントも対応可能なものが多かったです。それでもrejectだったので,Editorに抗議するか迷いました。しかし,私の副査であったM先生に相談したところ,抗議しても結果が変わる可能性は限りなく低いので,もっと別の雑誌に投稿するほうが良いというアドバイスをいただきました。印象に残っているのは,「IFが低いジャーナルが必ずしも通りやすいジャーナルではない」という言葉でした。

三回目の投稿

この時点で,私自身は割と自信を失いかけていましたが,第二著者の福田さんが,「この研究は絶対に面白いから,Applied Psycholinguisticsに出してみよう」と提案してくれました。私は,「それは無理じゃないか…」と思っていたのですが,あきらめずにやることにしました。二回目の投稿でもらったコメントも,論文の質を上げることにとても役に立ちました。三回目に投稿するときには,ほとんど穴という穴は塞いだ状態で投稿することができましたし,論の流れもだいぶすっきりしたものになったと自分でも思えました(それでも今読み返せばまだまだだなと思います)。

Applied Psycholinguisticsに投稿したのが2018年の1月初旬で,約2ヶ月後の3月上旬に結果が来ました。Major Revisionでした。3人のレビュワーのコメントはマイナーなものがほとんどで,1回目,2回目の投稿のときの半分くらいのコメントしかなかったと思います(1度目,2度目は計50近くコメントあったと思います)。結果のわかったタイミングが年度末で私も何かと忙しかったのもあり,修正にまったく手をつけられませんでした。期限ギリギリのGWにようやく修正原稿を提出し,その1ヶ月後の6月上旬にMinor revisionという結果がきました。3人のうち1人のレビュワーが細かい修正を指摘してきたので,その点を直し,2週間後に提出しました。最初は注が11くらいあって,さらには語数が制限ギリギリだったので,注を削って語数の範囲内に収めるのに苦労しました。このジャーナルでの3回目の投稿から2週間後の7月上旬に採択通知が来て,それからは書類を出したり校正を受けたりしました。

感想

本当は,大学院生のうちに私も国際誌に出したいと思っていたのですが,それは結局叶えられませんでした。国際誌にこだわったというのは,心理言語学系では国際誌のほうが選択肢が多かったからというのがあります。また,どんどんチャレンジしていこうという雰囲気が私の周りだけでなく色々なところにあったことも理由でした。そういう意味では,この時代だったから出版された論文でもあると思っています。環境が少しでも違えば,出版を諦めていたか,全く別の形で出版されることになったと思います。

結果的に,自分の専門を語るときに使う,「心理言語学」という言葉の入ったジャーナルに論文が出たことはよかったのかなと思います。心理言語的なアプローチをする先輩は名大にもたくさんいらっしゃるので,その先輩たちに追いついてそして追い越したいという思いもありました。

時間はかなりかかってしまいましたが,時間をかけて査読のプロセスを経たことで最初の原稿よりはいいものになったなと思っています。もちろん,これからたくさん批判を受けることでしょうが,それもまた自分の研究をより良くするために大事なプロセスだと自分に言い聞かせています。

最後に

私は,実は名古屋大に在籍した4年間で,私が第一著者,福田さんが第二著者という論文を出したことがありませんでした(逆は1つあります)。彼とはずっと一緒に長く研究をやってきていたので,今回の論文でようやく私が第一著者で二人の名前が載った論文が出せてよかったなと思います。これからもがんばります。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。