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ライティングの採点の不備と一緒に学習者の心ぶった斬ってませんか

民間試験導入の問題がわーっとなったとき(あるいはその少し前),ちょくちょくTwitterで,

こんなのでこの点数!!

みたいな投稿についた画像で学習者のライティングプロダクトとその点数の写真を見かけることがありました。私のタイムラインは英語教育関係者が多いですし,民間試験導入の問題についても声を上げている人がたくさんいらっしゃって,関連したツイートが比較的頻繁に流れてくるので目についただけかもしれません。おそらく,一般的なレベルでいえば認知度が高まったのはほんの最近のことで,下記のことを考えたのはおそらく私くらいだと思います。「なーに言ってんだばかか」と思われてもいいです。

私は上記のようなツイートを見るたびに,「試験の採点がおかしい」とか,「こんな試験を入試に導入なんてありえない」とか,そういうことの問題提起は理解していても,やっぱり学習者の実際のライティングをもってそういう主張をすることには賛同できないという気持ちになりました。本人が(「こんなんでいいの?」というようなノリで)画像をあげていることもあるかもしれないので難しいですが,試験の不備と一緒に学習者の心までぶった斬ってはいないでしょうか。その本人だけではなく,似たような質のライティングをした学習者がそうやってオトナが叩きまくっているのを見て(叩いているのは試験そのものだとしても)どう感じるだろうというのは私の考えすぎでしょうか。

水をさすつもりはまったくありません。標準化された試験としてやっていて採点基準どうなってるのという批判はそのとおりだと思います。ただ,元のツイートにぶら下がっていたコメントなんかがとくにですが,「正確さ」に対して過剰に反応しすぎではないですかね,誤りに対しての不寛容さみたいなのも一緒にそこに投影されていませんかね,と思わずにはいられないのです。

たしかに,たしかに,お世辞にもうまく書けているとは言えないようなものだったりもします。文法的なエラーやつづりのエラーも含まれています。なんとかかんとか文意を汲み取ろうとこちらが最大限の努力をして,意味解釈はできるかな,というレベルのものです(私が見たものは)。それでも,問いが与えられて,その問いに答えるために自分の持っているリソースを最大限に活用して,英語を書いたということと,その学習者が現時点でそのレベルの発達段階であるということは何も悪くないと思うのです。

あまり具体的なことを言うとどの画像見たかとかになってしまうので詳しく言及することは避けますが,評価できるポイントだって見つけようと思えば見つけられるように私には思いました(一つの観点でいえば流暢さとしての語数)。課題が何を求めているのかや,何を測定しようとしているのかにもよりますが,同様のライティングプロダクトに対して私はこれまでにゼロをつけたことはないなと思いましたし,意味のわからない単語の羅列ではなく英語の文を表出しようとしたことを評価したいなと思いました。何度も言いますが,そういう性格のテストではないとか,誰も書かれたものそのものへの批判はしていないとか,そういうのはすべて,「そうだろう」と思っています。そのうえであえてこういうことを書いているのです。

杞憂であってほしいと思っていますし,実際に杞憂なのだと思います。それでも,それでもやっぱり,「ああやっぱりこれじゃ全然だめなんだ」と思う学習者がいたら,それは英語教育にとって良いこととは言えないと思います。「あれでいい」と言っているのではありません。もっと良い英文が書ければそれに越したことはありません。私はただ,英語を使ったときに少しでも誤りだったり誰かから見て不自然と感じられるようであったらすごい勢いで寄ってたかってあーだこーだ言う,そういうのが本当に嫌いなのです。そして,ライティングの採点基準についての批判を真摯にする人の周りに,意図せず人の誤りを笑うそういう人たちが集まっているのではないかと思ってしまったのです。

なにをゆう。

たむらゆう。

 

「知っている」事の影響を排除するための2つのアプローチ

思いついたことを書き留めておくだけのメモ記事です。粗いところもあるかもしれませんがご容赦ください。

「狭義の」(文法の)第二言語習得研究が目指していることは,母語話者が持っているのと同じ知識を第二言語学習者も身につけることができるのか,できるとすればそれはなぜか,できないとすればそれはなぜか,というのが分野の抽象的で大きな問いであるというのがざっくりとした私の理解です。

で,この問いに迫ろうとしたときに問題となるのが,いかにして「知っている」ことの影響を排除するのかなという点です。母語話者は基本的には言語の規則を意識的には知らない(説明はできない)という状態で,でもある法則に従って規則的な振る舞いをするわけですよね。その規則的な振る舞いを言語理論で説明しようというわけです。そういうことを見ようとすると,学習者が意識的に知っていること(言葉で規則を説明できること)を対象にしていては意味がないじゃん,ということになります。知っているだろうよ,というような現象を対象としている限り,「知っている」からできるという可能性を排除することができません。よって,習っているはずもないのに母語話者と同じような振る舞いを見せる現象があるよ,とか,あるいはそれが第一言語によって同じような振る舞いを見せたり見せなかったりするよ,というような方向性で研究をデザインしていくことになります。そして,それを生成文法の理論から予測していこうとすると。生成ベースの第二言語習得研究をやっている人たちの基本的な考え方はそういうことなのかなというのが私の個人的な印象です(もちろんそうじゃない人もいるとは思いますけれど)。

一方で,SLAの初期からずっとSLA研究者が関心を持ち続けてきたことは,「知っている(=規則は説明できる)のにも関わらず,産出などをさせると間違いが頻繁に起こってしまう」という第二言語学習者に典型的な現象についてどのような説明を与えるのか,ということです。この関心を説明するために生まれたのが,明示的・暗示的という2つの知識源を仮定する考え方でしょう。つまり,知っている=明示的知識はあるけれども,産出などの課題で主に使用されると考えられている暗示的知識が不十分であるために,誤りが生じてしまうというようなロジックです。この考え方でいくと,そもそもの出発点が「知っているのにできない文法項目」(典型的なのが三単現の-s)の振る舞いについての説明を与えることになります。よって,知っていることの影響を排除しようとしたときに,「習っていないであろう項目を対象とする」という理論ベースの考え方は採用されえません。そこでどうなるかというと,測定の方法としてできるだけ「知っている知識」が作動しないような課題を用いるというアプローチを取ることになります。文法性判断課題に時間制限をつけたり,elicited imitationを使ったり,その後の反応時間パラダイム(自己ペース読み課題やword monitoring課題)や視線計測,そして脳系の測定具を使うというように,測定具によって「知っている」ことの影響を排除しようとしてきた,というのがもう一つのアプローチとしてあるのかなと考えています。

私も最初の関心は後者のアプローチにあり,どうすれば明示的知識の干渉を抑えた知識の測定ができるのか,という点にありました。ところが,それでは拉致があかない部分もあります。明示的・暗示的知識系の研究の重大な欠陥だと思っている部分で,それは,「意識的かどうか」についてを直接的に測定してこなかった(できなかった)という点です。反応時間や視線計測というパラダイムを用いたとしても,何らかの反応の違いが観察されたときに,それが「おやっ?」という意識にのぼるレベルの知識を使ったから反応時間や注視時間が長くなったのか,はたまた自分では全く気づいてもいなかったけれどもそうなってしまったのか,については測定していませんでした。よって,暗黙の了解として「反応時間や注視時間の条件間差は無意識なものである」だとか,「因子分析したら文法性判断や誤り訂正課題とは違う因子にローディングするからと自己ペース読み課題や視線計測で測られているものは暗示的知識であるのだ,みたいな想定をしてきたんですよね。それってなんかちょっとそこを当然のことのように受け入れちゃってもいいのかしら。という疑問が生まれてくるわけです。そういうこともあって,私が博士後期課程時代に扱ってきた文法現象は(もちろんこれは草薙さんの影響を大いに受けているのですが),どちらかというと前者の「知っているはずもないような文法」を対象にしているものが多くなっていきました。今必死にディスカッションを書いているthere構文の数の一致 (当時はこれも明示・暗示に当てはめようとしてたんですが今は違う方向性で書こうとしてます)だったり,tough構文の研究  なんかはまさにそういうことだったと言えます。conceptual numberの研究(これは言語習得よりは文処理ですが)も,「そんなことは習っているはずもないけどなんかガーデンパス回避しちゃう」というような話でもあります。

別にどちらがいいとか悪いとかいうわけではないのですが,同じように第二言語の文法習得を対象にしている研究で,「知っていることの影響をできるだけ排除したい」という目的は共有していたとしても,そのときに知っているはずもない現象を対象とするのか,はたまた当然知っているだろうというような現象を扱って測定具の工夫によって知っているという知識の干渉を極力抑えるというアプローチに行くのか,そういう違いが出てくるのは結構興味深いことなんじゃないかなぁということを考えたのでした。

もちろん,これはただの思いつきなので,そもそもの前提が間違っているとか,2つのアプローチは別に同じ方向を向いているわけではないとか色々あるかもしれませんが,こういう整理の仕方ってどうですか?というような投げかけ的な記事でした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

文法知識の手続き化の謎(Sato and Kimのレビュー)

下記論文を読んでちょっとしたレビューというか考えたことを書き留めておこうと思います。

Sato, M., & McDonough, K. (2019). Practice is important but how about its quality? Contextualized practice in the classroom. Studies in Second Language Acquisition. Advance Online Publication. doi:10.1017/S0272263119000159

ざっくりとした内容は,WH疑問文の習得について,教室内で教師とのやりとりという形での”practice”を5週に渡って繰り返していくと,当該項目の手続き化が起こるかどうかという話です。従属変数は正確さと流暢さという2つの側面。それから,練習セッション前の段階での宣言的知識が,練習での伸びとか練習後の正確さを予測するかというのも研究課題です。

宣言的記憶,手続き的記憶,手続き化

本当は,この辺の用語の説明省こうと思っていましたが,やはり自分の理解と論文でどういう捉え方しているかを照らし合わせたほうがいいと思ったのでこの節では用語の理解の確認をします(そもそもそんなものが必要な概念ってなんなのってなりますけど)。論文に書かれている内容自体に興味があるという方は読み飛ばしてください。

宣言的記憶(declarative memory)は,規則に対する(または規則そのものの)知識であると言われています。キーボードのタイピングの例(嫌いな人は嫌いな例ですけど)でいえば,キーの位置の規則といえばいいでしょうか。または,どのキーをどの指で押下するかという知識と言ってもいいかもしれません。タイピングに慣れないうちは,意識しながらキーの位置を確認して押下しますし,スピードもゆっくりですよね。それが,タイピングの練習を重ねるに連れて,だんだんキーの位置がわかってきて,指の使い方も慣れてくるので押し間違いが減ってスピードがあがると思います。これをスキル習得理論から捉えれば,宣言的記憶から手続き的記憶(procedural memory)に頼った行動に徐々に変化しているということになります。これが手続き化と呼ばれるものです。そして,その状態でさらに練習を続けていけば,キーの位置を確認しなくても「体が覚えている」状態になると思います。いわゆる「ブラインドタッチ」みたいなものができるようになるわけですよね。これが自動化(automatization)です。

手続き化というのはこの論文では,なんらかの行動の正確さとスピードが向上することとであると解釈していいと思います。冒頭のイントロでそのような説明がされているので。同じ行動を何度も繰り返す(練習を重ねる)ことによって,ある行動の正確さとスピードが向上するということです。スキル習得理論(Skill Acquisition Theory)はここでいう正確さとスピードの向上というのが,頭の中のシステム自体の変容だと捉えます。つまり,宣言的記憶(declarative memory)に頼った状態から徐々に手続き的記憶(procedural memory)に移行する,これを手続き化(proceduralization)と呼びます。

宣言的知識はあったのか

さて,論文の内容に入っていきます。私がこの論文で一番もやっとしたところは,宣言的知識・手続き的知識というスキル習得理論を理論的枠組として援用ているにもかかわらず,宣言的知識とは何を指すか,そして手続き化とはどのようなプロセスかといったようなことを無視して無理やり結果を解釈しようとしている点です。

まず,知識の手続き化には宣言的知識を持っていることが不可欠です。宣言的知識を持った状態で練習を重ねることにより手続き的知識を獲得し,それが自動化していくというのがこの理論のベースにあるからです。だとすれば,宣言的知識のテストで宣言的知識を学習者が持っていることを事前に確かめる必要があるでしょう(もちろん,実際にテストはやっています)。ここにばらつきがなければそもそも回帰分析もうまくいかないはずなので,ある程度ばらつきがある学習者を対象にするというのはわかります。そうは言っても,事前の宣言的知識テストのスコアの平均値は59%SD25.12です。正規性の逸脱はしていないという報告があるので正規分布だと仮定すると,半分以下しか正答できなかった学習者もいると考えられます(注1)。そして,平均値で59%も決して高いとは言えませんよね。そのようなテストスコアしかなかった学習者は,果たしてどうやって手続き化したのでしょうか。というか,そもそも手続き化できたと言っていいのでしょうか。Wh疑問文の生成にはwhの移動やsubject-auxiliary inversion, 一般動詞の場合はdo挿入もあります。これらが複雑に組み合わさる文法だからこそ,その中のどの部分の知識はあってどの部分の知識はないのかがわからないと,何の宣言的知識があったのかやその手続き化もブラックボックス化してしまうのではないかと思いました。

行われたcontextualized practiceについて

疑問文の産出をある程度コントロールしながら教室内で意味のあるやり取りを,というのはわかります。その中で最大限できることをやったのだということも。ただ,画像とともに疑問詞が一緒に提示されて,それをもとに疑問文の産出が行われたというのはちょっと引っかかります。あくまで”practice”だからと言われたら何も言い返せませんが,コンテクストを大事にするということをauthenticityを大事にするということだと理解して読み進めた私からすると,それが”contextualized”かあという感想になります。結局,疑問文の生成にかなり意識を集中させることが可能であるという状況での口頭産出練習活動ということですね。結果的には,そういった状況で練習を重ね,ある程度その効果があったとしても,最終的に正確性は65%程度にしかならなかったのだというのは結果を解釈する上で重要なポイントでしょう。

それから,宣言的知識の影響を調べる分析では5回のセッションのうちの2, 3, 4が合計されて1と5は省くという処置をしたということが書いてあったのですが,”so as to avoid the independence of observation for the inferencial statistics”(p.13)というロジックがよくわかりませんでした。隔週でタスクの内容が異なるので,これやるとそのバランスが崩れてしまうのではと思いました。まあそこに突っ込むとそもそも複数クラスでタスクの順番のカウンターバランスとか取っているわけでもないので,ここで言われている流暢さや正確さの発達が単純に時系列の変動だけによるものとは言えないでしょう。タスクのタイプやそこで扱われたテーマによる変動も含まれているはずです。

また,対照群の設定もありませんので,研究自体はケーススタディとして扱われるべきものかと思います。「教室環境だから仕方ない」だけでこのあたりの実験デザインの粗さにすべて目をつむっていいわけではないと個人的には思いますので,今後別のデータでも同様の研究が重ねられていくといいのかなと思います。

事前の宣言的知識の手続き化への影響

結果で,練習前に行った宣言的知識のテストスコアは正確さや流暢さの発達を予測しなかったということが言われています。つまり、事前の宣言的知識を測る文法テストのスコアが高ければ高いほど正確さや流暢さが伸びやすい、あるいはスコアが低ければ低いほど伸びないという現象やその逆で高ければ伸びにくい、低ければ伸びやすいというような関係性がみられなかったということになります。このことを、著者らは次のように解釈しています。少し長いですが引用します。

Interestingly, the scores of the declarative knowledge test, administered prior to engaging in contextualized practice, did not predict the extent of the practice effect on accuracy or fluency changes. This result indicates that having declarative knowledge of a grammatical structure may not be related to the development of the procedural system of that structure when practice is considered as the cause of the changes. Accordingly, it could be said that contextualized practice alone facilitates a positive change in accuracy, on the one hand. On the other hand, the result seems to challenge skill acquisition theory in that learners may not need an explicit understanding of a grammatical structure to benefit from contextualized practice. However, in the current study, all learners possessed some declarative knowledge of the target structure. Hence, it is premature to argue that practice alone is sufficient to develop procedural memory of a grammatical structure. What the results suggest is, instead, that the amount of declarative knowledge was not related to the extent to which each learner benefited from practice (p.21).

事前の文法テストスコアとの相関がなかったことは、知識がなくても練習すれば良いということは意味しないという主張です。その根拠として、参加者の知識がゼロではなかったからと言っています。つまり、なんらかの知識は持った状態で練習をすることの意味はあるということです。ただし、どのくらい知識を持っているかは関係ないとも言っています。しかしながら,これは矛盾していると思います。これをサポートするには、知識の閾値みたいなものを想定する必要があるでしょう。つまり,知識がないとダメであり、かつ知識の量が関係ないとすれば、ある一定程度の知識が必要で、その先のレベルの知識は関係ないという想定になるはずです。そうるすと,その閾値とはどこなのか,その閾値が意味することはなにか,が重要になってきます。これを突き詰めると,前述した宣言的知識のテストスコアの解釈や,それが何を測っているのかという問題に再びぶつかるわけです。

まとめ

まとめると,Sato and Kim (2019)はタイトルがちょっと煽りすぎでは?と思います。確かに,practiceといっても機械的な口頭産出練習じゃだめだ,もっと文脈依存でコミュニカティブなインタラクションの中での練習でなくては,という主張自体はわかりますし,そのことを文法知識の手続き化という理論的な枠組みを当てはめて研究に落とし込んだのは面白いと思いました。ただ,宣言的な文法知識とはいったい何なのか,そして文法的知識が手続き化するとはどういうことなのか,という部分が分野として確立されたものが提示しづらいところが原因で疑問が色々浮かぶ研究かなというのが個人的な感想です。こういうところに失望して教室SLA研究を「研究」としてやることに対しての意欲を自分は失ったんだなぁと再確認することとなりました。論文を読んでからずっと放置していて公開までに3ヶ月かかってしまいましたが,とりあえず,私がこの論文を読んだ感想はそんなところです。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

 

注1: Rのrnorm関数を使い,n = 34, m = 59, sd = 25.1として乱数を発生させ,その中で50を下回る人数を数えるというのを10,000回繰り返すと,中央値は12人,最小値は3人,最大値は20人でした。

理論に暗示的知識が内包されたときのジレンマ

以前,教育効果を測定する目的で明示的知識と暗示的知識を測定し分けることの是非についてのエントリーを書きました。

https://tam07pb915.wordpress.com/2016/08/25/implicit-explicit-instruction/

そのときの結論は,「教育効果を測定するのに明示・暗示の話は持ち込まなくていいだろう」というものでした。ただ,理論のスコープが暗示的知識を含むととき,そうも簡単にいかない問題がそこにはあるなと最近(といっても書こうと思ってずっと書けてなかったので少し前)思ったので,その話を書きます。きっかけは以下の論文。

Zhang, X., & Lantolf, J. P. (2015). Natural or Artificial: Is the Route of L2 Development Teachable? Language Learning, 65, 152–180. doi:10.1111/lang.12094

ここで取り上げる理論とはいわゆる処理可能性理論(Processability Theory)です。これが理論足りうるかどうかはとりあえず置いてきます。処理可能性理論とは何かということは上記の論文を読んでいただくか,あるいは同じ号に提唱者のPienemannが書いた論文が載っていますのでそちらをお読み下さい。ざっくりいうと,学習者の言語発達は心理的・認知的な処理能力によって規定されていて,ある段階を飛び越えて次の段階に進んだりはしないという理論です。この理論と同じく紹介されるのが教授可能性仮説(Teachability Hypothesis)というものです(注1)。これは,教育的指導介入によって発達段階をスキップすることができず,学習者が今いる段階よりも上のレベル(正確には2レベル以上高いレベル)の言語規則を教授してもそれは習得されることはというものです。Zhang and Lantolf (2015)の論文は,この教授可能性仮説にそぐわないデータが得られたことを報告するというような趣旨の論文です。

こうした言語の発達段階や発達順序に関する研究が主たる関心としているものは,学習者の暗示的知識の発達であると考えられています。つまり,意識的な知識として知っているかどうか,明示的知識を持っているかどうか,ということではなく,暗示的な知識の発達に段階を規定するものです。例えばRod Ellisなんかは,暗示的知識の発達には発達段階による制約があるため,明示的な文法指導介入はそうした発達段階の制約を受けないと考えられる明示的知識の獲得を主たる目的とすべきであるという立場です。明示的知識は間接的に暗示的知識の習得を促す(weak-interface)というのが彼の立場なわけですから,この主張もうなずけます。

問題は,この「発達段階を教育的介入によってスキップできるかどうか」を問題にする場合,暗示的知識の測定が不可欠になってくるわけです。なぜなら,発達段階があるのは暗示的知識であって,明示的知識ではないと考えられているからです。実際,Zhang and Lantolf (2015)でも,guest editorのRod Ellisから「この研究の結果は明示的知識の発達を示しているだけで暗示的知識の発達であるとはいえないんじゃないか?」みたいなツッコミがあったそうです(p.174)。筆者たちの反論は,Pienemannたちが使っているような測定具と発達段階の決定規準(emergence criteria)を使っているのだから,もしこの研究がその点で批判されるのだとしたらそれは処理可能性理論や教授可能性仮説についても当てはまるじゃないかというような反論をしています。

で,一応Pienemann自身は同特集号の論文の中で,まず教授可能性仮説は処理可能性理論に含まれる必須の要素というわけではなく,理論というよりは実践の話で,いくつか研究でサポートされたからまぁプラクティカルにそうなんじゃねーのかみたいにしているだけで処理可能性理論はもっと緻密に作られた理論であるというようなことを言っています。つまり,教授可能性仮説は捨てても処理可能性理論は守られるっていう話なんですね。なんか強がりっぽいこと言ってますけど。でも多分なんですけど,SLA研究者のほとんどは処理可能性理論と教授可能性仮説に関連性あると思っているしむしろ理論の一部か派生かくらいには思ってるんじゃないですかね(実際僕もそう思ってました)?「みんな俺の理論を誤解している」ってそういうことなんでしょうか?百歩譲ってそうだったとしても,測定具の話は処理可能性理論にも及ぶわけなので,そこはちゃんと反論しなくてはいけませんよね。

測定具の話に関してPienemannは,elicited imitationとspontaneous productionを同一視してはいけない。elicited imitationはダメだがspontaneous proudctionは違うんだみたいなことを言っています。これって反論したようで実は全然反論できていなくて,前回も書きましたが,行動データで暗示的知識測定しようとしたらもう「産出データじゃ無理なんじゃね?」っていうのがここ最近の流れです。spontaneous productionってのが「elicited imitationとは違うものを測っている」というのならば,それが測っているものが暗示的知識かどうかも検証されないといけないですよね。でも,実際何が暗示的知識を測っているのかっていう問題の闇は深くて,そんな簡単なことではありません。

処理可能性理論のことを血眼になって研究している人ってこの問題どう考えているんですかね?もちろん,この問題は処理可能性理論についてだけではなくて,「言語発達の制約を受けるのは暗示的知識」という主張をするすべての研究者に当てはまります。この問題ってどうやったら論理的に,あるいは実証的に回避できるのか,有効なアイデアは考えてもパッと思いつきません。熟達度がそれほど高くなく,spontaneous productionで暗示的知識と弁別できないような明示的知識を使えないような学習者ならspontaneous productionでは暗示的知識を測定できるとかでしょうか?実際問題として処理可能性理論が対象にするような学習者は超高熟達度の学習者ではないわけですし。でもあまり有効な反論とはいえないですね。結局はパフォーマンス上に明示的知識の介入がないことを示さないといけないわけですから。うーむ。みなさんどう思います?

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注1. Pienemannは同じ特集号の論文で,” …theTeachability Hypothesis is not a corollary of PT.” (p. 138)と言っていて,教授可能性仮説はPTの一部ではないようなことを言っています。

PacSLRF2016発表資料

金曜日から,中央大学多摩キャンパスで行われているThe Pacific Second Language Research Forum2016に参加しています。大会最終日(9月11日日曜日)午前の口頭発表枠の最初のスロットで口頭発表があります。私がD1の時に出ていた授業のレポートでレビューした論文を批判的に検討して追試を行ったものです。追行研究として良いかどうかはわかりませんが…

その後,D2でデータを取ったのですが,そのまま寝かせたままになっていて,昨年度の冬にまた同じ先生の授業でその取ったデータを分析して発表しました。それをもとにPacSLRF2016に出してみたらどうかと勧められ,応募したら口頭発表通ったので発表する事になったというわけです。詳しくは明日使用予定の下のスライドを見ていただければと思います。

データの解釈が結構難しくて,当初予測していたよりももっと複雑な現象なのかなと思いますが,「知識の習得」を文処理で議論する際にそんなに荒削りで大きいこと言って大丈夫ですか?というのがまぁ言いたいこと(タイトル)です。

ちなみに,午後はShintani Natsuko先生がオーガナイザーのコロキアムで,第二著者としてもう1つ発表があります。そちらは静岡県立大学の福田純也先生との共同で,タスクの繰り返しに焦点を当てた小規模のケーススタディです。

そして月曜日には明治学院大学でVocab@Tokyoという別の学会で口頭発表があります…ということであと数日は踏ん張り所ということで,頑張りたいと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

明示・暗示の測定と指導法効果研究

結論からいうと,もはや指導法効果研究やそのメタ分析系の研究で測定具が明示的知識を測っているのか,あるいは,暗示的知識を測っているのかという話はしないほうが建設的ではないかという話。

Norris and Ortega (2000)やSpada and Tomita (2010)のメタ分析は,明示的指導・暗示的指導という2種類の文法指導の効果を検証したものです。そこでは,指導の効果と知識表象の関連性について議論されています。それで,「実務的な観点」とかいうと草薙さんみたいでアレなんですが,指導の効果測定として厳密な暗示的知識の測定具を用いることにどれほど妥当性があるかという問題です。狭義のSLA研究では,「暗示的知識の習得こそが言語習得」という見方なわけで,明示的知識の介入を許さない暗示的知識の測定具の開発や妥当性検証は必須です。しかしそれは,”ultimate attainment”の研究であり,母語話者と第二言語学習者の境界線を探ったり,あるいは第二言語学習者がどこまで母語話者のような言語知識を獲得することができるのかを目的としています。Suzuki and DeKeyser (2015)やVafaee et al. (2016)などの研究にも代表されるように,Ellis (2005)の因子分析による妥当性検証から10年が経っても未だに「真の暗示的知識測定具とはなにか」の問題はSLA研究の中心的課題の1つです。私が問題としたいのは,指導の効果検証にそこまで厳密な暗示的知識の測定具は必要なのかということです。Ellis (2005)が指摘しているように,実際のパフォーマンス上では明示的知識と暗示的知識の両方をフル活用して学習者は言語を使用しているのであり,Task-based Language Teaching (TBLT)的な観点での「学習者ができること」を重要視する考え方から言っても,ピュアに暗示的知識だけを測定しそれをもって指導の効果とすることにあまり意味があるようには思えません。だからといってすべては明示的知識を授けることが大事だとかPPPだとか自動化だとか言うつもりはありません。

話が一度それますが,明示的知識と暗示的知識の関係性(interface)について,練習によって明示的知識が暗示的知識に変容することをstrong interfaceの立場とし,この立場をとる代表的な研究者としてRobert DeKeyserが引用されることがよくあります。私もそう思っていたのですが,最近のDeKeyserはもはやこの立場でもなくなっています。DeKeyser (2015)では,宣言的知識が手続き的知識に変わる(turning into)という言い方は誤解されやすく,実際は宣言的知識を保有している状態で練習を重ねることにより,手続き的知識を獲得することが可能になると述べています(DeKeyser, 2015, p.103)。また,手続き的知識を獲得する段階は”procedualization”(手続き化)と呼ばれ,この段階ではまだ自動化(automatization)はされていません。手続き的知識を獲得するにはほんの数回のcontrolledな練習を重ねるだけでよく,そこから自動化させるためにはさらなる練習が必要であるとDeKeyserは述べています(DeKeyser, 2015, p.95)。つまり,宣言的知識は手続き化されて手続き的知識になり,その手続き的知識が自動化することで無意識的で流暢な技術を身につけることが可能になるというわけです。さらに,自動化は,自動化したかしていないかの0/1ではなく,連続的なものでもあります。DeKeyserの主張するSkill Acquisition Theoryを研究の基盤とする場合には,90年代のDeKeyserを引用するのではなく,このDeKeyser (2015)を引用するべきでしょう。もう一点,注意が必要なのは,DeKeyserのいう練習とは,いわゆる「パターンプラクティス」のようなものではないという点です。DeKeyser (2015)が,Skill Acquisition Theoryを援用した実証研究の例として,タスクの繰り返しの効果を扱ったDe Jong and Perfetti (2011)を引用していることからも,自動化に必要なのはcontrolledな練習ではないことがわかります。

話を明示・暗示と指導の効果に戻します。明示的知識の干渉を受けず暗示的知識のみを測定できる測定具を用いることをつきつめると,その手法自体は実際の言語パフォーマンスからはかけ離れたものになります。自己ペース読みや,ワードモニタリングタスクなど,上述のSuzuki and DeKeyser (2015)やVafaee et al. (2016)で暗示的知識の測定具として妥当だと言われているものは,もはや私たちが言語を使用する場面としては特殊すぎるでしょう。ただし,そこまでしないと明示的知識の干渉は防げません。なぜなら,特に高熟達度の学習者ほど明示的知識が介入していてもパフォーマンス上では暗示的知識のみの言語使用と区別がつかないからです。Ultimate attainment研究はそここそが研究の対象であり,一見母語話者と相違ないパフォーマンスを見せる学習者にも母語話者との差が見られる領域についてを研究しています。だからこそ,母語話者と学習者を弁別するための道具として暗示的知識の測定具が必要なのです。一方で,多くが教室環境で行われるような指導を受けた学習者が,どれほど指導によって言語能力を向上させたかをみるには,母語話者と超高熟達度の学習者を弁別するために必要な測定具が適切だとは思えません。測っている領域がまったく違うからです。暗示的知識の測定具の精度を指導法効果研究に求めれば,ほとんどの場合「知識があるとはいえない」という結果が得られることでしょう。また,自己ペース読み(視線計測でもいいです)やワードモニタリングタスクなどは,従属変数として反応時間を用い,主に正文条件と非文条件での反応時間の差が「統計的に有意であるかどうか」によって,知識の有無をカテゴリカルに判断しようというものです。この「知識の有無を0/1で判断できる」という観点が自己ペース読みの強みであるとJiang (2004)は主張しています。したがって,カテゴリカル変数よりも連続変数のほうが適切であるような,学習者の発達自体に興味がある指導法効果研究では,明示的知識が干渉していてもライティングやナラティブなスピーキングタスクで良いのではないでしょうか。もちろん,多肢選択問題や穴埋め課題,書き換え問題などでいいとは思いません。これらの測定具も,言語使用場面としては,自己ペース読みなどとは正反対の方向に特殊すぎるからです。

結果として,指導法の効果を比較した研究で明示的知識と暗示的知識の話を持ち込んで,その結果として「それは暗示的知識測れてない」とかいう批判を受けるような議論が展開されてしまうことになるわけです。それじゃあということで指導法の効果を自己ペース読みで測ったとします。そうなると今度はもともとの指導法の効果という観点からどんどん遠くなっていってしまうわけです。私自身の結論は,もう暗示的知識とか言わずにdiscrete-point testとperformance testで効果検証しました。ってことでいいのでは?ということです。

というようなことをPPPいいよ論文からSpada and Tomita (2010)を読み返して思ったのでした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

引用文献

De Jong, N., & Perfetti, C. a. (2011). Fluency training in the ESL classroom: An experimental study of fluency development and proceduralization. Language Learning, 61, 533–568. doi:10.1111/j.1467-9922.2010.00620.x

DeKeyser, R. (2015). Skill acquisition theory. In VanPatten, B., & Williams, J. (Eds). Theories in second language acquisition: An introduction (2nd ed). New York, NY:Routledge.[Kindle Edition]

Ellis, R. (2005). Measuring implicit and explicit knowledge of a second language: A psychometric study. Studies in Second Language Acquisition, 27, 141–172. doi:10.1017/S0272263105050096

Jiang, N. (2004). Morphological insensitivity in second language processing. Applied Psycholinguistics, 25, 603–634. doi:10.1017/S0142716404001298

Norris, J. M., & Ortega, L. (2000). Effectiveness of L2 Instruction: A research synthesis and quantitative meta-analysis. Language Learning, 50, 417–528. doi:10.1111/0023-8333.00136

Spada, N., & Tomita, Y. (2010). Interactions Between Type of Instruction and Type of Language Feature: A Meta-Analysis. Language Learning, 60, 263–308. doi:10.1111/j.1467-9922.2010.00562.x

Suzuki, Y., & DeKeyser, R. (2015). Comparing Elicited Imitation and Word Monitoring as Measures of Implicit Knowledge. Language Learning, 65, 860–895. doi:10.1111/lang.12138

Vafaee, P., Suzuki, Y., & Kachisnke, I. (2016). Validating grammaticality judgment tests: Evidence from two new psycholinguistic measures. Advance Online Publication. Studies in Second Language Acquisition. 1–37. doi:10.1017/S0272263115000455

3単現の-(e)sは口をついて出るくらいまで練習

馬鹿じゃないのと思った。

今,とある原稿の執筆にあたって(〆切に間に合いそうになくてやばい),中学や高校の教科書のCAN-DOリスト,評価基準,年間指導計画なんかを見ている。そこで,とある教科書の(あえて名前は出さない)年間指導計画の,指導例というカラムに次のような記述があった。

3単現の-(e)sは理屈で覚えるよりも口をついて出るくらいまで文を言い,書く練習をする

まさに,「お前は何を言っているんだ」の気分である。そんな無駄なことをさせるくらいだったらもっといくらでもやること,やれることがあるだろう。これを書いた人は,自分が3単現の-sをまったく落とさない自信があるというのだろうか。3単現の-sは,超高熟達度の学習者でも習得が困難であると言われる文法項目の典型的な代表である。そして,文法的に主語をidentifyする機能はあるが,これがなくても文の理解に支障をきたすことはほとんどないと言っていい。なぜなら,英語は語順がわかれば主語が(ほとんどの場合)わかるからである。また,有生性も動作主-被動作主の関係を表すのに重要な手がかりとなる。3単現の-sが脱落していることが,意味理解を阻害することはほとんどない。過剰使用されている場合もそうだ(実は過剰使用の方が気づきやすいらしい)。

この「文を言い,書く練習をする」というのが,単なるパターンプラクティスのような物を意味していないのだとすれば,それに意味がないとは言わない。しかし,そうであったとしても,そのような活動は3単現の-sの習得を目指して行われるべきものではないだろう。誤解を恐れずに言えば,3単現の-sの習得など目指さなくても良い。それこそ,理屈を知っていて,ライティングの時などにモニタリングして直せれば良い程度のものではないか(それでも見逃すことだって私にはあるが)。3単現の-sが落ちていることにそんなに目くじら立てる必要はどこにあるのだろうかと思う。しかも,あろうことかそのどうでもいい形態素を習ったばかりの中学校1年生に対して,そんな無駄な苦行を強いるなんて言語道断である。もし本当に三単現の-sの習得を目指したいのであれば,それ以外のところにほとんど注意を向けなくとも書いたり話したりできるような訓練をした方がよっぽど良い。そういうことに時間を割いたほうが,全体としての英語力も上がるだろうし,結果的に3単現を落とすことも少なくはなるだろう(それでも母語話者レベルにはならないと思うが)。

私は英語の第二言語話者としてそれなりに機能できる自信があるし,相手の言っていることを理解したり,自分の気持ちや考えを伝えたりすることだってそれなりにはできると思っている(ただし,英語力に自信があるわけではない。語彙とかたぶん5000語くらいしかない)。英語を中学1年から勉強し始め,北米に2年間留学した私でさえ(むしろその程度だからこそ?),3単現はたまに落とす。英語教師として,正確無比な言語使用ができないことはプロとして恥じるべきだとは思うし,実際に毎週英語で授業をしながら「ヤベッ」と思うことがある。それはプロだからである。英語を教えることでお金をもらっているからである。プロを目指してもいない,英語学習を始めたばかりの中学生に(高校生や大学生だってそうだ),「口をついて出てくるまで」きっと無意味な文を言わせるなんて,そんな指導観を持っている人には絶対に教わりたくない。もちろん,そこまでして,情熱的に,なんとかして,英語を身につけさせてやりたいという熱意は素晴らしいと思う。しかしながら,圧倒的にベクトルが間違っている。その情熱はもっと別のところに注ぐべきだ。

余談だが,実はかくいう私も3単現の-sを減点したことがないかと言えば嘘になる。先日のテストのライティング問題である。語数,内容,文法・スペリングという3観点の評価方式を私はよく採用している。昨年度までは,このような形式を取る問題は1問だけで,ほかは文法の間違いは一切評価しない問題も出していた。今年は,そういう問題を出題できる環境でもないので,3観点方式のライティング問題だけを出した。そこで,私の担当しているクラスのうちの1つで,とびっきり出来の良い学生が,3単現の-sを落としたというだけで,99点を取った。私も採点しながら,本当に心苦しい気持ちになってしまった。途中まで採点していて,「これは満点だなぁ」と思っていた矢先,最後の最後のライティング問題で彼の「誤り」を見つけた時,この採点方式を取ったことを本当に後悔した。テストの他の大問も完璧で,ライティング自体もトピックに沿ってよく書けていた。そこにきて,3単現の-sがたった一箇所落ちていただけで,私は彼が満点を取ることを阻止してしまったのだ。そして,翌週テストを返却したとき,答案をみてその学生が言い放った一言を私は一生忘れることがないだろう。

「くだらねえ」

私はなにも言えなかった。そして,自分で問題を作っておきながら,私自身も「くだらねぇ」と思ってしまったのだ。大いに反省した。そして,今度の期末試験では,文法面に関しては「意味理解を阻害するかどうか」という観点で,おおまかにレベルを4段階設定し(Foster & Wigglesworth, 2016を参考にした),意味理解を阻害しない程度の誤りが少数見られる場合は,その観点では満点とすることにした。もちろん,このレベル分けや,誤りのレベルの頻度というやり方も完璧とは言えない。まず,「なにを持って意味理解を阻害しない」と考えるのかは非常に難しい問題である(もちろんいくつの誤りがあれば「少数」とするかも問題である)。意外なことに,第二言語習得研究の知見からこの観点に関して言えることはほとんどないと言っていい。「誤りの重み付け」に焦点をあてた前述のFosterらの研究が「新しい評価法考えたったー!!」と言ってAnnual Review of Applied Linguisticsの最新号に掲載されているくらいだから,本当に研究されてこなかったのだろう。博論が終わったらこういう問題に取り組みたいとは思っているが,誰か「面白そうだな」と思う方がいらっしゃったらどんどんやっていただきたい。というかむしろ誰かやってくださいという感じだ。

かなり脱線したが,3単現の-sは本当に厄介者である。というかむしろ,「数の一致 (number agreement)」という事象自体が実はかなりの厄介者なのである。結論を言うと,文法習得を専門に研究している私から言わせてもらえば

3単現の-sをなめんなよ

である。そして,文法の正確さばかりに目くじらを立てる英語教師(含む過去の自分)は全員引退した方がみんな幸せになると思う。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。