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「(オンラインになって)授業の質が下がるのではないかと不安」という学生さんへ

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はじめに

タイトルのようなコメントを自分が担当しているクラスの受講生からもらいました。授業が始まる前にインターネット環境等について尋ねるアンケートをして,その中の自由記述の設問に対しての回答でした。色々不安に思っていることがある中で授業の質に関心を持っている学生がいることにまず感謝したいなと思います。

で、まあそもそも「授業の質」ってなんなんだろうなとか,学生が思う授業の質ってなんなんだろうかとか,教員からみた授業の質ってなんなんだろうかとか,二つはどれくらい重複する概念なんだろうか,みたいなことを考えるのも面白いんですが,今回はこれはしません。

授業の質は下がらないんじゃないかということを言います。

なぜ授業の質は下がらない?

ここでは,とりあえず思いついた2つの点について考えてみます。

教室で見えないものが見やすくなる

例えば,教室ではスピーキングをさせても,そのすべてを見ることは教員にはできませんよね。オンライン授業でスピーキングの形が変わるとしても例えばオンラインで録音したものを提出させるようにしたとすれば,その音声ファイルを教員は全員分聞くことができますよね。それについてどんなフィードバックを出すかは教員次第ですが,少なくとも教室内の1/40と,課題の1/40は全然違うと思うんです。課題だと厳密には1対1×40ですからね。その状態であれば,教員側も教室では注意が向かなかったものに気づける可能性もありますし,気づいたことをフィードバックする可能性も教室内よりも高くなるのではないかと思います。研究とかやったら面白いかもしれませんね(簡単に言うけどちょっと考えただけでいくつもの問題が思い浮かびますけども)。

授業外での個別対応が増える

個人的には,対面の授業がない分個別対応の重みが増して,特に語学の授業は逆にクオリティがあがるのではないかなと思ったりしています。対面の授業だと,授業が終わったらみんな終わりって感じになるし,それは教員もそういうケースが多いのではないかと思います。

ところが,オンラインだと例えばオフィスアワーみたいなものの概念もなくなると言ってもいいですよね。そりゃ24/7で学生対応することが教員に求められているということではないんですが,学生からのコンタクトがあればオンライン上でなら対応するという教員は少なくないのではないでしょうか。また,普段はメールかアポ取って研究室しか選択肢がないけれど,オンラインだから学生からの質問を受け付けやすくしている(手段を複数用意して提示している)教員も多いかもしれません。

学生もオンラインのやりとりに否が応でも慣れてくるはずですので,メールだったり掲示板だったり,質問する手段を使うハードルも低くなるような気がします。そうすれば,対面授業のときにはあまり教員にコンタクトをとったり質問したりしなかったような学生も個別対応での教育機会が増えるかもしれません。

また,教員側も,オンライン授業の鍵は学生へのフィードバックである(というかこれがないのではだめだとさえされている)というのは重々承知の上で授業をデザインしているはずですから,いつもよりもフィードバックにリソースを割くのではないかと私は思っています。もちろん,準備の時点で燃え尽きてしまうようだとフィードバックまで手が回らないということになる可能性も考えられますが,授業に費やしているエネルギーがフィードバックにいく可能性は十分にあるのではないかなと。この点は異論がある方もいらっしゃるかもしれませんけど。

おわりに

というわけで,授業の質が下がるかもしれないと思っている学生さんに言いたいのは,とにかくわからないことはガンガン教員に質問しようということですね。教員から与えられるものを待っているだけでは,授業の質が下がるということもあるかもしれません。したがって,自分から学習機会を積極的に確保しにいく姿勢が,通常時以上に求められていると言えるでしょう。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

祝100,000PV

気づいたらこのブログのpage viewが100,000を超えていました。2013年にこのブログを始めてから,100,000というのは1つ目標にしていた数字だったので嬉しいです。このブログをどんな形であれ読んでくださっている方々に感謝するとともに,これからも頑張ろうと思います。

私のブログ名は英語教育0.2で,「本家」英語教育2.0の1/10程度の認知度&影響力しかないんですが,細々とでもブログ記事を書き続けていてよかったなと思います。正直言って,ブログのアクセス数は年々伸び続けているわけではありませんので,そもそもブログというメディアの位置づけも5年前とは変わってきて,プラットフォームも移り変わっているのだなという気はします。でも個人的にはこのブログに愛着があって,そこに自分の考えを定期的に投稿していくことも自分のライフスタイルの一部になりつつあるので,簡単にやめたりはしづらいです。

ブログを書くことは自分のためにやっているところもありますが,だったらパーソナルな日記帳でいいわけで,やっぱりインターネット上で公開するということは人に見られたいと思ってやっているわけです。その意味では,訪問者数とかPVとかいうのは気にしたりしますよね。まだまだたくさんの人に読まれるようなクオリティの文章が書けるようにはなっていないので,私自身の文章力を磨くことも沢山の人に読まれるようになるためには必要だと感じています。

この機会に,私のブログ名等について簡単に。「英語教育0.2」は,英語教育2.0という先駆的ブログタイトルをもじっています。捉えようによっては揶揄しているように思われてしまうかもしれませんが,そういう意図はありません。2.0というのはweb 2.0からきていると思いますが,0.2ってもはやweb 1.0より時代遅れじゃないかと。そういうことです。単に時代遅れとか昔に戻すとかそういうことじゃなく,私はまだまだweb1.0にも遠く力及ばない未熟な存在であるという意味があります。というのはあとづけで,単にブログ名をTwitterで募ったときに出てきた候補の一つが英語教育0.2で,なんか面白い名前だからそれにしたというだけです。ちなみに,”Tamn it!”はもちろん”Damn it!”をもじっていますが,”Tamn it!”自体には特に意味はありません。ブログ名の候補に”Tamn it!”があったけど,ブログ名にするのはちょっとなと思ったのでサブタイトル的なところにつけているだけです。”なにをゆう たむらゆう”も同様で,ブログ名にするのはちょっと違うけど,なんかいつも使う締めの言葉としてちょっといいかなと思ったので,毎回記事の最後につけています。匿名でやっているブログではないので,名前を覚えてもらうのにもいいかなというのもありますしね。

というわけで,死ぬ前に1,000,000PV目指して今後も頑張りたいと思います。よろしくお願いします。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

顕在的「脱落者」と潜在的「脱落者」

adolescent adult beauty blur

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はじめに

タスクみたいなことだったり,あるいはもっと広くペアワークさせたとき,うまくいかないことはしょっちゅうあると思います。その原因を1つに決めることは不可能なことですが,それが「タスク」そのものだったり「ペアワーク」そのものだったりに帰せられるときの問題点についてです。話を単純化するために,この記事でいう「タスク」や「ペアワーク」は理想的なもの(ある目的をもった教室内活動として行われるもの)であることとします。一方で,教師は言葉は悪いですが「平均的」な教師を想定していて,どんな状態でも完璧な授業をする理想的な教師は想定していません。教師の力量を出すとすべてがそれで解決するという議論が可能になるためです。そしてこれは教師個人の資質の問題(つまり問題を解決できない教師が悪い論)にもすり替えられてしまいます。これは私が望んでいることではありませんので,そういった意味でも教師の力量はここでは問わないことにします。

基本的に言いたいことは,福田さんが過去に言っていたことと重なる部分が多いかなと思います(『タスク・ベースの言語指導:TBLTの理解と実践』の第3章の中に書いてあったはずですので本をお持ちでしたらご参照ください。実は過去にブログ記事にも書いてあったような気がしたので探したのですが見つけられませんでした)。こうやって言っておくのは,アイデア自体が私のオリジナルではないということを言っておくためです。ただし,この記事自体は私が書いていますので,以下で述べられることについての文責はもちろん私にあります。

「脱落者」

カギカッコつきです。「脱落者」という言葉がぴったり当てはまっているとは思っていませんが,ここでの意味としては「授業についていけなくなってしまった学習者」くらいの意味で捉えてもらえればと思います。顕在的と潜在的は文字どおりで,教師にとって明らかにそれと分かる状態かどうかの違いと言えます。つまり顕在的「脱落者」は「教室の中で授業についていけなくなってしまったということが教師の観察などに基づいて判断ができる状態の学習者」をここでは指します。一方で潜在的「脱落者」とは,「実際には授業についていけなくなってしまってはいるけれども,教師がそのことに気づけていない状態の学習者」です。なお,「授業についていけない」というのは,求められている課題が学習者の能力を上回っていて,課題の遂行が困難である状態であることとします。よって,そもそも課題に取り組まない,などは含まないということです。

可視化されただけ

この記事で一番言いたいことはこれ以上でもこれ以下でもありません。何らかの言語産出や,協同作業が求められるような授業を行った時に,授業についていけていない状態が明らかになった学習者がいたとき,それはその教室の中に教師が目標としていることを遂行できない学習者がいることが可視化されただけであり,そのことだけをもって「タスク」であったり「ペアワーク」であったりという方法が問題であるということにはならないということです。

「脱落者」をどうするか?

教師がリソースを割いて考えるべきはむしろ,できない学習者が授業内の目標を達成できるようにするにはどのような手立てが必要なのかということでしょう。このことは,どのような指導方法にもついてまわる問題です。どんなやり方であっても授業についていけない学習者が出てくることは起こりえます。そのことが目に見えてわかりやすいのが「実際に言語を使わせる」であるとか,「自分の考えをペアで話し合う」のような活動であるだけです。使わせようとして使えないことが明らかになったら,どうやったら使えるようにしてあげられるのか(=同じタスクをもう一度やらせたときにできるようになるのか)を考えてそれを次の授業(または活動の直後)ですれば良いだけではないでしょうか。「自分で考えないからペアでの意見交換もできない」と考えたのであれば,じゃあどんな仕掛けをすれば自分で考えるようになるだろう,という発想で授業を構成していくということです。もちろん,「言語を使ってなにかできるようになってほしい」とか,「自分で考えて意見を表明できるようになってほしい」ということを教師が願っていて,それを目標として授業をやっているということが前提ですが。「言語を使って何かできる必要はないし(どうせできないだろう)」とか,「自分で考えて意見を述べる必要はない(しどうせできないだろう)」と思っているのであれば話は別です。そういう人がもし仮にいるとすれば,「何を教えているんですか?」と聞いてみたいです。

聞いている=できている?

ペアワークとかではうまくいかないので,教師主導で講義型スタイルでないと授業が成り立たない,と考えている教師がいたとします。これが一般的かどうか,どれだけ多いのか,というのは置いておくとして,このときに私が問いたいのは,

講義型スタイルで授業が成り立っているというとき,そのクラスの中に「潜在的脱落者」はいないと思いますか?また,ペアワークのときに顕在化する「脱落者」の数と比べて少ないと思いますか?

ということです。別にペアワークをやらせないといけないというわけではありません。大事なことは,脱落していないかどうかを確認する手立てがどれだけ授業の中に仕込んであるかどうかではないかと思います。教師-学習者のやりとりでもいいです。「脱落者」がゼロの授業というのができればそれに越したことはありませんが,学習者の数が多くなればなるほどそれはかなり難しくなるでしょう(人数が1人でも課題の難易度設定を誤れば容易に「脱落者」は発生しますしね)。つまり,潜在的であれ顕在的であれ「脱落者」が出てしまうことを避けるのは非常に難しいことなのです。そのうえで教師に求められることは,いかに「脱落者」の存在を把握し,その学習者に対して何らかの手助けを提供することでしょう。文字通り潜在的な「脱落者」は教師の目からは見えにくいので,それを把握することも難しくなります。そうなれば,おのずと手助けを講じることも難しくなるでしょう。一方で,「顕在的脱落者」は教師が見て躓いていることが把握できるわけですから,その躓き具合に応じて指導を行うことが可能なわけです。「脱落者」が出ることよりも,「脱落者」を見逃して放置してしまうことのほうが私は重要な問題だと考えていますので,そうならないように授業を構成しようとします。そうすると,多かれ少なかれ学習者に何らかの反応(言語的やりとりだけに限りませんが)を求める授業スタイルに変化していくのではないかと思います。そして,そのようなことが可能なスタイルの1つとしてタスクだったりペアワークだったりというものも位置づけられるのではないでしょうか。

脱落してもよい

脱落というと諦めてしまうという意味も入ってくるような気がしてしまうので,言葉が良くはないかもしれません。ただ,教室の中ではすべてが完璧にできなくてはいけないということを教師自身や学習者自身が思っていれば,躓いていることが明るみに出るようなことは避けたいと思うのは当然でしょう。周りの学習者よりも自分が劣っていると感じるのは誰だって嫌なことなはずです。そうならないように,つまり見せしめになったりしないように気を使いながら,学習者の状態を観察して適切な指導を行える人こそが良い教師だと思います。

ありきたりな言葉になってしまいますが,教室では躓いてもいいのです。もちろん,あまりにも躓く頻度が高くなれば学習への意欲そのものが削がれていってしまうわけですが,躓いて転んでも起き上がり,一歩でも半歩でも前に進んでいることを実感できる,そんな教室環境が私は理想だと思っています。教師が適切な介入を行うことで意欲を削がずに躓く頻度を減らし,そして成長した部分にはポジティブなフィードバックを行い,教室でともに学ぶ学習者集団としてその過程を肯定的にとらえてみんなで切磋琢磨できるような環境づくりこそが教師には求められるのではないかと思っています。

おわりに

私は別にタスクがすべてとかペアワークは絶対などと思っているわけではありません。ただ,どのような指導の形態であろうとも,教師がすべきことは学習者の状態を観察して,把握し,適切な手立てを施すことだと思っています。大事なのはその部分なのに,タスクやペアワークというのはその言葉だけで批判の対象にされてしまうことも多いので,今回の記事を書きました。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

ヤットさんコーナー

研究室の一角に,遠藤選手のコーナーを作りました。昔から個人的に好きな選手で,ガンバ大阪のなかでもプレーを見るのをいつも楽しみにしている選手です。色紙のサインはファンクラブの来場ポイントで交換したもので、ポストカードと缶バッジはルクアのポップアップストアのイベントでもらったものです。飾ってあるキャップはストアで購入した物です。いつも試合を観に行く時に来てるユニホームも研究室には飾ってあります。

隣のユニホームは2018年シーズンのガンバEXPOの日に配られた記念ユニホームです。

今年はゴール裏の年間チケットを購入したので,今からJリーグの開幕が待ち遠しいです。今年は誰のユニホームを買おうかも悩みますね。

というわけで久しぶりにゆるい投稿でした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

2019年の振り返り

毎年恒例の振り返り記事です。今年は少し早めの更新です。これまでの振り返り記事も興味がお有りの方はどうぞ。

過去の振り返り記事

ブログのこと

この記事を書いている2019年12月30日時点でのこのブログのpage viewは95,047です。2017年,2018年と20,000viewは超えていたはずなので,2019年は少しアクセス数が少ない年となりました。おそらく2020年には100,000に届くのではないかと思います。月2本弱ペースで更新してるのは変わりないので,2019年のアクセス数が減ったのは記事のインパクトに欠けるということなのかなと思います。あとは過去のR系の記事の情報が古くなりつつあってアクセスが減ってるのかもしれません。はたまたもしかすると,ブログを読むことで情報を得るという形が変わってきているということもあるのかもしれませんね。最近はネットの媒体も多様化していて,伝えたいことを伝える手段はブログだけに限りませんし。とはいえ,私はもうしばらくはこのブログというメディアで発信し続けていくつもりです。この場所は,私のアイデンティティの一部のようなものだと感じていますから。

また,ブログではありませんが,anfieldload先生と一緒に「英語教育2.2CAST」という番組をnoteで音声配信するという試みをはじめました。有料配信で,月に300円で様々な音声コンテンツを聞くことができます。こちらもたくさんの方に聞いていただけたら嬉しいです。創刊準備号は無料ですのでまずはこちらを試しに聞いてみてください。

仕事のこと

2年目のが忙しい説』というブログ記事でも書きましたが,昨年度よりは2019年度の方が仕事面では余裕ができてきたように思います。まだ2019年度は終わっていませんが。昨年度は本当に研究に割く時間を作ることができませんでした。論文を書くこともほとんどできずじまいで,コンスタントに研究の時間を作れていませんでした。2019年はそれに比べればある程度研究以外の仕事を後回しにしてでも研究に時間を割けるようになってきていると感じています。春学期はかなり良いペースで,毎週この時間は必ず研究するということを守りながらできていたように感じます(決して時間として多かったわけではなく,習慣的にやれていたということですが)。秋学期の方が色々リズムが崩れてきてしまっていると感じています。それでもなんとか年末に駆け込みで2014年にスタートしたプロジェクトの研究を2年越しで別のジャーナルに再投稿できました。年始当初の計画通りには進みませんでしたが,それでも少しずつ前進はしていると自分に言い聞かせています。

また,2019年は初めて海外の学会に参加して発表することもできました。そういう意味でも2018年からは前進しているのかなと(院生時代と比べるとそこで前進と感じていることがもはや後退のような気もしていますが)。学会で発表すること自体が久しぶりで,振り返ってみると自分がファーストで発表したのは2016年以来でした(それ以外にも話す機会はあったのですが,学会発表という意味では2017年,2018年はありませんでした)。ここ数年は「学会」というものに参加することやそこで発表することの意義みたいなことについて考えることも多く,あまりポジティブになれない時期だったなと思います。ただ,参加するとやっぱりモチベーションは上がります。アメリカのSLRFで発表したときには,研究テーマが非常に近い方の発表を聞けましたし,その方にApplied Psycholinguisticsの論文読みましたよって言われて嬉しかったです。すごくマニアックな内容の研究なんですが,やっぱり読まれるジャーナルに出版されれば読んでもらえる人は世界にいるんだなと感じました。

研究以外の仕事でいうと,昨年度と同じ業務が多いので,物事がどのように進んでいくかもだいぶ見通しが立つようになってきましたし,会議に出ているときもただ聞いているだけではなく発言するべきときには発言するということも少しずつできるようになってきたような気がします。また,いい意味でも悪い意味でも組織のことがだんだんわかってきたように思います。

授業もある程度自分の中に型とでもいうべきものができてきたと感じることもある一方で,うまくいったと思える授業というのはなかなかできません。毎時間おわったあとには反省点が数多く見つかります。その都度メモするようにはしているのですが,1年後に同じ内容の授業をするときになって,「これうまくいかなかったような気がするけど何がうまくいかなかったのか思い出せないな…」ということも何回かありました。もう少し授業のリフレクションを体系立てて蓄積していって,良いものに変えていけるようにする必要があるとも感じています。

その他

プライベートでの大きな変化かなと思うところは,やはりガンバ大阪のファンクラブに入って年間チケットも購入したことかなと思います(笑)。もともとサッカー観戦は好きで,昨シーズンの終わりにも何回か通っていましたが,今年は思い切って年間チケットを買いました。そうすると,休日はサッカーを観に行くという予定があるので休みの日に仕事をしようとしなくなりました。前半戦はアウェイ遠征で仙台,鳥栖,札幌にも行きました。やっぱり趣味があるって大事なことで,良い気分転換にもなります。意識的にオンとオフを切り替えるようにもなるので,仕事のことばかり考えてしまう毎日からは抜け出せるようになったのかなと思います。

また,6月には結婚式をしました。やったこと自体はよかったと思っていますが,もう一度やりたいかと言われたら正直やりたくないです(笑)。そして,8月には新婚旅行でヨーロッパに行きました。ロンドン,パリ,バルセロナの3都市を回りました。今までヨーロッパには行ったことがなかったので,いろいろな発見がありました。個人的には3都市の中ではバルセロナが一番好きだなと思いました。気候もよくて料理も美味しくて,また行ってみたいし家族を連れていきたいと思える街でした。

夏休みの間にヨーロッパ,カナダ,アメリカと3回も長距離移動があり(カナダとアメリカは出張),その間に義実家に行ったり長野の母親を訪ねたり,実家に帰ったりとかなり忙しい日々を送ったので,来年はもう少しゆっくり過ごせたらいいなという思いもしています。

おわりに

最後になりましたが,みなさん,今年1年お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

「英語教育を変えたい」みたいな素朴信念の先へ

はじめに

昔から,「そんなの研究じゃない」って思うような発表をいろいろな場所で見たり聞いたりして,そのたびに「問題点がどこにあるか」を指摘することは容易にできたし,してきていたという自負があります。しかしながら,なぜそういう発表があるのか,どうして「そんなの研究じゃない」と私が(そしておそらくは多くのちゃんと研究している人が)思ってしまうことを「研究だ」と思い込んでしまうのかについてはあまり深く考えたことがありませんでした。このことについて考えてみると,その一因は英語教育についての素朴な信念なのかもしれないと思うに至りました。以下,英語教育系の研究を始めようと思う学部生や大学院生の方に特に読んでほしいなと思いながら書きます(※ただ,書き始めたらただのナラティブみたいになったので研究の参考にしようという気持ちであまり期待せず暇つぶし程度に読んでください)。

B4的全能感

英語教育系で,大学の学部生くらいまたは大学院に入りたての修士1年生くらいで,ちょっと研究に興味出てきたくらいの頃って,「日本の英語教育を変えたい」みたいな素朴な信念を持つことってよくあると思うんです。ほとんどは自分の受けてきた英語教育の経験だったり自分が見聞きする範囲の話だったりあとは世間一般で根拠もなく言われるような話に基づいてるようなものです。私はその素朴な信念を持つようになることって発達段階みたいなもので,誰しも(は言い過ぎだとしても多くの人が)通るようなものだと思うのです。かくいう私も恥ずかしながら,学部を卒業して修士号取得のためにアメリカに行った時はまさにそういうことを本気で思っていた時期がありました。

日本の英語教育はてんでダメだ。教え方が間違ってるんだ。そして入試がいけないんだ。

みたいなやつです(注1)。もっといい教え方をしたら,もっと入試が変わったら,日本の英語教育は良くなるに違いないみたいなの。もしこれを読んでくださっている方が学部生や大学院生だとしたら,そういうことを思っていたりしているかもしれません(その事自体は私は「発達段階」だと思っているので全く悪いことだと思っていません)。また,「確かに昔はそんなこと思っていた時期もあったなぁ」みたいなことを思っているオトナの方もいるかもしれません。これってB4的全能感みたいなものかなと。

私は特に身近に英語教育の大学院生が活発に研究しているような学部に所属しておらず,そしてそもそも大学院生の人がどんな研究しているのかすら知る機会はありませんでした(あったのかもしれませんがおそらく当時はあまり興味もなかったので覚えていないのだと思います)。そういう中で,「大学院に行く」と決意したくらいですから,周りの学部4年生よりも自分には知識があると思いこんでいました。少しは,本当に少しは本を読んでいたし,ゼミでも結構鋭い意見を出す学生っていう自意識みたいなのもあったんです。うぬぼれですね。今振り返ると。いや,素朴信念を持っている人がすべてそういう人だと言いたいわけではないのです。ただ,「英語教育を変えたい」みたいなことを思うのって,「英語教育がだめだという認識」と「英語教育を変えられる、そして変えた方が絶対に良いという認識」の2つから来ていると私は思っています。この2つについて詳しく解きほぐすみたいなことをやっていると日が暮れてしまうのでここではやりませんが,結論からいうとどっちの認識についても「そんな簡単な問題じゃあねぇよ」っていう話なのです。そのことに気づける機会があった(ある)のかどうか,というのが大きいのではないかなと思います。

私の昔話

えらそうなこと書いていますが,前述の通り私も「素朴英語教育改革論者」みたいなこと言ってたんですね。むかーしむかしは。このブログのメニューにあるTogetterまとめで過去のものを見てもらうと,そのことが少しはわかるかなと思います。そのような過去をもつ私が,今客観的に当時の自分を振り返ることができるのはなぜなのか,という話を少しさせてください。

私は,2011年にTwitterを初めて,当時はTwitterでフォロワー数増やしたいみたいな願望持っていました。そこで,どうやったらTwitterでフォロワー数増やせるかなとか思って調べていたときに,誰が言ってたのかもはや思い出せないのですが「Twitterのプロフィール欄にはデカイ夢を書け」みたいなアドバイスを読んだんです。それを思いっきり真に受けた私は「日本の英語教育を変えたい」とかってプロフィール欄に書いてたんですね。いや,若かったからとかでは片付けられないくらい恥ずかしくて,おええええええええええって感じになりますね。その当時のことを知っている方からは,今でも当時のことをいじられることが今でもよくあります。

話が少し脱線しましたが,私はそうやってTwitterというメディアで恥ずかしげもなく「英語教育をがえだい!!!」って叫んでいたわけです。一方で,その今となっては恥ずかしい過去というのが,実は幸いなことだったなと思うこともあるのです。それはなぜかといえば,私が持っていた「英語教育をがえだい!!!」みたいな素朴な信念に対して「いや,世の中そんな単純じゃあねぇよ」と言ってくれる大人の人がたくさんいたからなんですね。名前はあえて出しませんけども色々な人とやりとりして,言語政策の本を読んでみたらとか,言語帝国主義の本を読んでみたらとか言われて(注2),「そうか俺は何も知らないのに意気がってたんだ」みたいになるわけです。自分の視野が狭すぎるってことに,全然気づいてなかったんです(注3)。

素朴さに気づけないと…

私は運良く,自分が抱いていたような英語教育に対する思いがすごく素朴な信念であることに気づくことができました。ところが,その素朴信念を相対化する機会に恵まれないままに大学院に進んで研究を始める人も当然ながらいて,そういう人ってたいてい「◯◯の効果」みたいな研究をやりたいというようなケースが多いような気がしています(具体例挙げると誰かの個人的批判になりかねないのでなにか具体的な指導法とかを◯◯に入れてご想像ください)。オブラートに包まずにいうと,自分が信仰しているやり方に対して「科学的な」根拠を与えたいタイプの人が多いというのが勝手なイメージです。別に実践的な示唆を目指したい研究がダメとかではありません。例えば,フィードバックの研究とかって最初は実践的な疑問から生まれてきてますよね。そして分野の1領域を形成するような大きなフィールドになった。「明示的指導」なんかもそうだと思います。

でも,たいてい「自分の興味あること」から出発する研究って研究と呼べる代物にならないことが多い気がします。というか,最初からバイアスかかってないですか?というのは常に問いたいです。例えば、「シャドーイングの効果に興味あります」という人がいたとき、「シャドーイングに効果があると思ってるからそれを確かめたい」って思ってませんか?って。自分が信じてることと逆の結果が出たときに、信じてることが支持された時と同じ態度で論文書けますか?っていうことですね。そういう中立的な態度って結構大事だと個人的には思っています。

自分の関心と分野の関心の往復運動をしながら研究課題を見つけられるといいのですが,あまりにも前者ドリブンすぎると独りよがりになるというか。もちろん、実践研究みたいなものもあるのでそういうアプローチを否定したりはしないのですが。

まとまらないけど

 全くまとまらないんですが,何かを変えようと思って簡単に変わるものじゃないし,その理由がいくつかの個別の要因に還元できるほど世の中単純になってないよねってことを頭の片隅に入れておくことって大事だと思うんです。それから,とにかく自分の持ってる素朴な信念を相対化する意識を持っていることも大事なんじゃないかなと。うまく言葉にできている自信はないんですが,まあたまにはこういうまとまりのない話でも公開してしまいます。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注1. これこじらせたままオトナになってしまった人もまれに見るのですが,そういう人はあまり研究の舞台で目立つことはないのでとりあえず置いておきます。

注2. 金髪の写真をアイコンにしたよくわかんねぇ若者が「英語教育をがえだい!!!」とかいって絡んでも,おすすめの本を教えてくれるほどに当時のTwitterはまだいいところだったんですね。今だったらブロックされているかもしれないところです。それから,自分がいま若い時の自分みたいな人を見た時,自分がしてもらったような対応できるかと言われると自信はないです。

注3. 自分で自分を少しだけかばうと,そうやって言われて素直に本買って読むくらいには真面目だったんです。

だからやり方を縛るなよ

たくさんの先生が教えるような環境で,教員間でのクオリティを一定程度に維持しようと考えたとき,なんで抽象的な目標の部分をぼやっとしたままにして,やり方だけを強制しようとするんでしょうね,というお話。

学習指導要領で「英語は英語で」とかアクティブ・ラーニングとか,そういうやり方縛りってほんと悪手だと思うんですよね。そもそも目標というか目指すべきところから具体的な行動がいまいちピンとこないような抽象的なレベルものを掲げておいて,それに全員が到達できるようにすること自体が間違っているわけです。だって,到達できたかを確認する方法は自分たちで考えろ。でも日々の授業のやり方はこっちで決める。ってことでしょう?やり方を縛ったらその目標が達成されるように考えるの(いやそうは思ってないのかもしれないですけど),あれ大人の事情以外になんかあるんでしょうか?

普通に考えて,逆なんですよ。つまり,まずやるべきことは,全員が到達できたことを確認できて,そのことにある程度合意が取れるだろうというレベルで具体的な目標を設定し,それを測定できるようなテストなりタスクなりを作ることでしょう。それで,評価はそれに基づいてやればいいんですよ。そうしたら,それが達成されるように授業をやらなければいけないわけですから。もちろん,そんなことやるには尋常じゃないリソースが必要ですよ。ちょちょっと文言をいじって会議をいくつか通すだけじゃだめなんですから(いやそれだってそんな簡単じゃないわけですけど)。「ほら,ここにこう書いてあるんだからちゃんと守りなさい!」なんてもうまるっきり文科省のやってることじゃないですか。このやり方に見習うべきところなんかゼロでしょう。

具体的な目標を設定するなんてそう簡単なことじゃないですし,ある程度幅をもたせたりいくつかのタスクを用意しようと思ったら異なるタスクで同じものが測定できているのかを確認しないといけません。本気でやろうと思ったら,そのことだけに集中して取り組める専門家集団とソルジャー人員と予算が必要なわけです。それか,もういっそのこと逆方向に振り切って「全員TOEIC800点」にするとか。でもこれやるにしたって全員に同じテスト受けさせるのってそう簡単なことじゃないしお金だってかかりますしね。それは無理だと思うのであれば,やっぱり地道にやっていくしかないと思うんですよね。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

※この話はフィクションであり,実在の人物や団体とは一切関係ありません。

私の音声メディアとの付き合い方

前回,英語教育2.2CASTというウェブマガジンをスタートさせたことについて宣伝記事を書きました。その12月号の販売が開始になったのですが,その宣伝を兼ねて私の音声メディアとの付き合い方みたいなものについて書こうと思います。

本題に入る前に少し宣伝させてください。12月号には”TASK TALK Vol.2 「タスクがもたらすイイコトって?」”と題して前回の無料版の続きの対談があります。この他にも【編集「中」記】というanf先生の一人語りもあります。【TASK TALK】は毎週水曜更新予定で,Vol2の続きもこれからアップロードされていきます。300円の有料マガジンとなりますが,noteにアカウント登録をしてクレジットカード決済で簡単に購入できますのでよろしくお願いします。下記リンクからどうぞ。

英語教育2.2CAST201912月号】

さて,通常「マガジン」といえば文字や写真,つまり視覚情報による媒体ですが,anf先生と私の試みは音声での配信,つまり聴覚情報を提供している媒体です。読む,見る,に比べると聞くというのは結構ハードルが高いようです。1番組は10分程度にして,できるだけそのハードルを低くするようにはしているのですが,やはり慣れてないと耳から情報を得るって難しいのかもしれません。

私が文字ではなく音声で情報を入れたいと思うときは,基本的に画面を見続けることができない状態のときです。そんなときにまでわざわざなんか聞いたりせんわって思われる方もいるかもしれませんが。具体的には,家事をしているときに聞く事が多いです。例えば洗濯物を干しているときや料理をしているときは,なかなか画面を見続けることはできませんよね。ウェブ記事のような文字媒体を読むことはおろか,テレビのようなメディアを見ることもあまりできません(デュアルタスクが苦手なだけかもしれませんが…)。ただ,耳で聞き続けることは他の作業をしながらでもできるんですよね。そういうときは音声が向いているところだなと思います。洗濯物を干すくらいの時間だと(家族の人数等々によるでしょうが)だいたい10分くらいですし,料理はそれ以上時間がかかることが普通なので1番組を聞き終わることはは十分に可能だと思います。

私は昔からいわゆるクリッピングが好きで,Twitterに流れてきて面白そうだなと思った記事や,RSSでフォローしているブログ記事なんかで面白そうだなと思った記事はPocket(昔はRead It Laterという名前でした)というアプリに飛ばすようにしています。

Pocketとは?今見ているページを保存してあとで読めるツールを解説
Pocket(旧・Read It Later)、InstapaperReadability…人気の「あとで読む」系サービスを徹底比較!

ウェブの記事から余計なところを排除して記事の部分を読みやすく表示してくれるサービスなわけですが,少し前のアップデートで読み上げに対応してくれるようになりました。そもそもPocketでうまく表示されないページは無理ですが,Pocketで記事がうまく表示されるのであれば英語でも日本語でも自動で記事を読み上げてくれます。その場では読めないけどあとでチェックしときたいなという記事をPocketに保存して家事しているときに音声読み上げで「聞いて」,聞いたらそれをEvernoteにドンドン保存していくというのがルーティンです。正直Evernotenに保存した記事を見る機会はそこまで多いわけではありませんが,「あーどっかでこういう話読んだなー」みたいなときにとりあえずEvernoteで検索したり,とにかく情報のヒントを探すときにEvernoteで探してみるというような使い方をしています。iPad版のアプリで試しに読み上げ機能を使ってみたスクリーンレコーディングの動画を貼っておきます。

 

noteはウェブが基本ですが,アプリもあるのでアプリで聞く事もできます。読むと聞くではアクセスするのに適したタイミングがあるわけで,音声メディアのアドバンテージは何か別のことをしながらでもよいという点です。昔からラジオ番組ってそういう位置づけでしたよね。車運転しながら聞いたりとか。内容的にも英語教育2.2CASTは身構えて頭をフル回転させて聞くことが求められるものではないと個人的には思っていますし,ぜひみなさんにも「ながら」で聞いていただければと思います。では,これから収録に臨みます!今日の収録が配信されるのをお楽しみに!(笑)

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

ライティングの採点の不備と一緒に学習者の心ぶった斬ってませんか

民間試験導入の問題がわーっとなったとき(あるいはその少し前),ちょくちょくTwitterで,

こんなのでこの点数!!

みたいな投稿についた画像で学習者のライティングプロダクトとその点数の写真を見かけることがありました。私のタイムラインは英語教育関係者が多いですし,民間試験導入の問題についても声を上げている人がたくさんいらっしゃって,関連したツイートが比較的頻繁に流れてくるので目についただけかもしれません。おそらく,一般的なレベルでいえば認知度が高まったのはほんの最近のことで,下記のことを考えたのはおそらく私くらいだと思います。「なーに言ってんだばかか」と思われてもいいです。

私は上記のようなツイートを見るたびに,「試験の採点がおかしい」とか,「こんな試験を入試に導入なんてありえない」とか,そういうことの問題提起は理解していても,やっぱり学習者の実際のライティングをもってそういう主張をすることには賛同できないという気持ちになりました。本人が(「こんなんでいいの?」というようなノリで)画像をあげていることもあるかもしれないので難しいですが,試験の不備と一緒に学習者の心までぶった斬ってはいないでしょうか。その本人だけではなく,似たような質のライティングをした学習者がそうやってオトナが叩きまくっているのを見て(叩いているのは試験そのものだとしても)どう感じるだろうというのは私の考えすぎでしょうか。

水をさすつもりはまったくありません。標準化された試験としてやっていて採点基準どうなってるのという批判はそのとおりだと思います。ただ,元のツイートにぶら下がっていたコメントなんかがとくにですが,「正確さ」に対して過剰に反応しすぎではないですかね,誤りに対しての不寛容さみたいなのも一緒にそこに投影されていませんかね,と思わずにはいられないのです。

たしかに,たしかに,お世辞にもうまく書けているとは言えないようなものだったりもします。文法的なエラーやつづりのエラーも含まれています。なんとかかんとか文意を汲み取ろうとこちらが最大限の努力をして,意味解釈はできるかな,というレベルのものです(私が見たものは)。それでも,問いが与えられて,その問いに答えるために自分の持っているリソースを最大限に活用して,英語を書いたということと,その学習者が現時点でそのレベルの発達段階であるということは何も悪くないと思うのです。

あまり具体的なことを言うとどの画像見たかとかになってしまうので詳しく言及することは避けますが,評価できるポイントだって見つけようと思えば見つけられるように私には思いました(一つの観点でいえば流暢さとしての語数)。課題が何を求めているのかや,何を測定しようとしているのかにもよりますが,同様のライティングプロダクトに対して私はこれまでにゼロをつけたことはないなと思いましたし,意味のわからない単語の羅列ではなく英語の文を表出しようとしたことを評価したいなと思いました。何度も言いますが,そういう性格のテストではないとか,誰も書かれたものそのものへの批判はしていないとか,そういうのはすべて,「そうだろう」と思っています。そのうえであえてこういうことを書いているのです。

杞憂であってほしいと思っていますし,実際に杞憂なのだと思います。それでも,それでもやっぱり,「ああやっぱりこれじゃ全然だめなんだ」と思う学習者がいたら,それは英語教育にとって良いこととは言えないと思います。「あれでいい」と言っているのではありません。もっと良い英文が書ければそれに越したことはありません。私はただ,英語を使ったときに少しでも誤りだったり誰かから見て不自然と感じられるようであったらすごい勢いで寄ってたかってあーだこーだ言う,そういうのが本当に嫌いなのです。そして,ライティングの採点基準についての批判を真摯にする人の周りに,意図せず人の誤りを笑うそういう人たちが集まっているのではないかと思ってしまったのです。

なにをゆう。

たむらゆう。

 

「2年目のが忙しい」説

大学院生の時,以下のような話を聞いたことがありました。

大学に就職したら1年目はあまり仕事を任されたりしないので忙しくないけど,2年目以降はどんどん仕事が増えるので忙しくなる。1年目に研究とかやったほうがいい

今私は現在の所属先に就職して2年目になりますが,2年目の方が忙しくない,つまり1年目の方が忙しかった,と思っています。この記事ではそれは何故なのかについて考えてみたいと思います。特に一般化するつもりもありませんし,上の発言を否定する気も毛頭ありません。むしろ,一般的には2年目以降の方が忙しいのだろうと思っています。

知らないことが多いことのストレス

私がストレスフルなくらい忙しいと思うのは,おそらく仕事の量よりも知らないことの多さにあると思います。いや、まあ誰でもたぶんそうでしょうけども。私は大学教員の専任職を得たのが初めてだったので,とにかくやること全てがわからない状態でした。

すごい細かいことでも、わからないことが多いのは不安でストレスがたまります。例えば

  • 授業や会議の教室の場所がパッとわからない
  • 必要な情報を得るには学内ポータルサイトのどこにアクセスすればいいのかわからない
  • 書類を提出するにも、マニュアルに書いてあることを読みながらやるけど合っているのかわからない
  • わからないことを聞くのにどこに聞けばいいのかもわからない

みたいな。たぶん普通の会社だと,教育係の人がいたり,デスクが近くの人に聞いたりできるのでしょうが,大学教員は仕事部屋(研究室)が個室なので,気軽に同僚の先生に聞いたりとかもできません(聞きに行くにも気を使いますしね)。

また,「これについてどうしましょうか」、という対応を求められるメールが回ってきても、「どうしましょうもなにも今までどうしてきたのかとか,どの対応したらどういう結果になるかとか,なにもわからないからなにも言えないしこのメールなんて返したらいいの?」みたいなこともたくさんありました。

終わりまでの道筋がみえない

仕事の具体的な話で言うと,「なんとかなるから大丈夫だよ」と先輩に言われた仕事も,「いや、なんとかなるかもしれないけど,どのくらいのエフォートを割いたらどれくらいの作業時間で終わるかもわからないし…」というこのブラックボックス感が不安でストレスがすごくありました。だいたい何か仕事をやる時って,これまでの経験でどれくらいの時間がかかりそうかとか,どれくらいリソースを割いた方が良さそうか,優先順位としてどれを先に終わらせるべきか,とかある程度予測が立つと思うんです。1年目はその予測が全くできないと。終わりまでの道筋が描けないので,自分の1週間のスケジュールの中で時間の配分を考えたりするのも難しい。見通しが立たないからとにかく行き当たりばったりで仕事をすることになってしまい,予想外のこともたくさん起こるのでそこでまたストレスを感じてしまうことが本当に数え切れないほどありました。

知らないことが少なくなる2年目

対照的に2年目は,前述の細かいことでわからないことはほとんどなくなっています。キャンパス内の地理も把握できているし,書類も前にやったことがあることがほとんどなのでそれを見ながらやれば良いわけです。

2年目になって増えた仕事ももちろんあって,やらなければいけないことの総量は増えているのですが,それでもやったことのあることの割合が多い分だけ忙しさやストレスを感じていません。仕事を終わらせるために必要なたくさんのことの見積もりが事前にできるので,効率的に業務をこなすことができます。これは単に時間的・体力的な余裕ができるだけではなく,気持ち的にも楽になります。なぜなら,「このメールはすぐに返せる」,「これは後回しでも大丈夫」,「この仕事はまずこの部分だけ終わらせればとりあえずはオッケー」みたいな判断ができることで,頭の中から仕事のことを一旦シャットアウトすることができるからです。時間の余裕ができると言い換えてもいいのですが,見通しが立たないとこの切り替えがうまくできないので,常に頭の中が仕事の事でいっぱいで気分転換もうまくできませんでした。仕事のことを考える時間が長いので忙しさは当然感じますし,それがストレスの原因にもなっていたのではないかと振り返ってみて思います。

力の抜きどころも見えてくる2年目

どれくらいのエフォートでどれくらいこなせるのかがわかるというのは,自分のエフォートを制御することにもつながると思います。どれくらいやったらいいかわからないのでとにかく自分の持てるもの全て投入して臨むわけですが,終わってみると「なんだ。もう少しエフォート率下げても大丈夫だな」と思うことも出てきます。手抜きするというと聞こえが悪いですが,いい意味で求められる成果に合わせて出力をコントロールできることで,省エネ運転ができるようになってガス欠にならないというのも1年目と2年目の違いでしょう。5キロを30分で走りなさいと言われたら,だいたい1キロ6分ペースで走ればいいとわかりますし,それがどれだけ大変かもわかります。スピードをコントロールするのもそれはそれでむずかしいのですが,「ここを川沿いにずっと走ると赤い建物が左側にあるからそこまで30分で」と言われても,それが5キロ先なのか,7キロ先なのか,はたまた1キロ先なのかもわからないので,どれくらいの速さで走れば良いか,どれだけ疲れるかも全く見当がつかないわけです。7キロ先なら6分では間に合わないのでもっと速く走る必要がありますし,1キロならもっとゆっくりでもいいしなんならスタート時間を遅らせたっていいわけです。私にとっては1年目はそんな感じで距離とそこにかかるエネルギーのわからない仕事を常にやっている感覚でした。

実は1年目から仕事量多かった?

もしかすると,1年目から仕事量が多かったために,1年目から2年目に増えた仕事量がそこまで多くないということなのかもしれません。私はそうは思っていませんが,1年目から2年目で増えた仕事量がそこまで多くないと感じるのは,1年目である程度任されることが多かったことの裏返しなのかもしれません。ただ,着任して1年目にやる仕事が大きく違うという話は聞いていないので,この説はしっくりきていません。

おわりに

職場によって環境は本当に全く違いますし,仕事のこなし方も人によってそれぞれだと思いますので,ここに書いた話がどこでも誰にでも当てはまるとは思っていません。しかしながら,私にとっては上述のような理由で,1年目よりも2年目の方が「忙しい」と感じる程度が低いように感じています。来年にどうなるかはわかりませんが,少しずつ自分のできることを増やしていきながら,自分の能力と相談して仕事を(そして研究を)こなしていきたいなと思っています。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。