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文法の明示的指導研究について思うこと

明示的指導について前々から思っていたことを書きます。

文法に対する明示的指導の有効性は,文法指導研究における主たる関心のひとつです。明示的知識が自動化されるという立場でも,明示的知識が間接的に暗示的知識の習得に寄与するという立場でも,「明示的知識の習得には意味がある」→「それを促進するであろう明示的指導をやる」という流れにすごく雑にまとめるとなると思いますので,その有効性を主張しようとするのは(とりあえず)ここでは問題にしません。私がずっと疑問に思うのは,その前提の部分です。

研究の対象に,大学生が選ばれるケースは結構あります。これはいろんな研究に当てはまるでしょう。大学生以上のある程度熟達度の高い学習者を見たい,あるいはそうでないと見れないものを見たいという動機のばあいもあるでしょう。それは問題ありません。私が気になるのは「中高6年間の英語教育を受けた大学生でも誤用がある」みたいなケースです。これが,「ある程度熟達度が高くても誤用がみられるのでその原因を理論的に探る」とかいう研究の出発点になるならそれはすごく面白いと思います。このモデルでその原因の説明つくとかそういう研究。そういうことは大いにやるべきだと思います。しかし,その「大学生でも誤用が見られる」という現象に対して「教わったことがないのだ」という解釈をしようとする(あるいはそうだと言い切ってしまう)のはちょっと待ってと思います。その教わったことがないっていうのはどうしてわかるの?という問題です。それが,「参加者がそう言っていた」という程度の証拠に基づいた発言ならば,それを信頼できるデータとして疑うことってないのですか?と聞きたくなるわけです。「教わったことがない」というのは,「学習していない」という意味でしょうが,それは「指導していない」と必ずしも同じことを意味しないのではないでしょうか。「指導は受けたけれど学習しなかった(色々な要因があってまじめに取り組んでいなかった)」ということもあるでしょう。また,「学習はしたけれど,覚えていない(のでできない)」ということもあるでしょう。さらに、明示的な知識が一回の指導介入で長期的に伸びるということは,先行研究で支持されていることでしょうか?

「教わったことがない」という人たちはそういった可能性は考えないのでしょうか。「教わったことがないっぽいから教えました。うまくいきました。明示的指導効果ある!」という主張の研究をみると,じゃあとりあえず1年後に遅延テストやってみましょうかねとか言ってみたくなります。ものすごくマニアックな項目(例えば僕がCELESで発表した「非断定的述語」とか)なら教わってないだろうとか言ってもまあまあ説得力があるかもしれません(だって「英語教育研究者」すらなにそれって感じでしょうから)。

しかし例えば自動詞・他動詞みたいなのは本当に「教わらなかった」のかなとか思ってしまいます。ある個別の文法項目に対する明示的な指導が中学や高校時代にあったかなかったかは調べようがないので,「インプットが少ない」というならまだわからなくはありません。教科書に登場する回数が少ないというようなことがデータによって示されるケースです。それでもこの手の論の運び方の問題は,「そもそも教科書に書いてあるものがどれだけ中高生のインプットになっているのか」ということと,「教科書に書いていないことは教えていないのか」ということです。ある特定の項目に対する介入効果をみようとするとき,それが「規則の明示的説明」という明示的指導を指すことは少なくありません。そこで私はこう問いたいです。それやるならもっと面白い「明示的指導」を考えませんか,と。

研究の結果に対して中立的になるならば,「今回の結果は明示的指導の効果があったというだけであって,明示的指導を推進することはしない」という主張もあるのかもしれません。しかしそうであるとすれば,その研究って誰がハッピーになるのだろうかと。明示的指導の効果を検証する研究のゴールはそういった研究を蓄積していって最終的には項目間の差を明らかにするということだと私は思っています。ということは,最終的には,明示的指導に効果のある項目は明示的指導をしましょうとかなっていくはずですよね。しかしながら,その明示的指導がプリントにただただ規則が書いてあってそれを渡して教員が読むなんてそんな工夫のくの字もないような指導のことだったとしたらー規則が与えられるだけでいいのだとしたらーその辺に売ってる文法書を読んだ人はその文法マスターするはずじゃないのと思うわけです。

また,明示的指導の効果としての明示的知識は長続きしないと言われています。しかしながら,明示的知識にもその後のインプット中の気づきの機会を増やすという役割が主張されることがあります。であるとするならば,そういった明示的知識の役割に焦点をあてた研究のほうが,教育的示唆もあるのではないでしょうか?あるいは,明示的知識が維持されるような継続的な介入法を探るというのも1つの方法かもしれません。

要するに,「授業としての指導介入」という視点をまったくもたないような(もっているのか疑わしいような)文法指導研究は,その結果をどこに還元したいの?という点で非常に疑問が多いということです。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

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