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博士にまでなったのに、なぜ報われないのか

3人とも理系の人たちだからかもしれないけど,なんか自分と同じような境遇にはあまり思えなかった。にもかかわらず自分の方がたいぶのらりくらりやっていて,その上に技術も専門性もない。なんというかもっと頑張ります…

 


 

博士になっても努力が報われない「ポスドク問題」。当事者3人の姿から、その解決法を探る。

情報源: 博士にまでなったのに、なぜ報われないのか | 学校・受験 | 東洋経済オンライン

「選ぶ力」とタスク

なぜ学校へ行くのか」という本を読んだ。途中までずっと積読状態になっていたのだけれど,ふと最近また本を読んでないなと思って再開した。第3章あたりから,人間の本質的な能力であり,人間らしさの根源である選択能力,選ぶ力,という話が出てくる。人間は生まれてからずっと様々な選択を繰り返していく生き物であり,選択することができるというのが人間であることであるというような事が述べられている。しかしながら,学校ではこの選ぶ力を育てることができていないのが現状ではないかというのが著者の主張である。

この主張を自分の興味関心や研究に引きつけて考えたときに,タスクのことが思い浮かんだ。別にタスクである必要はないのだけれど,新しい言語項目を教える->練習する->使う,というような手順の指導のことを考えたのだ。いわゆるPPP(Presentation-Pracice-Production)というやつ。そう,この指導過程の中には,学習者が何かを「選ぶ」という過程が全く無いではないかと考えたのだ。いや,まったくないとも言い切れないかもしれない。例えば,いわゆるfill-in-the-blank exerciseのような課題を練習セクションで行ったとすると,そのカッコに何が入るのかを「選ぶ」という作業は確かに発生するからだ。ただし,実際に言語を使う際に,あるカッコに何が入るかを「選ぶ」という作業の必要性が発生する場面があるだろうか。昨年中部地区英語教育学会にて発表した中学校教科書分のタスク性分析研究(たぶんそろそろ投稿する)のときにも散々主張したことであるのだが,「何を言うのか」を考えて,それを「どのような言語形式で表現するのか」という過程を体験することは,中学校教科書に掲載されているコミュニケーション活動を行っただけではほとんどできないと言っていい。

しかしながら,この過程を体験する事こそがまさに「選ぶ力」につながるのではないだろうか。「どのような言語形式で表現するのか」を「選ぶ」というのが,産出の際には非常に重要になってくる。そこを考える,何を選択すべきなのかに思いを巡らせることがほとんどないということの背景には様々なものがあろうだろう。著者は,テストの点数で能力を測定しそれによって序列化することを問題点として挙げ,その影響で,とにかく問題の答えを知りたがる子どもができあがっている,問題から答えに至るまでの過程をすっ飛ばして答えを暗記することを暗に助長してしまっていると述べている。

英語の授業(テスト)を考えみると,正確さの重視というものが,問題の答えだけを知りたがるという状況を作り出してしまっているのかもしれない。とにかく誤りがあれば減点されるわけなので,誤りのない表現が欲しい。なので,「なぜその言語形式なのか」はすっ飛ばしても,この表現なら間違いがないというものを持っていれば安全なのだ。

タスクを遂行することを考えてみる。タスクは文法的な正確さで評価をされず,タスクが達成されたかどうかが評価の基準となる。「正しい」か否かで評価されることがなければ,とにかく自分の伝えようとしていることが相手に伝わるかどうかという点だけに学習者は集中する事ができる。そういう状況では,自分が伝えようとしていることをどのような言語形式で表現したらいいのかを考えて選択し,まず頭に思い浮かんだ表現で伝えてみるだろう。もしその表現で伝わらなかったという場合には,ではどのような別の表現を使えば相手に伝わるのだろうかとさらに考えて選択を行う必要が生じるはずだ。

いくら練習に練習を重ねても,「何を言うべきか」と「どう伝えるべきか」という2つの選択をする機会が保障されなければ,その日に習った表現をその日に使うことはもしかするとできるようになるかもしれないが,どのような表現を使うべきかの選択が迫られるコミュニケーション(実際に起こるコミュニケーションではこれが当たり前のはず)場面では何も言えずに終わってしまうだろう。

タスクの話をすると教えることを軽視しているというような批判をよく受けるが,教えるなとは言っていない。教えてもいいから,教えたことを使うということに終始せずに,とにかく「選択する力」を養うことができる機会をもっともっと増やしませんかと言っているだけなのである。学習者が選択できるほどの言語材料を持っていなければ選択すらできないというならば,なぜ中学校教科書では学年があがるにつれてコミュニケーション活動そもののの割合すら減っていってしまうのか(先述の研究の結果明らかになったこと)。学年があがるにつれて選択できる材料は増えていくはずなのだから,学年があがるにつれて選択の機会を増やしていくべきなのではないのか。高校に行ったらその機会ももっともっと増えていくはずなのではないのか。実際に行われている指導はそのようになっているだろうか。そう考えると,選ぶほどの材料がないから,というのは批判の理由にならない。教えないとできないと勝手に思っているから批判するのであって,さらにその「できる」も「(正確に文法的な誤りを犯すことなくかつ流暢に)できる」ことを意味しているからこそ選択させる前に教えたがるのだろう。

繰り返しになるが,先に教えることそれ自体が選択する機会を奪う可能性をはらんでいる。特に(学校的な意味で)真面目な学習者ほど,教わったことを使うことが求められていると思ってしまいがちな気もするからである(ただの推測)。

何が言いたいのかよくわからなくなってしまったが,とにかく,英語の授業の中で,「どうやって言うか」という言語形式を「選ぶ」機会がどれだけあるか,ちょっと振り返ってみませんかね?ということ。実はこの記事は約2週間前に書いていたものなのだが,ここ最近anfieldroad先生(もしかして徳島以来お会いしてないかも…)がブログ記事で書いていらっしゃる「お皿」と「お肉」の喩えともリンクするところがあるように思う。anf先生は,「何を言うか」はとりあえず与えてしまってもいいから,「どうやって言うか」にあたる「お皿」選びをできるようにさせたいというお話。タスクはこの辺は結構融通がきいて,シンプルな情報交換タスク(e.g., 間違い探し)なら伝えるべき情報はそこにあるという状態だが,意思決定タスク(e.g., 無人島タスク)になれば,まず「無人島に何を持っていくか」を考える必要があるし,「なぜそれを持っていくのか」を考える必要も出てくる。さらにはタスク中にはグループのメンバーの話を聞き,「どうやって説得して自分の意見を主張するか」も考える必要がある。事前のプランニングタイムを与えるにせよ,お皿に盛り付ける料理とそれを盛るお皿(もしかしたらお椀や丼ぶりかもしれないが)を両方考える必要が出てくるというわけだ。

冒頭で紹介した本はもっともっと教育の根本的な問題についての話であり,「選ぶ力」というものが意味するところももっと幅も広いし奥も深い。しかしながら,英語の授業に限定して考えた場合,「適切に」「正確に」言語を使用するために何かを選ぶ作業は結局著者の批判するテストの答えを覚えることに等しいのではないかと思う。そうではなくて,伝えようとすることを伝えるために何かを選ぼうとし,そこで,迷い,悩む,という経験自体は,著者のいう「選ぶ力」に通じるものがあると私は思っている。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

 

英語で授業ができないのは学習者がアルファベットを書けないからか

ツイッターである記事に対する反応を見つけて,それに対していくつかつぶやいたのですが,いまいち伝えきれてないような気がして(というか自分の中で整理しきれていないような気がして)ちょっとブログに書いておきます。

もとの記事はこれです。

英検準1級以上 公立高校教員は5割余 NHKニュース

この記事に対するコメントはツイッターでもちらほらありまして,例えばツイッターで記事のリンクを検索したり,NHKニュースのアカウントがした当該記事のツイートへのメンションをみてみるとかするとまぁいろんな考えの人がいるんだなぁ(粉蜜柑

という感想です。

Anyway.

この記事に対して,

という反応を見かけました。端的にいうと,これってあまりいいロジックじゃないよなというのがこの記事の主旨です。リンク先のNHKの記事は,「英語教員で英検準1級以上を取得している割合が5割くらい」ということと,「英語で授業をしている割合が低い(都道府県でばらつきがかなりあるけど)」ということを書いています。上記のツイートをした人が批判しているのは,

  • 英検などの資格試験で比較的高いとされるレベルに達している教員の割合が半数程度であることと,英語で授業を行っている教員の割合も低いということを並べることで,教員の英語力が低いから英語で授業をやっていないのだという因果関係を暗示する形になっており,「印象操作」である

ということなのだと私は解釈しました。そこからもう少し踏み込むと,「資格試験取りに行く暇もないし英検もってないからって英語力ないとは限らない」ということなのかもしれません。これは私の憶測に過ぎませんが。ここで,「印象操作である」ということに対するカウンターエビデンス(といっていいのかな?)として持ちだしているのが,「生徒1人1人の事情がまるで反映されていない」という点であり,その具体例として,「アルファベットすら理解しないで高校に入学する生徒」の存在に言及しています。ここから読み取れるのは,英語で英語の授業をしていないのは,英語力の問題ではなく,「生徒1人1人の事情」を考慮してのことであるというロジックです。英語で授業を行う際に,このことは考慮すべき要因であるという意味ならわかります。学習者の習熟度によって,理解できる英語の語彙や文法のレベルが異なるので,異なる習熟度の学習者に合わせるのが難しいということなら,それは現実問題としてなくはないだろうなと思います(ただし,日本語を使えばこれが解決するのかというのはあります)。この,「異なる習熟度の学習者集団」の中の,「下限」あるいは「下位集団」の例として,「アルファベットすら理解しない」という具体的を提示しているのだとしたら,それは難しいだろうなぁとなります。アルファベットを教える段階にある学習者と,中学卒業レベルの英語を学習している学習者では,そもそも一斉授業を行うのが困難であることは容易に想像ができるからです。これは,英語を使うか日本語を使うかという指導に用いる言語を調整することでどうにかなるということではないので,クラスを習熟度別に分けるなりといった別次元の方法で解決されるべきでしょう。

ただし,もしも,万が一,仮に,「アルファベットすら理解しないで高校に入学する生徒に対して、どうやって英語だけの授業が成立するのか。」という文を文字通りに解釈すれば,「アルファベットすら理解しない学習者に対しては,英語だけの授業が不可能である」と読めないこともありません。もしも,この解釈が正しいとすれば,さきほどのツイートが意味するのは,

  • 英語で授業をする教員の割合が低いことや,また授業時間に対する英語使用の割合が低いことの原因は,学習者の熟達度が低いからである

ということになりはしないでしょうか。もしそうだとすると,これって本当なんでしょうか?と疑問を抱かずにはいられないのです。

この問題を考えるにあたって,まずは「アルファベットを理解しない」というのがどういった状態であるのかを確認し,その状態の学習者に何を教えるべきで,どんな指導目標をたてるべきかを考えてみたいと思います。その上で,その指導目標を達成するためにはどのような手段が考えられるのかを考えてみます。ではまず,「アルファベットを理解しない」というのはどういった状態なのでしょうか。これはおそらく,

  • 「A, B, C…Z(a, b, c…z)」で表される記号が,「エー,ビー,スィー」(カタカナでお許し下さい)という音を持っていることが理解できていない,すなわち文字と音が一致していない

という状態であると考えられます。ただし,これも「受容と産出」の両面から考えるべきです。「A, B, C…Z(a, b, c…z)」という文字入力を見て,それを「エー,ビー,スィー」と発音できることと,「エー,ビー,スィー」という音声入力を聞いて,それに対して「A, B, C…Z(a, b, c…z)」という文字記号を割り当てることは別だからです。さらに言えば,音声入力を聞いて,さらにそれを文字として書くことも別です。そういったことをすべて含んで「アルファベットを理解しない」という学習者がいるとここでは仮定しましょう。そして,そういった状態の学習者であれば,まずはアルファベットがわからなければ,と考えたとします(注1)。つまり,

  1. 音声入力を聞いて文字記号を割り当てることができること
  2. 文字入力を見て発音できること
  3. 音声入力を聞いて割り当てられた文字記号を書くことができること

という3つを目標とした指導を考えることにします。では,次にこの3つを学習者ができるようになるためにはどのような指導をすればよいのかを考えてみましょう。せっかく3つに分けたのですから,それぞれの目標を達成するためのアプローチを考えます。ここでカギとなるのが,先ほど触れた「受容と産出」という観点です。普通,言語習得のプロセスは受容→産出という順序をたどります。もちろんこれは本来,「形式で表される意味を理解すること」というのが受容です。つまり,まずは理解が先でしょうということ。これが言語を習得するにはとにかく大量に必要であるというのが,「インプットが大事!」という言説(input仮説とかいわれるもの)の根本原理です(注2)。ここでは指導するのがアルファベットですので,アルファベット自体が何か意味内容を表すということはありません。したがって,ここでの「受容」とは,1番の「音声入力を聞いて文字記号を割り当てることができること」となります(注3)。まずはここからいってみましょう。パッと思いつくのは,AからZまでの文字を提示しながら発音してモデルを示すのを繰り返すというもの。別にここでリピートさせたりしてもいいんですが,例えばリピートさせるとすると,それは上記2番の「文字入力を見て発音できること」につながる練習だと言えます。カルタ取りみたいな感じで,教師が発音したアルファベットのカードをグループで取り合うような活動も,「音声入力を聞いて文字記号を割り当てることができる」からこそ可能なゲームです。これの準備段階で,机の上にランダムに置いたアルファベットのカードを教師が発話したアルファベットの順に取って並べるというような活動も考えられますね(注4)。

次に,「文字入力を見て発音できること」を考えましょう。これは,アルファベットを見て,それを発音することですよね。つまり,文字に対応する音は聞けばわかるという状態にあってこそできることといえます。つまり1番ができることが前提になりそうです。1番の活動を通して,何度も音声入力を聞いていますので,文字を見て発音することの難易度は下がっていることが予想されます。ここでモデルを示して,練習したりすることがすぐに思いつきます。その後,教師がランダムに提示するアルファベットを発音させる,あるいは,ペアでランダムに10枚ずつアルファベットを選んで,1枚交互に提示し,お互いに発音できる枚数を競い合う,というような活動も考えられます。

最後は,「音声入力を聞いて割り当てられた文字記号を書くことができること」ですね。これは,聞いた英語を書くことなので,要するにdictationのような活動がアルファベット単位でできるかということになります。これも教師が読み上げたアルファベットを書き取らせたり,それをペアでやらせてみたりという活動が考えられます。ここまでやってきたことをつなげれば,文字を音にし,音を文字にする,という流れになりますので,flip writingのように表に書いてあるアルファベットを,裏面に声にだしながら書き写すという活動は文字→音→文字という結びつきを作るのに良い練習になるかもしれません。

さて,ここまで,「アルファベットを理解しない」というのはどのような状態なのかを定義し,そうした状態にある学習者が,「アルファベットを理解しない」という状態ではなくなるような指導,つまり,「アルファベットを理解する」状態になるような指導を,「受容と産出」の観点からいくつか考えてみました。ここで,最初の疑問点に戻ってみましょう。要するに,私が言いたいのは,ここまで考えてきた活動って,絶対に英語ではできないのでしょうか?ということです。日本語でなければできないのでしょうか?ともいえます。上記で私の考えたような活動は,外国語活動や,中学1年の入門期の指導として実践していらっしゃる先生も多いのではないでしょうか。そして,英語でこれらの活動をやっている先生もいらっしゃるように思います。

というと,「こんな小学生や中1がやるような活動を高校生がやるわけないだろう」と反論される方もいらっしゃるのかもしれません。確かにそのとおりだと思います。本当にそのとおりだと思います。ただし,そうすると,その問題点というのは,「アルファベットすら理解しない学習者に対しては,英語だけの授業が不可能である」のではなく,「指導する内容またはその方法と学習者の認知レベルの間にギャップが有ること」ですよね。つまり,学習者の習熟度が低い場合には英語で授業することが不可能であるというわけではありませんよね?ということなんです。学習者の習熟度が低くとも,それに合わせた「英語で行う英語の授業」が考えられないかというとそういうことではないと。アルファベットを教えるのだって英語でできないことはないように私は思います。少なくとも,「アルファベットを理解しない」学習者の存在が,英語で授業を行えないことの理由になる,あるいはそういった学習者の存在を理由にするというのは筋が悪いでしょうas discussed above.

問題はもっと別のところにあるというのなら異論はありません。そもそも英語で授業を行うことを考えるほうが,色々なスキャフォールディングを用意しなくてはいけないという点では準備に時間がかかると思います。よって,そのような時間がない,授業準備の時間もとれない,というような状況にある先生方にとっては,英語での授業は難しいというのは十分に理解できます。誤解していただきたくないのは,「英語で授業をできるのに英語で授業をしないなんて怠慢だ!英語でどうやって授業やるか考えろ!」と言っているのでないということです。また,「英語で授業ができない教員なんて!もっと英語で授業やれ!」と言っているわけでもありません。ただ単に,「英語で授業を行えない」ことの理由として,「学習者の習熟度の低さ」,具体的には「アルファベットを理解しないこと」を持ち出すのはあまりいいロジックじゃないですよということです。学習者の習熟度が問題で英語で授業を行えないということは,習熟度の高い学習者に対しては英語で授業をできるということも同時に意味しますしね。そうすると,「では,英語のできる学習者の多い進学校なら英語で授業ができますか?」とか,「アルファベットが理解できる学習者相手であれば英語で授業ができますか?」と聞きたくなってしまいます。きっと,受験なり同僚問題なり学習者からの要望なり,また別の,英語で授業ができない理由を列挙されるのでしょう。そうなんです。「学習者の習熟度が低いこと」は関係がありません。最初から,もっと別の,環境とか構造の要因を理由として挙げるのなら,納得せざるを得ないこともあります。しかしながら,アルファベットができない学習者であるから英語で授業は無理だと読めるような発言には納得できなかったのです。もしそうでないのだとしたら私の誤読ですので申し訳ありません。

私は,指導言語を始めとする指導法や教授法をトップダウンで決めることに賛成はしません。それこそ様々な要因の複雑な交互作用の中で指導法は選択されるべきですし,画一的にこれで全部万々歳ということはないでしょう。そんなに簡単じゃない。ただし,特に日本語でやる積極的な理由がないときは英語でやりませんか,ということは言いたいです。全部英語でなんてことではなく,状況に応じて日本語と英語をうまく切り替える必要はあるでしょうし,内容によっては日本語メインでいい時もあるはずです。そんななかでも,「少しでも受容と産出の両方を通じて学習者が英語を使う」機会を増やす工夫をしませんか?と。もっとも,私のような若輩者がこんなこと言っても誰にも聞いてもらえませんので,どうか偉い先生方にはこういうことを言い続けていただきたいなぁと思っております(チラッチラッ

というわけで,長文駄文失礼しました。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

注1: 別にこれができなくても,「キャット」という音が「猫」という意味に結びついているというように,音とそれが表す意味が一致している状態であれば英語の授業はできると思います。例えば小学校外国語活動ではアルファベットが書けない状態でも授業やっていますよね。アルファベットが理解できることは非常に重要ですが,言語習得とは究極的には「形式と意味のマッピング(form-meaning mapping)」であることも,授業を考える上では重要だと思います。

注2: インプットを与えるだけじゃダメだ!インテイクなんだ!というのがその後言われるようになりましたが,なにがインテイクなのかというのを操作的に定義するのは実は結構難しく,インテイクという言葉はあまり評判がよくありません。

注3: 実は,「文字と文字を一致させること」も受容的な処理だといえます。例えば,アルファベットの神経衰弱ゲームなどを考えます。「AとA」のように同じアルファベットを引いたらそのカードをとれるというように。これは,音と文字を一致させるよりも難易度が低いでしょう。もう少し難易度をあげるなら,「Aとa」のように大文字と小文字が一致するような神経衰弱ゲームです。

注4: これを発展させて,並べてできるのが単語になっていてそれを正しく発音できたら(あるいは意味がわかったら)1ポイントというようなゲームも可能かもしれません。例えば,c, a, rという順番でアルファベットを教師が読み上げ,それを並べてできるcarという単語が「カー」と発音できたり,「車」という意味だとわかったりすることができるか,というように。順番通りではなくランダムなものを並び替えればよいというゲームにする(例: a, t, cをcatにする)ようにすれば,難易度があがりそうです。

教室で一斉に同じことをやらせる意味は何なのか

今日ちょっと色々考えたので忘れないうちにメモしておこうと思います。あらかじめ申し上げておきますと,以下,問いに対する答えはありません。

北米留学時代,社会言語学の授業を取っていた頃に教育とはどういうことなのか,ということや,言語教育を含む教育のもつ暴力性みたいなものを考えたことがありました。

当時はこんなことを書いています。

【授業】教育について考えた

今日引っかかったのは,「教室で一斉に同じことをやらせる意味は何なのか」という問いでした。

もっともだとも思います。本来,人の興味関心や学習の進度などなどはそれこそ十人十色であるわけなので,その中で「全員に一斉に同じことに取り組ませる意味」があるのかどうかということです。もしあるのだとしたらそれはなんなのかということになります。これは実は教室内のほぼすべての活動に当てはまるわけです。言語教育で考えてみると,全員で一斉に音読するにしろ,ペアワークをやるにしろ,グループワークをするにしろ,個別の多読活動に取り組むにしろ,どんなことをやるにしても,「教室の中で,(それぞれのペースやそれぞれのやり方でであったとしても)同じ◯◯をするのはどうしてか」ということ。すごく意地の悪い言い方をすると,「それって結局全部教員側の都合じゃないか」と言い換えられなくもないかもしれません。

教育といっても,学校教育かどうかは大きな違いであるでしょう。また,例えば言語教育でもどのような文脈で行われる言語教育なのかでこの問いのもつ意味も変わってくるでしょう。

教育を,「生徒・学生のためのものである」と考えると,「教員の都合(意見・ビリーフとも言い換えられるかもしれません)」が優先されるべきではなく,「生徒・学生が何を学びたいのか」ということ,こそ重要視されるべきだということになるでしょうか。そのとおりでしょうね。ただし,学校教育においては,「学習指導要領」というもので学ぶ内容に関しての規定があるわけですし,また小中高生が「何を学びたいのか」はあるにしても,「学びたいと思うことや興味が有ることしか教えなくていいのか,教えてはいけないのか」という意見や,「何が自分の人生に必要なのか」を主体的に取捨選択できる能力があるのか,という意見もあるでしょう。大学における教育でも同じような議論は当てはまるのではないでしょうか。自分の学部時代を振り返ってみても「あれを勉強しておけばよかった」と思うことは山ほどあります。そう今思うということは,当時は重要だと思っていなかったからろくすっぽ勉強しなかったか,あるいはそれがこの先重要になると考えもしなかったということでしょう。「そもそもその『あれ』を知りもしなかった」という可能性もあるかもしれません。

さて,ここで,ニーズ分析(needs analysis)についてです。これは,言語教育の分野では最近だと特にTask-based Language Teaching(TBLT),English for Specific Purposes (ESP)との兼ね合いで聞かれることが多い用語かもしれません。あるいは,curriculum developmentやevaluation and assessmentの文脈でも使われると思います。TBLTにしてもcurriculum developmentやevaluation and assessmentでも,大事なことは「目標を設定する」ということです。どんな目標を設定すればよいのか,というときに,学習者のニーズに基づいた目標を設定するべきであり,それに基づいたシラバスデザインなりカリキュラムなりを作り,そしてその目標の達成度合いを評価することが重要であるという考えです。学習者の目線から教育内容を考えるというのは,先ほどの「生徒・学生が何を学びたいか」ということを考えているということができると思います。

学習者のニーズは,それが今必要であるという意味のニーズか,あるいは未来に必要になるという意味でのニーズかで違ってきます。例えば,私がアメリカにいた時に実習で教えていた移民の人達にとって必要なのは,彼らが今まさに生きていくために必要となる様々な場面での言語使用(買い物であったり職探しであったり)でした。当然そのニーズにあった言語教育が提供されていました。目標言語環境における言語教育では,そういった現在のニーズが重要視されることが多いでしょう。対照的に,例えば日本の外国語教育を考えてみると,現在のニーズというのはない場合が多いでしょう。あったとしても,それが入試突破や資格試験のスコアアップという意味でのニーズという場合がほとんどなのが現状なのではないでしょうか。むしろ,「実際に言語が使用できるようになる」ということを目標にした場合,大学の一般教養科目としての外国語教育,中でも英語教育では,学生が卒業後に必要となるであろう(あるいはかもしれない)ニーズに合わせたカリキュラムを組むことになると思います。そうなると,教員ができるのは,教える学生層の進路状況からニーズを逆算したり,あるいは学習者に直接聞いたりということになるでしょう。「卒業後の進路が明確に決まっている学生」が多ければ後者の方法も有効かもしれません。しかし,そうでない場合や,ニーズのばらつきが大きすぎる場合には,別の方法で的を絞ることになります。そこで,例えば題材自体はある学習者のニーズにフィットしていなくとも,そこで行われる活動で用いられる言語や,活動中に発生するインタラクションが実際の言語使用場面においても応用可能であるようなタスクを用いたりします。

と,こうやって「学習者のニーズ分析」から始まってタスクに落としこむところまでいったとろこで,一番最初の疑問にぶち当たっていることに気づかされます。つまり,「なぜ,全員のニーズの共通項や,最小公倍数をとって授業を組み立てようとするのか,それは結局全員に同じことをさせようとしている発想から抜け出せていないではないか」ということです。

こちら(教員側)であの手この手をつかって色々考えてやってるつもりが,実はそれって押し付けなんじゃないのか,と考えさせられてしまうのです。そう考えると,教育っていうのはそもそもが押しつけというか,暴力性を帯びた行為であるということになるのかもしれません。教員と学生のパワーバランスの話も関わってくるでしょう。今のところ僕の中で答えや解決策は見つかっていません。ただ,授業をする,何かを教えるということの難しさを考え,自分の今の実践や過去の実践を振り返り,またこれからの授業がどうあるべきかについて思いを馳せた。そんな日でした。

MBAの充電残り3%で充電器は研究室。そろそろ寝ます。