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ピアフィードバックの話(ライティング)

今年度ライティングの授業を持っているという話を以前書きました(https://tam07pb915.wordpress.com/2018/04/26/writing-class/)。その授業では,基本的に4週を一単元として,異なるタイプのライティングをしていくという構成になっています。最初はnarrative,次はdescriptive,今はopinion writingをやっています。授業の基本的な構成は以下のようにしています。

 

1限目

  • 書き方についての枠組みの提示
  • ブレスト・プランニング
  • rough draftの執筆

2限目

  • 構成や言語面についての全体へのフィードバック
  • first draftの執筆
  • ピアフィードバック

3限目

  • first draftを見ての全体へのフィードバック
  • first draft(教員の赤入りのもの)へのピアフィードバック
  • second draftの執筆

4限目

  • second draftを見ての全体へのフィードバック
  • second draft(教員の赤入りのもの)へのピアフィードバック
  • フィードバックを受けたものを見てWritten Languaging

Final draftはLMSで電子的に提出させていますが,それ以前の授業内のライティングについてはすべてハンドライティングです。理由はパソコン室でやっていないというだけで,パソコン室使えるなら全部タイプさせてたと思います(よくわかってなかったので依頼書とか出しそびれた)。

上記の授業内容をご覧いただくとおわかりのように,ほとんどの授業のときにピアフィードバックを入れています。これが意味あるか無いかという話はとりあえず置いておきます。私がピアフィードバックを入れている目的は大きく分けて2つあって,1つ目は,他の人のを読むという行為を通じて自分が書くことへの刺激を得てほしいということです。クラス分けされているとはいえすらすらと分量を書けたり,語彙が豊かであったり,あるいは構造の複雑さも高かったりする学生がいる一方で,そうではない学生もいます。他の人のを読むことでライティングに苦手意識があるような学生には「良い部分は真似してほしい」という思いがあります。もちろん,単なる言語面に限らず「ロジック」とか,「文と文のつながり」という点にも意識は向けさせているので,そういうところにも注意しながら読んでもらえるようにしようとしています。

2つ目の目的は,いろんなケースについて,私の赤やコメントを見ることで,どこをどうすればよくなるのかのヒントを得てほしいというねらいです。私のフィードバックは基本indirectあるいはimplicitなので,誤りが含まれていたりおかしいと思うところに赤線や^をいれるだけで,特に正しいものを提示することはないです(たまにdirect feedbackしますが,説明はしません)。また,コメントは9割くらい日本語で(たまにめんどくさいときに英語で書きます),

こういうトピックセンテンスになっているのにボディがそれをサポートしてない

こっちのアイデアについては情報がたくさんあるのにもう一方については具体例も殆ど出てこない

こことここは本当に原因と結果の関係になっている?

なんかこの結論て最初に言ってたことと違う話になってない?

みたいな,構成に関わるものがほとんどです。そういう赤やコメントを見ながら読むことで,良いものとあまり良くないものの例を積み上げていってもらい,それを自分自身が書くときに生かしてほしいということです(注1)。もちろん,かなりできる学生は私が見逃していたような綴りの間違いや形態素の脱落なんかに気づいたりすることもあるので,ピアフィードバックをすることで形式に注意を向ける機会は得られているのかなと思います(ただしこれが自分が書くときの正確さの向上につながっているかは不明)。

ピアフィードバックをするときには,基本的にはドラフト用紙にコメント欄を設けて記名式でコメントとアドバイス(後者は書き手がreviseするときに必ず参考になるようもの)を出すようにということでやっています。

さて,ここまでが前置きなのですが,そのピアフィードバックをどうやるかという話です。最初の頃は,基本的には個人個人でもくもくとコメントを書くような時間を作っていました。20人弱×2クラスあるので,それを全部まぜこぜにしてランダムに配り,20分~30分という時間の中で最低○人のドラフトを読んでコメントをするという指示を出します。自分のペースでコメントをし終わったら前に戻して別の人のドラフトを持っていき,それにコメントして戻してはまた次の人のを取っていくというスタイルです。こういうふうにすると,自分のコメントに責任を持つことが必要になってくる一方で,なかなか「具体的なアドバイスができない」というケースが発生してしまうということが問題でした。また,個人個人の活動なのであまり盛り上がらないということもあります。実はみんなが静かに読んでコメントしている最中にもそこには「沈黙のインタラクション」があるわけなのですが,それは表面化しませんし,クラス全体の雰囲気もだらっとしてしまったり眠くなってしまったりするということもなくはなかったです。もちろん,1年生にしてはかなりレベルの高い学生なので,個人個人でやらせてもそれなりに読めてコメントも的確に出せるのですが。そんなときに,ある友人から,「ペアでピアフィードバックやらせるとめちゃくちゃLRE(Language Related Episode)出てくるよ」というアドバイスをもらいました。そこで,最近は少し形を変えてペアでやらせるようにしました。ただ,ペアでやらせると言ってもやり方はいろいろあると思います。私が今の所引き出しとして持っているのは次の2つのやり方です。

  1.  教室内でペアを作り,お互いのドラフトを交換して読み,口頭でコメントをし合う
  2.  教室内でペアを作り,2人で1枚のドラフトを読んで一緒にコメントを書く

1の方法をもう少し詳しく説明します。この方法は,他のペア活動をするときと同様にペアリングをし,5分間などの時間を設定した上でその制限時間内にパートナーのドラフトを読んで,口頭でアドバイスを送るというものです。この方法のメリットは,著者に直接コメントができるので,著者にしかわからない微妙なニュアンスや,ワードチョイスなどについて直接質問できたり,意味がわからなかった部分について「これってどういうこと?」などと聞ける点です。質問される側は,わからなかったと言われたところは書き直しが必要かもしれないと考えるでしょうし(この前提は甘い?),難しい単語はパラフレーズしたり説明を加えたりという工夫をしようとするケースもあります。また,自分に自信がなくても,「これってさ,ofじゃなくてinじゃないっけ?」という形で聞くことで,「あれ,どっちやったかな。ちょっと調べてみよか」みたいな感じで共同学習がスタートしたりもしているようでした。

2の方法は,前述のように,1枚持っていって読んでコメントするというのを繰り返すパターンを2人でやるものです。これのメリットは,1クラスしかなくても実施が可能な点がpracticalな点としてはあると思います。20人のクラスでもペアにすれば10ペアなので,1ペアにつき1枚ドラフトが渡っても常に10枚はストックが前にある状態なので,読み終わって手持ち無沙汰になるということがなくなります。フィードバックを出すという点については,ペアの相手と一緒にコメントを考えることで,「自分には見えていなかったところに相手が気づいている」というケースが割と出てくるようで,「他の人の書いた原稿」と「他の人のコメント」の両方から発見があるようです。ひとりで黙々とコメント書くパターンでも,自分の前にコメントした人のコメントは読めるようにはなっていますが,二人でコメントを考えるという作業のほうが自分の視点と他人の視点が対照されやすいのかなという印象です。ただし,この方法の問題点の1つは,ペアリングを工夫しないとふたりともなかなか意見が出てこずに沈黙になってしまうということです。私が観察している限りの印象では,熟達度が低い同士で問題が起こるというよりはパートナーとの相性というか,性格の問題が大きいように思います。クラスサイズが小さいですし,他の授業でも一緒というケースも多いので,割とクラスみんなそれなりに仲良しで誰とでも話せるような雰囲気はありますが,そうはいっても全員がそうというわけではないので,たまにこちらがうまく介入してあげないとなかなかアドバイスを出せないということになってしまうようです。1の方法ではあまりこの問題点は顕著ではないように感じるので,reciprocalな関係性がペアの中にあるということがカギなのかもしれません。

ということで,今回はピアフィードバックの3つの方法について記事を書きました。どれがより良いというよりは,クラスの雰囲気,授業の形態や授業のねらい,学生の様子など,いろいろな要因を考慮しながら使い分けていくのがよいのかなと思いますが,ペアでやる2つの方式は割とうまく機能しているかなという手応えがあるので,これからはそちらを中心にやっていこうかなと思います。むしろ最初はペアでやって,ある程度なれてきたらindividual workに移行するのがいいかもしれません。

久しぶりの更新でした。

注1. 授業内で書いたものを直後にフィードバックさせる場合にはこの部分はないです

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

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答えは渡さない理由

タイトルは,答えを「渡せない」理由と言ってもいいのかもしれません。何か問題があって、その答えが1つに決まるようなものの時,私個人としては,学生や生徒に答えやあるいは全訳を渡してしまってもいいと思っています。

ところが,答えを学生が所有している状態をひどく嫌う先生というのが世の中にいるようです。「授業時に渡すのならいいが、授業が終われば回収する」ということもあるようです。残念ながら,私にはどうしてそのことが禁じられるような事なのか理解できていません。よくある理由としては,「学生が答えを写してしまう」であるとか,「学生の間で答えが出回るとよくない」というようなものでしょうか。

私は個人の指導観や授業観のようなものとして,「教師は答えを教え,それを学習者は学ぶ」という形態があまり好きではありません。好きではないというより,それが授業の重要な部分を占めるようなものに否定的といった方が良いでしょうか。

もちろん,学習者が教師の知識を必要とする場面は授業の中にたくさんあるでしょうし,そうした場面がなければ教師は必要ありません。ただし,「答えを知っている存在」というのが教師の存在意義だというような考え方にどうしても馴染めないのです。

「答えを渡したくない」と考える人は,それこそが自分の存在価値であるというように考えているか,あるいは授業とは教師が学習者に答えを教えるという活動がメインであると考えているのかなと思ってしまいます。

しかし,教師だけの責任であるとも思いません。学習者も答えを欲しがります。訳を欲しがります。だからこそ,教師は答えをあげることや自分が訳してあげることに意味があると思ってしまうのかもしれません。あるいは,答えを教えるのが学習者のエンゲージメントを最大化するのだという判断のもとなのかもしれません。

そうであったとしても,問題には答えがあり,それを教師のみが知っていて,それを学習者に教えることが授業だという考えにはやはり同意できないところがあります。例え学習者が答えを知っていたとしてもなお,教師の役割がある,学習者が教師の助けを必要とする,そんな授業をしたいと個人的には思います。そして,答えを写すことや,問題には答えがあり,与えられた問題に答えることが学習である,というような考えから学習者を解放することも教師の役割だと思っています。

他の教科や科目のことは詳しくありませが,英語という教科はそうしたことが可能だと思います。なぜなら,言語の使用場面で答えがひとつに定まるという場合は多くないからです。もちろん,教師個人の努力ではどうにもならないこともあるでしょう。カリキュラムレベルでの目標や組織としての目標と授業設計が常にあり,全ての教師がそこに意思決定権をもたない場合もあるからです。

私は研究者の卵であると同時に,英語教師の卵でもあると思っています(後者については20代後半で卵というのもアレですが)。教員養成課程の出身だということもありますし,英語の授業も仕事だからです。授業研究の専門家ではありませんが,授業のことはこれからも考えていきたいです。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

タスクは取り入れられない

非常勤先で,「タスク・ベースの活動を取り入れた英語授業」というのをやろうということで色々試行錯誤しています。

そこで,最近ようやく気づいたのですが,「タスクを取り入れた英語授業」はできないなっていうことです。タスクをしっかりやろう,消化不良にならないようにしよう,と考えると,それはもう授業全体をタスク・ベースで構想していかないといけません。

「タスクを取り入れる」といった時,それはほとんどの場合,「これまでに行われていたなんらかのコミュニケーション活動をタスクにする」ということになると思います。しかし,タスクの定義を満たしたコミュニケーション活動を,授業の「仕上げ」あるいは「まとめ」的なところにそのまま配置すると,ほとんどの場合タスクをうまく遂行することができず,結局事前に対話の形式を示したり,入れ替える語彙の選択肢を与えたりしてなんとか活動を終わらせることになってしまうと思います。これはなぜかというと,遂行するタスクを意識したインプットを事前に十分に与えて理解するプロセスを経験させておかないとタスクができないからです。タスクというのはそういうものなのです。

これは現在鋭意改訂中の原稿の中でも書いていることなのですが,「タスク・ベースの英語授業」と「タスクを取り入れた英語授業」の一番の違いは,学習者がタスクを遂行できるようにどのような手立てを取るか,にあると思います。前者では,最終的な目標タスク(現実的場面での目標タスクというわけではなく,教室場面で「達成目標となるタスク」の意味です)を達成できるようにするためにタスクを用います。もちろん目標タスクが学習者に産出をもとめない「理解型タスク」である可能性もありますが,ここでは目標タスクは何らかの言語産出を学習者に求める産出型タスクであるとします。後者では,「取り入れる」という発想を取っているわけですから,通常の授業時間の一部をタスクに割り当てることになります。モジュール型アプローチとも呼べますが,週に1度の英語授業でモジュール制でタスクに取り組ませるとすると,単発で毎週異なるタスクに取り組ませるようなことになってしまいます。今までにやってきたようなバリエーション豊かなコミュニケーション活動の数を減らさなければ,目標タスクに向かってステップバイステップで学習者を導くことは不可能でしょう。もしも通常の授業に関連させてタスクを「取り入れる」のだとすると,ほとんどの場合それはなんらかの目標言語形式があったりします。特に,大学でもfalse beginnerを対象にしていたり,リメディアルと呼ばれるような授業であるほど,教科書も「基礎固め」や「やり直し」と称して中学で習った文法をもう一度教えるようなものが多いです(これ系のリメディアル教材は個人的に99%滅びてほしい)。実際,教材で与えられているインプットを活かしたタスクを作ることにはかなり頭を捻らなくてはなりませんし,基本的に大学用の教科書は1週で1課(または2課)という構成になっているので,同じようなタスクに繰り返し取り組ませる余裕もありません。

一方で,タスク・ベースの授業では,目標タスクで必要となる語彙,文法,表現などを学習者に処理させるような理解型のタスクを最初に用います。そこから,徐々に学習者がそれまでに得たインプットを「借りながら」タスクを遂行できるような産出型のタスクを行います。ポイントは,あくまでどんな表現を使うかの判断は学習者に委ねられていることです。そして,タスク自体を易しくしたり,準備時間を十分に取ったりして難易度が低いかたちのタスクに繰り返し取り組ませ,そこから最終的な目標タスクに取り組みます。これでうまくいかなければ同じタスクにもう一度取り組ませたり,やりとりや発話の性質自体は同じで内容を変えたタスクにもう一度取り組ませたりします。つまり,発話を求めるなんらかのタスクを学習者が達成できるようにすることを考えれば,そこまでにたくさんのインプットを与えなければいけませんし,タスクは一度きりで終わってしまうこともできません。要するに,「取り入れる」なんて言ってられないということです。

タスクだけじゃ一つの授業がもたないし…

と考える人がもし仮にいたとすれば,それはタスクをできるようにさせてあげることがどんなに手間のかかることなのかわかっていません。ポンと投げ込みでいれてワイワイ楽しくやれるというのは,ある程度熟達度が高い学生を対象にしている場合のみで(それでもそんな簡単にいくわけではないと思います),私が今教えているようなレベルの学生(TOEIC Bridgeで100前後)がタスクをやって達成感を得たり,「楽しかった」「できた」と感じることができるようになるのは,そんなに簡単なことではないわけです。

教科書もやらないといけないし…

という人には,「教科書やらなくていいでしょ」と言いたいです。もちろん大学でもそういう状況ばかりではないでしょうけど,初学者向けのタスク・ベースの教科書が少ない(ほとんどないと言ってもいい)以上,教科書なしでどんなタスクができるようになってほしいかを考え,そのタスクができるようになるためにはどんなタスクが必要かを中心に授業を構成していくだけで授業は15回できます。そう考えると,教科書を「メイン」にすることは難しいです。学生に教科書を買わせるからそれを使わないことに罪悪感が生まれるのであって,教科書は買わせなければ良いし,もしどうしても何か持たせたいなら「文法書」を持たせてレファレンスブックとして授業や自習時に参照するように指導するか,辞書を持たせて授業に必ず持ってくるように言うほうが教科書を買わせるよりもよっぽど良いと思います(これはこのブログでも何回か言ってる気がしますけど)。

プリントをファイリングしていけば学習の積み重ねとして最終的にそれが教科書の様になるわけですし,教科書に活動が豊富に掲載されていてもそれに書き込んだものはその都度チェックしにくいです。フィードバックを個別に返すことはできなくても,タスクができたかできなかったか,どのあたりで躓いていてどこにフォローが必要なのかはプリントを見ているだけでもある程度把握でき,それによって授業も臨機応変に変化させられるでしょう。シラバスに沿った授業をしたかどうかをFDでチェックされるから学期中に予定を変更するのがためらわれるという意見も聞いたことがありますが,それって本末転倒でしょう。学生を見ずに立てた予定を守ることに何の意味があるのでしょう。学生にこちらの意図をきちんと説明して予定を変えれば理解されるでしょうし,それをしないことは教師としての怠慢だと私は思います。

話が少し逸れました。教科書があれば教材を作る手間も省けますし,練習問題の答え合わせを授業でやることにすれば一度作ったスライドを教科書を変えない限り使いまわせてとても楽でしょう。ただし,それはタスクにも同じことが言えて,タスクだってある程度蓄積があれば教える学生のレベルや状況に合わせて修正しながら使いまわすことだってできます。目標タスクがあればそこから理解型のタスクを作ることもそんなに難しいことでもありません。中途半端にタスクを「取り入れ」て消化不良になるよりは,タスク・ベースでやったほうが学生にも親切な授業設計になるでしょう。

結論,やっぱり,タスク・ベースでやりましょうよ。そのためにこれまでに扱っていた内容を削り落とさないといけないとすれば,そこは勇気を持って取捨選択しないといけないでしょう。90分×15回の授業でカバーできる範囲はそんなに多くありません。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

英語の勉強はやめよう

授業の時間は限られている。だからこそ,その限られた時間を有効に使いたい。それを突き詰めると,授業という場,教師と学生が1つの教室に集まるその場所でしかできないこと,その場所でしかできない学習をさせてやりたい。それが私の教師としての思い。あえて授業の時間を割く必要がない学習については授業外に各自で学習させるようにすればよい。それを予習とか復習とかいう名前で呼ぶのはきらい。家庭学習ならまだいいかもしれない。それから,勉強という言葉がきらい。「勉強させる」ということばはもっときらい。もしかすると,私が語学学習という意味での「勉強」が嫌いだからかもしれない。しかし,私は英語の勉強は好きである。それはlearning Englishではなくstudying Englishであり,to master Englishという目的ではなく,to acquire knowledge “about” Englishという目的のためにするものである。自身の研究のためでもあるし,英語を教える者として言語に関する知識は多ければ多いほど良い。純粋に知的好奇心もある。

ただ勉強だけしても英語ができるようになるわけではない。いわゆる「勉強」ってヤツをしないと英語ができるようにならないと思っている人(教師も学生も)がいるようだが,それだからダメなんだ。大学生にもなってbe動詞もできないからbe動詞を「しっかり」教えようとか,「基礎からもう一度やり直そう」とか,そんなことやってるからダメなんだ。彼らは間違いなく「教わった」はずだ(cf. 文法の明示的指導研究について思うこと)。中学だけでなく,高校でも「基礎からもう一度」とやり直すような授業をやったのかもしれない。ではなぜ,彼らは大学生にもなってbe動詞もわからず,代名詞の目的格もわからないのか。それは教えただけじゃできるようにならないしすぐ忘れるからである。こんな当たり前のことにも気づかないのか。リメディアルという名のもとにくそつまらない文法やり直し問題集を大学向けの教科書にしてる場合じゃない。

どんなに話のうまい先生がどんなにわかりやすい丁寧な説明をしたところで,そこで「わかったつもり」になってあとは忘れるだけである。普通の教師が説明しても身につかなくて当たり前。だいたい教師の説明なんてほとんど聞いてない。必死にメモを取っても忘れる。「英語は教わったように教えるな」という若林先生の名言があるが,私はもっとラディカルに,「英語は教えるな」くらい言いたい。ただこれだと語弊がある(若林先生に教えない教師など必要ない。失格だ。と言われてしまう)。教えるなとは言わない。教えてと言われた時に教えればいい。教えてと言われなければ教えなくていい。少なくとも,説明などしなくてもよい。どうしても説明したいなら紙でも配って勝手に読ませれば良い。教師が教室で話す意味はあまりない。少なくとも,何か別の活動に関連した規則についてその活動のあとに説明するなど,何かしらの活動と関連性がある場合を除いては。もし「配っても読まないし」と言うのなら,それを読まない学生は知りたくもないし教えて欲しいとも思っていないのだ。やはり教えなくてよい。どうしても,どうしても教えたいのなら「どうしたら学生が食い入るように文法説明のプリントを読む状態になるか」を考え,そのために必要な活動をやらせれば良い。それを考えずに上手くもない説明を無理矢理学生に聞かせることになど意味がない。

もうひとつ教える場面があるとすれば,それはフィードバックを出すときである。学習者の産出した言語に対してフィードバックを出すのは良い(もちろん文法項目によっては受容面に関してprocessing instruction的なことをやることにも意味はあると思う)。むしろどんどんフィードバックすればよい(どうフィードバック出すかが問題だが)。そこで教師としての力量が問われる。ただし,誤りが害悪だからフィードバックを出すのではない。学習者の誤りはそれ自体が学習者の中間言語体系を表しているからである。学習者がどのように中間言語を発達させているかを見るには誤りを観察するほかない。それがCorder(1967)の“The significance of learner’s errors”の意味である。学生が何かの目的を持って言語を使う。そして教師がフィードバックをする。そこで発生するのはstudyingではない。learningである。いつまでたっても英語ができないのは,教室で英語を勉強する/勉強させるからだ。教室以外のところでは勉強しても良い。learningのために必要なstudyingならさせても良い。ただし教室内では,英語の勉強はやめよう。そういう授業をやろう。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

3単現の-(e)sは口をついて出るくらいまで練習

馬鹿じゃないのと思った。

今,とある原稿の執筆にあたって(〆切に間に合いそうになくてやばい),中学や高校の教科書のCAN-DOリスト,評価基準,年間指導計画なんかを見ている。そこで,とある教科書の(あえて名前は出さない)年間指導計画の,指導例というカラムに次のような記述があった。

3単現の-(e)sは理屈で覚えるよりも口をついて出るくらいまで文を言い,書く練習をする

まさに,「お前は何を言っているんだ」の気分である。そんな無駄なことをさせるくらいだったらもっといくらでもやること,やれることがあるだろう。これを書いた人は,自分が3単現の-sをまったく落とさない自信があるというのだろうか。3単現の-sは,超高熟達度の学習者でも習得が困難であると言われる文法項目の典型的な代表である。そして,文法的に主語をidentifyする機能はあるが,これがなくても文の理解に支障をきたすことはほとんどないと言っていい。なぜなら,英語は語順がわかれば主語が(ほとんどの場合)わかるからである。また,有生性も動作主-被動作主の関係を表すのに重要な手がかりとなる。3単現の-sが脱落していることが,意味理解を阻害することはほとんどない。過剰使用されている場合もそうだ(実は過剰使用の方が気づきやすいらしい)。

この「文を言い,書く練習をする」というのが,単なるパターンプラクティスのような物を意味していないのだとすれば,それに意味がないとは言わない。しかし,そうであったとしても,そのような活動は3単現の-sの習得を目指して行われるべきものではないだろう。誤解を恐れずに言えば,3単現の-sの習得など目指さなくても良い。それこそ,理屈を知っていて,ライティングの時などにモニタリングして直せれば良い程度のものではないか(それでも見逃すことだって私にはあるが)。3単現の-sが落ちていることにそんなに目くじら立てる必要はどこにあるのだろうかと思う。しかも,あろうことかそのどうでもいい形態素を習ったばかりの中学校1年生に対して,そんな無駄な苦行を強いるなんて言語道断である。もし本当に三単現の-sの習得を目指したいのであれば,それ以外のところにほとんど注意を向けなくとも書いたり話したりできるような訓練をした方がよっぽど良い。そういうことに時間を割いたほうが,全体としての英語力も上がるだろうし,結果的に3単現を落とすことも少なくはなるだろう(それでも母語話者レベルにはならないと思うが)。

私は英語の第二言語話者としてそれなりに機能できる自信があるし,相手の言っていることを理解したり,自分の気持ちや考えを伝えたりすることだってそれなりにはできると思っている(ただし,英語力に自信があるわけではない。語彙とかたぶん5000語くらいしかない)。英語を中学1年から勉強し始め,北米に2年間留学した私でさえ(むしろその程度だからこそ?),3単現はたまに落とす。英語教師として,正確無比な言語使用ができないことはプロとして恥じるべきだとは思うし,実際に毎週英語で授業をしながら「ヤベッ」と思うことがある。それはプロだからである。英語を教えることでお金をもらっているからである。プロを目指してもいない,英語学習を始めたばかりの中学生に(高校生や大学生だってそうだ),「口をついて出てくるまで」きっと無意味な文を言わせるなんて,そんな指導観を持っている人には絶対に教わりたくない。もちろん,そこまでして,情熱的に,なんとかして,英語を身につけさせてやりたいという熱意は素晴らしいと思う。しかしながら,圧倒的にベクトルが間違っている。その情熱はもっと別のところに注ぐべきだ。

余談だが,実はかくいう私も3単現の-sを減点したことがないかと言えば嘘になる。先日のテストのライティング問題である。語数,内容,文法・スペリングという3観点の評価方式を私はよく採用している。昨年度までは,このような形式を取る問題は1問だけで,ほかは文法の間違いは一切評価しない問題も出していた。今年は,そういう問題を出題できる環境でもないので,3観点方式のライティング問題だけを出した。そこで,私の担当しているクラスのうちの1つで,とびっきり出来の良い学生が,3単現の-sを落としたというだけで,99点を取った。私も採点しながら,本当に心苦しい気持ちになってしまった。途中まで採点していて,「これは満点だなぁ」と思っていた矢先,最後の最後のライティング問題で彼の「誤り」を見つけた時,この採点方式を取ったことを本当に後悔した。テストの他の大問も完璧で,ライティング自体もトピックに沿ってよく書けていた。そこにきて,3単現の-sがたった一箇所落ちていただけで,私は彼が満点を取ることを阻止してしまったのだ。そして,翌週テストを返却したとき,答案をみてその学生が言い放った一言を私は一生忘れることがないだろう。

「くだらねえ」

私はなにも言えなかった。そして,自分で問題を作っておきながら,私自身も「くだらねぇ」と思ってしまったのだ。大いに反省した。そして,今度の期末試験では,文法面に関しては「意味理解を阻害するかどうか」という観点で,おおまかにレベルを4段階設定し(Foster & Wigglesworth, 2016を参考にした),意味理解を阻害しない程度の誤りが少数見られる場合は,その観点では満点とすることにした。もちろん,このレベル分けや,誤りのレベルの頻度というやり方も完璧とは言えない。まず,「なにを持って意味理解を阻害しない」と考えるのかは非常に難しい問題である(もちろんいくつの誤りがあれば「少数」とするかも問題である)。意外なことに,第二言語習得研究の知見からこの観点に関して言えることはほとんどないと言っていい。「誤りの重み付け」に焦点をあてた前述のFosterらの研究が「新しい評価法考えたったー!!」と言ってAnnual Review of Applied Linguisticsの最新号に掲載されているくらいだから,本当に研究されてこなかったのだろう。博論が終わったらこういう問題に取り組みたいとは思っているが,誰か「面白そうだな」と思う方がいらっしゃったらどんどんやっていただきたい。というかむしろ誰かやってくださいという感じだ。

かなり脱線したが,3単現の-sは本当に厄介者である。というかむしろ,「数の一致 (number agreement)」という事象自体が実はかなりの厄介者なのである。結論を言うと,文法習得を専門に研究している私から言わせてもらえば

3単現の-sをなめんなよ

である。そして,文法の正確さばかりに目くじらを立てる英語教師(含む過去の自分)は全員引退した方がみんな幸せになると思う。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

モデルの提示と意味交渉

学生と英語でやりとりをしていて,正しい形をどう示せば良いのか,また,それと同時にどうやって意味のやりとりをすればよいか,悩ましく感じることがある。

学生同士の交流を目的に,相手のことを知るための質問をたくさんするというようなことをやった時のこと。

沈黙しているペアがいたので,割って入った。

例として与えていたインプットの中に、”Do you like coffee?”というのがあった。

それで,以下のようなやりとりになった(Tは私でSは学生)

T: Do you like coffee?

S: No

T: Oh, you don’t like coffee?

S: えっ,You don’t like coffee

私の意図はいわゆるcomprehension checkのようなものだった。それにもかかわらず,学生は私の発話を修正フィードバックだと受け取ったようで,おうむ返しで私の発言をそのまま繰り返した。

私の言い方がなにか誤りを暗示してしまったのかもしれないが,そんな意図はまるでなかったのでこちらがむしろ驚いた。リピートアフターミー病(いま作った)というか,教師の発話は基本的に正しい形を与える役割で,それをそのまま繰り返せば良いという訓練の成果なのだろうか。

確かに,「なんていうかわからん」と聞かれれば正しい形を与えることもしばしばある。もしかすると,教室内で教師と学生が英語で意味のやりとりをしなければ,上の例のようにモデルの提示的な発話と,単なる意味のやりとりを取り違えたりする必要はないのかもしれない。しかし,有意味なやりとりが圧倒的に足りないほとんどの学生にその機会を保障できるほとんど唯一の場所が教室内であるとすれば,できる限り英語で意味のやりとりをしたい。それが私の英語教師としての信念である。

先ほどの続きは

T: No, no. I just repeated what you said. You did not make a mistake. Okey? So, you don’t need to repeat after me.

S: あっ、なに、そういうこと?はいはい

といった感じ。

続けてちょっとしたギャグで”Do you like beer?”と同じ学生に聞いた。

T: Do you like beer?

S: えー!笑 まだ(20歳じゃないから)飲めんし。(隣のクラスメイトに対して)なんて言ったらいいの?No drink?

S2: can’tじゃない?

T: I know, haha. You can’t drink.

S: You can’t drink.

T: No, no. For me(自分を指して), YOU(学生を指差して) are you, but for you, you are I, so you say “I can’t drink”

S: あー,I can’t drink.

この場面では,「なんて言ったらいいのか」という状態の学生に対して、私は意味のやりとりを続けながらcan’tの使い方(can’t drink)を提示した。私から見れば話し相手の学生は二人称なのでYouとなり,”You can’t drink”と発話したわけだ。それを学生は「”You can’t drink”といえば良い」と勘違いしてしまい,そのままリピートアフターミーしてしまったわけだ。

私がここで、”You should say, ‘ I can’t drink'”と言っていたらよかったのかもしれない。それをそのまま繰り返せば良いからだ。しかしこれではいつまで経っても教師の言ったことをそのままなにも考えずに繰り返すことにしかならない。私の発話が単純な意味交渉の機能を持つことはいつまでも学生に伝わらないし,そうでなければ私の発話の意図や意味内容を理解しようとはしないだろう。

彼らにとって,教師の発話する英語の意味を理解して会話しよう(仮に返答が日本語であっても)という経験が圧倒的に足りないのだ。

私の昨年度までの経験では(あくまで経験)、これも慣れの要素が多分にある。英語が苦手な学習者であっても,英語で話しかけられる経験を積めば積むほど,私の発話が意味のやりとりを目的としていることを理解し(というより私の発話内容により注意を向けるようになり),リキャストのようなフィードバックを出してもおうむ返しをしたりはしなくなったと思う。例えば,過去の出来事に対するライティング課題中のやりとりで

S: センセー私この前温泉行ったんですよー(worksheetにはI go to hot springと書いてある)

T: Oh, you WENT to a hot spring? Where?

S: あーyes, yes I went to Gifu

のような感じである(確かこんなやりとりがあったと記憶している)。教師としては涙ちょちょぎれる(死語?)ような美しきアップテイクである。

ただし,先ほどの例と違うのは,この例の学生はそもそも最初から私と意味のやりとりをしようとしている点である。

どうしても机間巡視している最中は,意味交渉とモデルの提示が入り混じることになってしまうので,混乱を招きやすいのかもしれない。しかしだからといって,ブレイクダウンが発生した瞬間に日本語に切り替えるようなことはしたくない。諦めは大事だが、意味交渉とはブレイクダウンが起こった時にこそ発生するものであるし,私の試行錯誤で彼らにとってのcomprehensible inputを提供できるか否かが決まるわけなので,プロとしてその技を常に磨きたい。

さてあと残り12回しかない授業がどうなるか。毎週火曜はネムレナイ
なにをゆう  たむらゆう。

おしまい。

机のない教室

非常勤の勤務先が新しくなり、今日が初めての授業だった。学生に色々動いてもらうことが多いので、机のない椅子だけの教室を使わせてもらうことになった。机と椅子が一体型で、さらにキャスター移動できるもの。人数も20人くらいでとてもやりやすいのだが、机のない教室で授業をやった感想などを書いておこうと思う。

講義用で3・4人が一緒に座る固定式の机のだと、ペアやグループで学生を動かすのが難しいというのはよく聞く話。固定式の長机はとくに英語の授業のように、時にワイワイやる授業向きではない。小中高のように、1人に1つ机と椅子がある教室だとそれは回避できる。昨年度まではそういう教室で授業をやっていたし、特に不満はなかった。

机が椅子にくっついているものは、机のスペースが狭く、それはそれで嫌いという人も結構いるかと思う。私が授業をやった教室にあったものは通常の木版の机と比べると8割程度の机の面積といったところだろうか。そこまで書くスペースが狭くて作業しづらいということもなさそうな感じだった。

教師の視点で、1番やりやすいなと感じたのは、机間巡視のしやすさ。もちろん教室の広さと机の数の問題ではあるのだが、それぞれの学生の周りをスイスイと移動できて楽だった。3コマ目となると自分も疲れてくる。そんな時には余った椅子に座ったままで机間巡視したりもできるという素晴らしさだ。若いヤツが何言っとると言われるかもしれないが。しかし、座ったままの移動はもうひとつ良いところがある。それは、学生と常に同じ目線で話ができることだ。立っていると、少し腰を折ったり中腰になっても、座った学生と同じ目線の高さで喋るにはスクワット状態になる必要があるのできつい。そしてしゃがむと立つのがつらい。私は椎間板ヘルニア持ちで、20代前半でベッドから起き上がることすらできないほど悪化して入院した経験が2度もあるので腰も労わりたい(言い訳)。座りながらスイスイ移動する机間巡視オススメです。

また、教科書をまだ買っていない学生などがいて移動してもらう場合にも、立ったりせずに座ったまま、前に、横に、後ろに、さらにはナナメ移動なんかもできた。今回はなかったが、4人グループにする際も机の向きを変えたりせずに向かい合って座りつつ、目の前には机もある状態が作りやすい。さすが、グループ学習用というだけはある。行列をまたいだ移動も、周りが少しずれれば簡単にできる。早く終わった学生に、まだ終わっていない学生をヘルプしてもらうときなども、スイスイと移動してもらえる。

今のところ、私としてはとても授業がやりやすかったという感想しかない。学生がどう思ったかはわからないが。

私は基本的に前で話す時間を極力短くしたいし、できればサポートが必要な子の近くで気にかけつつ話したい。もちろん、全体を見るには前にいる方がいいのだが、前にいて気づいてそこに行くよりもグルグル回っていた方が気づけることが多いというのが個人的な経験則(未熟者の証し?)。

ただし、今年度は教科書付属のCDを使う必要があるので(使わなくても自分がやればいいのだが)、どうしてもその操作で前に行かなくてはならない時間ができてしまった。しかし、そういう聞き取りやディクテーションの時こそ学生を近くで見ていたいのだ。教室にある音響設備ではそれができない。そこで、中学で教えていた時に重宝していたBluetoothのスピーカー(今は部屋でたまに音楽を聴くときに使っている)を教室に持ち込もうかと思案中(運ぶのがしんどいが)。スライドをめくるのはプレゼンマウスがあればよいし、音源をiPhoneに入れればもう私は自由の身である。

ということで、もはや自分の定番になりつつある英語しか話せないフリをして1時間弱授業をやった。私自身の自己紹介をインプットタスク風にやったあと、それを真似していくつかの質問に答えながら自分の自己紹介を書いてもらうというもの。

最初は「まじかよ」「うーわ」みたいな反応があるが、最終的にはみんな一生懸命にやってくれたのでこちらも助かった。「ネタバラシ」をしたときの学生の様々な反応はどのクラスでも面白い。目をキョトンとさせたり、やられたぁ〜という表情を見せたり。

今年はインプットだけでなくいかにインタラクションできるかを目標にやっていこうと思っているし、いつも以上にゆっくり、意識的にパラフレーズをふんだんに使って話すことを心がけてやっていく予定。またどこかで実践報告できればと思います。
なにをゆう   たむらゆう。

おしまい。