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理論に暗示的知識が内包されたときのジレンマ

以前,教育効果を測定する目的で明示的知識と暗示的知識を測定し分けることの是非についてのエントリーを書きました。

https://tam07pb915.wordpress.com/2016/08/25/implicit-explicit-instruction/

そのときの結論は,「教育効果を測定するのに明示・暗示の話は持ち込まなくていいだろう」というものでした。ただ,理論のスコープが暗示的知識を含むととき,そうも簡単にいかない問題がそこにはあるなと最近(といっても書こうと思ってずっと書けてなかったので少し前)思ったので,その話を書きます。きっかけは以下の論文。

Zhang, X., & Lantolf, J. P. (2015). Natural or Artificial: Is the Route of L2 Development Teachable? Language Learning, 65, 152–180. doi:10.1111/lang.12094

ここで取り上げる理論とはいわゆる処理可能性理論(Processability Theory)です。これが理論足りうるかどうかはとりあえず置いてきます。処理可能性理論とは何かということは上記の論文を読んでいただくか,あるいは同じ号に提唱者のPienemannが書いた論文が載っていますのでそちらをお読み下さい。ざっくりいうと,学習者の言語発達は心理的・認知的な処理能力によって規定されていて,ある段階を飛び越えて次の段階に進んだりはしないという理論です。この理論と同じく紹介されるのが教授可能性仮説(Teachability Hypothesis)というものです(注1)。これは,教育的指導介入によって発達段階をスキップすることができず,学習者が今いる段階よりも上のレベル(正確には2レベル以上高いレベル)の言語規則を教授してもそれは習得されることはというものです。Zhang and Lantolf (2015)の論文は,この教授可能性仮説にそぐわないデータが得られたことを報告するというような趣旨の論文です。

こうした言語の発達段階や発達順序に関する研究が主たる関心としているものは,学習者の暗示的知識の発達であると考えられています。つまり,意識的な知識として知っているかどうか,明示的知識を持っているかどうか,ということではなく,暗示的な知識の発達に段階を規定するものです。例えばRod Ellisなんかは,暗示的知識の発達には発達段階による制約があるため,明示的な文法指導介入はそうした発達段階の制約を受けないと考えられる明示的知識の獲得を主たる目的とすべきであるという立場です。明示的知識は間接的に暗示的知識の習得を促す(weak-interface)というのが彼の立場なわけですから,この主張もうなずけます。

問題は,この「発達段階を教育的介入によってスキップできるかどうか」を問題にする場合,暗示的知識の測定が不可欠になってくるわけです。なぜなら,発達段階があるのは暗示的知識であって,明示的知識ではないと考えられているからです。実際,Zhang and Lantolf (2015)でも,guest editorのRod Ellisから「この研究の結果は明示的知識の発達を示しているだけで暗示的知識の発達であるとはいえないんじゃないか?」みたいなツッコミがあったそうです(p.174)。筆者たちの反論は,Pienemannたちが使っているような測定具と発達段階の決定規準(emergence criteria)を使っているのだから,もしこの研究がその点で批判されるのだとしたらそれは処理可能性理論や教授可能性仮説についても当てはまるじゃないかというような反論をしています。

で,一応Pienemann自身は同特集号の論文の中で,まず教授可能性仮説は処理可能性理論に含まれる必須の要素というわけではなく,理論というよりは実践の話で,いくつか研究でサポートされたからまぁプラクティカルにそうなんじゃねーのかみたいにしているだけで処理可能性理論はもっと緻密に作られた理論であるというようなことを言っています。つまり,教授可能性仮説は捨てても処理可能性理論は守られるっていう話なんですね。なんか強がりっぽいこと言ってますけど。でも多分なんですけど,SLA研究者のほとんどは処理可能性理論と教授可能性仮説に関連性あると思っているしむしろ理論の一部か派生かくらいには思ってるんじゃないですかね(実際僕もそう思ってました)?「みんな俺の理論を誤解している」ってそういうことなんでしょうか?百歩譲ってそうだったとしても,測定具の話は処理可能性理論にも及ぶわけなので,そこはちゃんと反論しなくてはいけませんよね。

測定具の話に関してPienemannは,elicited imitationとspontaneous productionを同一視してはいけない。elicited imitationはダメだがspontaneous proudctionは違うんだみたいなことを言っています。これって反論したようで実は全然反論できていなくて,前回も書きましたが,行動データで暗示的知識測定しようとしたらもう「産出データじゃ無理なんじゃね?」っていうのがここ最近の流れです。spontaneous productionってのが「elicited imitationとは違うものを測っている」というのならば,それが測っているものが暗示的知識かどうかも検証されないといけないですよね。でも,実際何が暗示的知識を測っているのかっていう問題の闇は深くて,そんな簡単なことではありません。

処理可能性理論のことを血眼になって研究している人ってこの問題どう考えているんですかね?もちろん,この問題は処理可能性理論についてだけではなくて,「言語発達の制約を受けるのは暗示的知識」という主張をするすべての研究者に当てはまります。この問題ってどうやったら論理的に,あるいは実証的に回避できるのか,有効なアイデアは考えてもパッと思いつきません。熟達度がそれほど高くなく,spontaneous productionで暗示的知識と弁別できないような明示的知識を使えないような学習者ならspontaneous productionでは暗示的知識を測定できるとかでしょうか?実際問題として処理可能性理論が対象にするような学習者は超高熟達度の学習者ではないわけですし。でもあまり有効な反論とはいえないですね。結局はパフォーマンス上に明示的知識の介入がないことを示さないといけないわけですから。うーむ。みなさんどう思います?

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注1. Pienemannは同じ特集号の論文で,” …theTeachability Hypothesis is not a corollary of PT.” (p. 138)と言っていて,教授可能性仮説はPTの一部ではないようなことを言っています。

PacSLRF2016発表資料

金曜日から,中央大学多摩キャンパスで行われているThe Pacific Second Language Research Forum2016に参加しています。大会最終日(9月11日日曜日)午前の口頭発表枠の最初のスロットで口頭発表があります。私がD1の時に出ていた授業のレポートでレビューした論文を批判的に検討して追試を行ったものです。追行研究として良いかどうかはわかりませんが…

その後,D2でデータを取ったのですが,そのまま寝かせたままになっていて,昨年度の冬にまた同じ先生の授業でその取ったデータを分析して発表しました。それをもとにPacSLRF2016に出してみたらどうかと勧められ,応募したら口頭発表通ったので発表する事になったというわけです。詳しくは明日使用予定の下のスライドを見ていただければと思います。

データの解釈が結構難しくて,当初予測していたよりももっと複雑な現象なのかなと思いますが,「知識の習得」を文処理で議論する際にそんなに荒削りで大きいこと言って大丈夫ですか?というのがまぁ言いたいこと(タイトル)です。

ちなみに,午後はShintani Natsuko先生がオーガナイザーのコロキアムで,第二著者としてもう1つ発表があります。そちらは静岡県立大学の福田純也先生との共同で,タスクの繰り返しに焦点を当てた小規模のケーススタディです。

そして月曜日には明治学院大学でVocab@Tokyoという別の学会で口頭発表があります…ということであと数日は踏ん張り所ということで,頑張りたいと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

明示・暗示の測定と指導法効果研究

結論からいうと,もはや指導法効果研究やそのメタ分析系の研究で測定具が明示的知識を測っているのか,あるいは,暗示的知識を測っているのかという話はしないほうが建設的ではないかという話。

Norris and Ortega (2000)やSpada and Tomita (2010)のメタ分析は,明示的指導・暗示的指導という2種類の文法指導の効果を検証したものです。そこでは,指導の効果と知識表象の関連性について議論されています。それで,「実務的な観点」とかいうと草薙さんみたいでアレなんですが,指導の効果測定として厳密な暗示的知識の測定具を用いることにどれほど妥当性があるかという問題です。狭義のSLA研究では,「暗示的知識の習得こそが言語習得」という見方なわけで,明示的知識の介入を許さない暗示的知識の測定具の開発や妥当性検証は必須です。しかしそれは,”ultimate attainment”の研究であり,母語話者と第二言語学習者の境界線を探ったり,あるいは第二言語学習者がどこまで母語話者のような言語知識を獲得することができるのかを目的としています。Suzuki and DeKeyser (2015)やVafaee et al. (2016)などの研究にも代表されるように,Ellis (2005)の因子分析による妥当性検証から10年が経っても未だに「真の暗示的知識測定具とはなにか」の問題はSLA研究の中心的課題の1つです。私が問題としたいのは,指導の効果検証にそこまで厳密な暗示的知識の測定具は必要なのかということです。Ellis (2005)が指摘しているように,実際のパフォーマンス上では明示的知識と暗示的知識の両方をフル活用して学習者は言語を使用しているのであり,Task-based Language Teaching (TBLT)的な観点での「学習者ができること」を重要視する考え方から言っても,ピュアに暗示的知識だけを測定しそれをもって指導の効果とすることにあまり意味があるようには思えません。だからといってすべては明示的知識を授けることが大事だとかPPPだとか自動化だとか言うつもりはありません。

話が一度それますが,明示的知識と暗示的知識の関係性(interface)について,練習によって明示的知識が暗示的知識に変容することをstrong interfaceの立場とし,この立場をとる代表的な研究者としてRobert DeKeyserが引用されることがよくあります。私もそう思っていたのですが,最近のDeKeyserはもはやこの立場でもなくなっています。DeKeyser (2015)では,宣言的知識が手続き的知識に変わる(turning into)という言い方は誤解されやすく,実際は宣言的知識を保有している状態で練習を重ねることにより,手続き的知識を獲得することが可能になると述べています(DeKeyser, 2015, p.103)。また,手続き的知識を獲得する段階は”procedualization”(手続き化)と呼ばれ,この段階ではまだ自動化(automatization)はされていません。手続き的知識を獲得するにはほんの数回のcontrolledな練習を重ねるだけでよく,そこから自動化させるためにはさらなる練習が必要であるとDeKeyserは述べています(DeKeyser, 2015, p.95)。つまり,宣言的知識は手続き化されて手続き的知識になり,その手続き的知識が自動化することで無意識的で流暢な技術を身につけることが可能になるというわけです。さらに,自動化は,自動化したかしていないかの0/1ではなく,連続的なものでもあります。DeKeyserの主張するSkill Acquisition Theoryを研究の基盤とする場合には,90年代のDeKeyserを引用するのではなく,このDeKeyser (2015)を引用するべきでしょう。もう一点,注意が必要なのは,DeKeyserのいう練習とは,いわゆる「パターンプラクティス」のようなものではないという点です。DeKeyser (2015)が,Skill Acquisition Theoryを援用した実証研究の例として,タスクの繰り返しの効果を扱ったDe Jong and Perfetti (2011)を引用していることからも,自動化に必要なのはcontrolledな練習ではないことがわかります。

話を明示・暗示と指導の効果に戻します。明示的知識の干渉を受けず暗示的知識のみを測定できる測定具を用いることをつきつめると,その手法自体は実際の言語パフォーマンスからはかけ離れたものになります。自己ペース読みや,ワードモニタリングタスクなど,上述のSuzuki and DeKeyser (2015)やVafaee et al. (2016)で暗示的知識の測定具として妥当だと言われているものは,もはや私たちが言語を使用する場面としては特殊すぎるでしょう。ただし,そこまでしないと明示的知識の干渉は防げません。なぜなら,特に高熟達度の学習者ほど明示的知識が介入していてもパフォーマンス上では暗示的知識のみの言語使用と区別がつかないからです。Ultimate attainment研究はそここそが研究の対象であり,一見母語話者と相違ないパフォーマンスを見せる学習者にも母語話者との差が見られる領域についてを研究しています。だからこそ,母語話者と学習者を弁別するための道具として暗示的知識の測定具が必要なのです。一方で,多くが教室環境で行われるような指導を受けた学習者が,どれほど指導によって言語能力を向上させたかをみるには,母語話者と超高熟達度の学習者を弁別するために必要な測定具が適切だとは思えません。測っている領域がまったく違うからです。暗示的知識の測定具の精度を指導法効果研究に求めれば,ほとんどの場合「知識があるとはいえない」という結果が得られることでしょう。また,自己ペース読み(視線計測でもいいです)やワードモニタリングタスクなどは,従属変数として反応時間を用い,主に正文条件と非文条件での反応時間の差が「統計的に有意であるかどうか」によって,知識の有無をカテゴリカルに判断しようというものです。この「知識の有無を0/1で判断できる」という観点が自己ペース読みの強みであるとJiang (2004)は主張しています。したがって,カテゴリカル変数よりも連続変数のほうが適切であるような,学習者の発達自体に興味がある指導法効果研究では,明示的知識が干渉していてもライティングやナラティブなスピーキングタスクで良いのではないでしょうか。もちろん,多肢選択問題や穴埋め課題,書き換え問題などでいいとは思いません。これらの測定具も,言語使用場面としては,自己ペース読みなどとは正反対の方向に特殊すぎるからです。

結果として,指導法の効果を比較した研究で明示的知識と暗示的知識の話を持ち込んで,その結果として「それは暗示的知識測れてない」とかいう批判を受けるような議論が展開されてしまうことになるわけです。それじゃあということで指導法の効果を自己ペース読みで測ったとします。そうなると今度はもともとの指導法の効果という観点からどんどん遠くなっていってしまうわけです。私自身の結論は,もう暗示的知識とか言わずにdiscrete-point testとperformance testで効果検証しました。ってことでいいのでは?ということです。

というようなことをPPPいいよ論文からSpada and Tomita (2010)を読み返して思ったのでした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

引用文献

De Jong, N., & Perfetti, C. a. (2011). Fluency training in the ESL classroom: An experimental study of fluency development and proceduralization. Language Learning, 61, 533–568. doi:10.1111/j.1467-9922.2010.00620.x

DeKeyser, R. (2015). Skill acquisition theory. In VanPatten, B., & Williams, J. (Eds). Theories in second language acquisition: An introduction (2nd ed). New York, NY:Routledge.[Kindle Edition]

Ellis, R. (2005). Measuring implicit and explicit knowledge of a second language: A psychometric study. Studies in Second Language Acquisition, 27, 141–172. doi:10.1017/S0272263105050096

Jiang, N. (2004). Morphological insensitivity in second language processing. Applied Psycholinguistics, 25, 603–634. doi:10.1017/S0142716404001298

Norris, J. M., & Ortega, L. (2000). Effectiveness of L2 Instruction: A research synthesis and quantitative meta-analysis. Language Learning, 50, 417–528. doi:10.1111/0023-8333.00136

Spada, N., & Tomita, Y. (2010). Interactions Between Type of Instruction and Type of Language Feature: A Meta-Analysis. Language Learning, 60, 263–308. doi:10.1111/j.1467-9922.2010.00562.x

Suzuki, Y., & DeKeyser, R. (2015). Comparing Elicited Imitation and Word Monitoring as Measures of Implicit Knowledge. Language Learning, 65, 860–895. doi:10.1111/lang.12138

Vafaee, P., Suzuki, Y., & Kachisnke, I. (2016). Validating grammaticality judgment tests: Evidence from two new psycholinguistic measures. Advance Online Publication. Studies in Second Language Acquisition. 1–37. doi:10.1017/S0272263115000455

3単現の-(e)sは口をついて出るくらいまで練習

馬鹿じゃないのと思った。

今,とある原稿の執筆にあたって(〆切に間に合いそうになくてやばい),中学や高校の教科書のCAN-DOリスト,評価基準,年間指導計画なんかを見ている。そこで,とある教科書の(あえて名前は出さない)年間指導計画の,指導例というカラムに次のような記述があった。

3単現の-(e)sは理屈で覚えるよりも口をついて出るくらいまで文を言い,書く練習をする

まさに,「お前は何を言っているんだ」の気分である。そんな無駄なことをさせるくらいだったらもっといくらでもやること,やれることがあるだろう。これを書いた人は,自分が3単現の-sをまったく落とさない自信があるというのだろうか。3単現の-sは,超高熟達度の学習者でも習得が困難であると言われる文法項目の典型的な代表である。そして,文法的に主語をidentifyする機能はあるが,これがなくても文の理解に支障をきたすことはほとんどないと言っていい。なぜなら,英語は語順がわかれば主語が(ほとんどの場合)わかるからである。また,有生性も動作主-被動作主の関係を表すのに重要な手がかりとなる。3単現の-sが脱落していることが,意味理解を阻害することはほとんどない。過剰使用されている場合もそうだ(実は過剰使用の方が気づきやすいらしい)。

この「文を言い,書く練習をする」というのが,単なるパターンプラクティスのような物を意味していないのだとすれば,それに意味がないとは言わない。しかし,そうであったとしても,そのような活動は3単現の-sの習得を目指して行われるべきものではないだろう。誤解を恐れずに言えば,3単現の-sの習得など目指さなくても良い。それこそ,理屈を知っていて,ライティングの時などにモニタリングして直せれば良い程度のものではないか(それでも見逃すことだって私にはあるが)。3単現の-sが落ちていることにそんなに目くじら立てる必要はどこにあるのだろうかと思う。しかも,あろうことかそのどうでもいい形態素を習ったばかりの中学校1年生に対して,そんな無駄な苦行を強いるなんて言語道断である。もし本当に三単現の-sの習得を目指したいのであれば,それ以外のところにほとんど注意を向けなくとも書いたり話したりできるような訓練をした方がよっぽど良い。そういうことに時間を割いたほうが,全体としての英語力も上がるだろうし,結果的に3単現を落とすことも少なくはなるだろう(それでも母語話者レベルにはならないと思うが)。

私は英語の第二言語話者としてそれなりに機能できる自信があるし,相手の言っていることを理解したり,自分の気持ちや考えを伝えたりすることだってそれなりにはできると思っている(ただし,英語力に自信があるわけではない。語彙とかたぶん5000語くらいしかない)。英語を中学1年から勉強し始め,北米に2年間留学した私でさえ(むしろその程度だからこそ?),3単現はたまに落とす。英語教師として,正確無比な言語使用ができないことはプロとして恥じるべきだとは思うし,実際に毎週英語で授業をしながら「ヤベッ」と思うことがある。それはプロだからである。英語を教えることでお金をもらっているからである。プロを目指してもいない,英語学習を始めたばかりの中学生に(高校生や大学生だってそうだ),「口をついて出てくるまで」きっと無意味な文を言わせるなんて,そんな指導観を持っている人には絶対に教わりたくない。もちろん,そこまでして,情熱的に,なんとかして,英語を身につけさせてやりたいという熱意は素晴らしいと思う。しかしながら,圧倒的にベクトルが間違っている。その情熱はもっと別のところに注ぐべきだ。

余談だが,実はかくいう私も3単現の-sを減点したことがないかと言えば嘘になる。先日のテストのライティング問題である。語数,内容,文法・スペリングという3観点の評価方式を私はよく採用している。昨年度までは,このような形式を取る問題は1問だけで,ほかは文法の間違いは一切評価しない問題も出していた。今年は,そういう問題を出題できる環境でもないので,3観点方式のライティング問題だけを出した。そこで,私の担当しているクラスのうちの1つで,とびっきり出来の良い学生が,3単現の-sを落としたというだけで,99点を取った。私も採点しながら,本当に心苦しい気持ちになってしまった。途中まで採点していて,「これは満点だなぁ」と思っていた矢先,最後の最後のライティング問題で彼の「誤り」を見つけた時,この採点方式を取ったことを本当に後悔した。テストの他の大問も完璧で,ライティング自体もトピックに沿ってよく書けていた。そこにきて,3単現の-sがたった一箇所落ちていただけで,私は彼が満点を取ることを阻止してしまったのだ。そして,翌週テストを返却したとき,答案をみてその学生が言い放った一言を私は一生忘れることがないだろう。

「くだらねえ」

私はなにも言えなかった。そして,自分で問題を作っておきながら,私自身も「くだらねぇ」と思ってしまったのだ。大いに反省した。そして,今度の期末試験では,文法面に関しては「意味理解を阻害するかどうか」という観点で,おおまかにレベルを4段階設定し(Foster & Wigglesworth, 2016を参考にした),意味理解を阻害しない程度の誤りが少数見られる場合は,その観点では満点とすることにした。もちろん,このレベル分けや,誤りのレベルの頻度というやり方も完璧とは言えない。まず,「なにを持って意味理解を阻害しない」と考えるのかは非常に難しい問題である(もちろんいくつの誤りがあれば「少数」とするかも問題である)。意外なことに,第二言語習得研究の知見からこの観点に関して言えることはほとんどないと言っていい。「誤りの重み付け」に焦点をあてた前述のFosterらの研究が「新しい評価法考えたったー!!」と言ってAnnual Review of Applied Linguisticsの最新号に掲載されているくらいだから,本当に研究されてこなかったのだろう。博論が終わったらこういう問題に取り組みたいとは思っているが,誰か「面白そうだな」と思う方がいらっしゃったらどんどんやっていただきたい。というかむしろ誰かやってくださいという感じだ。

かなり脱線したが,3単現の-sは本当に厄介者である。というかむしろ,「数の一致 (number agreement)」という事象自体が実はかなりの厄介者なのである。結論を言うと,文法習得を専門に研究している私から言わせてもらえば

3単現の-sをなめんなよ

である。そして,文法の正確さばかりに目くじらを立てる英語教師(含む過去の自分)は全員引退した方がみんな幸せになると思う。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

JABAET Journal No.19

届きました。

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査読委員(って言わないか)の中に知っている先生方が何人も載っていて驚きました。そして,豪華。この号から外部査読制度を取り入れたとのことで,それが大きいのでしょう。

私の修士論文の研究も載っています。

Tamura, Y. (2015). Reinvestigating consciousness-raising grammar task and noticing. JABAET Journal, 19, 19–47.[abstract]

査読のコメントはとても有益なものが多く,非常に勉強になりました。学会員しか投稿の権限はありませんが,良いジャーナルだと思います(宣伝)。ウェブ上での情報が少なく,いろんな人に認知されにくいというのはありますが,これからそのあたりも今後充実していくことを望みます。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

 

基礎研第3回年次例会発表資料

明日,2月27日に名古屋学院大学で開催される,外国語教育メディア学会中部支部外国語教育基礎研究部会第3回年次例会で発表する際に使用する投影資料をSlideShareにアップロードしました。

※slideshare上でうまくサムネイルが表示されないようですが,全画面表示にする,あるいはファイルをDLしてご覧いただく等で問題が解決すると思われます。ファイル自体は問題ないので。今までとスライドの元のデザイン同じなのになぜこの問題が発生するのかわからず若干不機嫌ではあります。

 

 

なお,当日は,結果の部分の図表や引用文献の一覧を印刷した資料を配布する予定です。内容はスライドと重複しますが,紙版の資料も閲覧・ダウンロード可能にしていますので,以下リンクよりどうぞ。

https://drive.google.com/file/d/0BzA9X1kZX185Nk5ONDJ5eUlOLVk/view?usp=sharing

ちなみに,これまで特に指定のない場合に配布資料を配ることはなかった私が配布資料を配るのはこのブログ記事の影響ではありませんw

単純に,結果の図表くらいは配ったほうが良いかもしれないというのは何回か発表を重ねるうちに思ったというのが大きいです。

ある人に,「なめたアブストラクト書きやがったな」と言われてヒィィって感じですが,どうか当日はよろしくお願いいたします。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

2016.03.28追記

slideshareでうまく表示されないようなので,speaker deckにスライドをアップしました。

「選ぶ力」とタスク

なぜ学校へ行くのか」という本を読んだ。途中までずっと積読状態になっていたのだけれど,ふと最近また本を読んでないなと思って再開した。第3章あたりから,人間の本質的な能力であり,人間らしさの根源である選択能力,選ぶ力,という話が出てくる。人間は生まれてからずっと様々な選択を繰り返していく生き物であり,選択することができるというのが人間であることであるというような事が述べられている。しかしながら,学校ではこの選ぶ力を育てることができていないのが現状ではないかというのが著者の主張である。

この主張を自分の興味関心や研究に引きつけて考えたときに,タスクのことが思い浮かんだ。別にタスクである必要はないのだけれど,新しい言語項目を教える->練習する->使う,というような手順の指導のことを考えたのだ。いわゆるPPP(Presentation-Pracice-Production)というやつ。そう,この指導過程の中には,学習者が何かを「選ぶ」という過程が全く無いではないかと考えたのだ。いや,まったくないとも言い切れないかもしれない。例えば,いわゆるfill-in-the-blank exerciseのような課題を練習セクションで行ったとすると,そのカッコに何が入るのかを「選ぶ」という作業は確かに発生するからだ。ただし,実際に言語を使う際に,あるカッコに何が入るかを「選ぶ」という作業の必要性が発生する場面があるだろうか。昨年中部地区英語教育学会にて発表した中学校教科書分のタスク性分析研究(たぶんそろそろ投稿する)のときにも散々主張したことであるのだが,「何を言うのか」を考えて,それを「どのような言語形式で表現するのか」という過程を体験することは,中学校教科書に掲載されているコミュニケーション活動を行っただけではほとんどできないと言っていい。

しかしながら,この過程を体験する事こそがまさに「選ぶ力」につながるのではないだろうか。「どのような言語形式で表現するのか」を「選ぶ」というのが,産出の際には非常に重要になってくる。そこを考える,何を選択すべきなのかに思いを巡らせることがほとんどないということの背景には様々なものがあろうだろう。著者は,テストの点数で能力を測定しそれによって序列化することを問題点として挙げ,その影響で,とにかく問題の答えを知りたがる子どもができあがっている,問題から答えに至るまでの過程をすっ飛ばして答えを暗記することを暗に助長してしまっていると述べている。

英語の授業(テスト)を考えみると,正確さの重視というものが,問題の答えだけを知りたがるという状況を作り出してしまっているのかもしれない。とにかく誤りがあれば減点されるわけなので,誤りのない表現が欲しい。なので,「なぜその言語形式なのか」はすっ飛ばしても,この表現なら間違いがないというものを持っていれば安全なのだ。

タスクを遂行することを考えてみる。タスクは文法的な正確さで評価をされず,タスクが達成されたかどうかが評価の基準となる。「正しい」か否かで評価されることがなければ,とにかく自分の伝えようとしていることが相手に伝わるかどうかという点だけに学習者は集中する事ができる。そういう状況では,自分が伝えようとしていることをどのような言語形式で表現したらいいのかを考えて選択し,まず頭に思い浮かんだ表現で伝えてみるだろう。もしその表現で伝わらなかったという場合には,ではどのような別の表現を使えば相手に伝わるのだろうかとさらに考えて選択を行う必要が生じるはずだ。

いくら練習に練習を重ねても,「何を言うべきか」と「どう伝えるべきか」という2つの選択をする機会が保障されなければ,その日に習った表現をその日に使うことはもしかするとできるようになるかもしれないが,どのような表現を使うべきかの選択が迫られるコミュニケーション(実際に起こるコミュニケーションではこれが当たり前のはず)場面では何も言えずに終わってしまうだろう。

タスクの話をすると教えることを軽視しているというような批判をよく受けるが,教えるなとは言っていない。教えてもいいから,教えたことを使うということに終始せずに,とにかく「選択する力」を養うことができる機会をもっともっと増やしませんかと言っているだけなのである。学習者が選択できるほどの言語材料を持っていなければ選択すらできないというならば,なぜ中学校教科書では学年があがるにつれてコミュニケーション活動そもののの割合すら減っていってしまうのか(先述の研究の結果明らかになったこと)。学年があがるにつれて選択できる材料は増えていくはずなのだから,学年があがるにつれて選択の機会を増やしていくべきなのではないのか。高校に行ったらその機会ももっともっと増えていくはずなのではないのか。実際に行われている指導はそのようになっているだろうか。そう考えると,選ぶほどの材料がないから,というのは批判の理由にならない。教えないとできないと勝手に思っているから批判するのであって,さらにその「できる」も「(正確に文法的な誤りを犯すことなくかつ流暢に)できる」ことを意味しているからこそ選択させる前に教えたがるのだろう。

繰り返しになるが,先に教えることそれ自体が選択する機会を奪う可能性をはらんでいる。特に(学校的な意味で)真面目な学習者ほど,教わったことを使うことが求められていると思ってしまいがちな気もするからである(ただの推測)。

何が言いたいのかよくわからなくなってしまったが,とにかく,英語の授業の中で,「どうやって言うか」という言語形式を「選ぶ」機会がどれだけあるか,ちょっと振り返ってみませんかね?ということ。実はこの記事は約2週間前に書いていたものなのだが,ここ最近anfieldroad先生(もしかして徳島以来お会いしてないかも…)がブログ記事で書いていらっしゃる「お皿」と「お肉」の喩えともリンクするところがあるように思う。anf先生は,「何を言うか」はとりあえず与えてしまってもいいから,「どうやって言うか」にあたる「お皿」選びをできるようにさせたいというお話。タスクはこの辺は結構融通がきいて,シンプルな情報交換タスク(e.g., 間違い探し)なら伝えるべき情報はそこにあるという状態だが,意思決定タスク(e.g., 無人島タスク)になれば,まず「無人島に何を持っていくか」を考える必要があるし,「なぜそれを持っていくのか」を考える必要も出てくる。さらにはタスク中にはグループのメンバーの話を聞き,「どうやって説得して自分の意見を主張するか」も考える必要がある。事前のプランニングタイムを与えるにせよ,お皿に盛り付ける料理とそれを盛るお皿(もしかしたらお椀や丼ぶりかもしれないが)を両方考える必要が出てくるというわけだ。

冒頭で紹介した本はもっともっと教育の根本的な問題についての話であり,「選ぶ力」というものが意味するところももっと幅も広いし奥も深い。しかしながら,英語の授業に限定して考えた場合,「適切に」「正確に」言語を使用するために何かを選ぶ作業は結局著者の批判するテストの答えを覚えることに等しいのではないかと思う。そうではなくて,伝えようとすることを伝えるために何かを選ぼうとし,そこで,迷い,悩む,という経験自体は,著者のいう「選ぶ力」に通じるものがあると私は思っている。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。