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文法知識の手続き化の謎(Sato and Kimのレビュー)

下記論文を読んでちょっとしたレビューというか考えたことを書き留めておこうと思います。

Sato, M., & McDonough, K. (2019). Practice is important but how about its quality? Contextualized practice in the classroom. Studies in Second Language Acquisition. Advance Online Publication. doi:10.1017/S0272263119000159

ざっくりとした内容は,WH疑問文の習得について,教室内で教師とのやりとりという形での”practice”を5週に渡って繰り返していくと,当該項目の手続き化が起こるかどうかという話です。従属変数は正確さと流暢さという2つの側面。それから,練習セッション前の段階での宣言的知識が,練習での伸びとか練習後の正確さを予測するかというのも研究課題です。

宣言的記憶,手続き的記憶,手続き化

本当は,この辺の用語の説明省こうと思っていましたが,やはり自分の理解と論文でどういう捉え方しているかを照らし合わせたほうがいいと思ったのでこの節では用語の理解の確認をします(そもそもそんなものが必要な概念ってなんなのってなりますけど)。論文に書かれている内容自体に興味があるという方は読み飛ばしてください。

宣言的記憶(declarative memory)は,規則に対する(または規則そのものの)知識であると言われています。キーボードのタイピングの例(嫌いな人は嫌いな例ですけど)でいえば,キーの位置の規則といえばいいでしょうか。または,どのキーをどの指で押下するかという知識と言ってもいいかもしれません。タイピングに慣れないうちは,意識しながらキーの位置を確認して押下しますし,スピードもゆっくりですよね。それが,タイピングの練習を重ねるに連れて,だんだんキーの位置がわかってきて,指の使い方も慣れてくるので押し間違いが減ってスピードがあがると思います。これをスキル習得理論から捉えれば,宣言的記憶から手続き的記憶(procedural memory)に頼った行動に徐々に変化しているということになります。これが手続き化と呼ばれるものです。そして,その状態でさらに練習を続けていけば,キーの位置を確認しなくても「体が覚えている」状態になると思います。いわゆる「ブラインドタッチ」みたいなものができるようになるわけですよね。これが自動化(automatization)です。

手続き化というのはこの論文では,なんらかの行動の正確さとスピードが向上することとであると解釈していいと思います。冒頭のイントロでそのような説明がされているので。同じ行動を何度も繰り返す(練習を重ねる)ことによって,ある行動の正確さとスピードが向上するということです。スキル習得理論(Skill Acquisition Theory)はここでいう正確さとスピードの向上というのが,頭の中のシステム自体の変容だと捉えます。つまり,宣言的記憶(declarative memory)に頼った状態から徐々に手続き的記憶(procedural memory)に移行する,これを手続き化(proceduralization)と呼びます。

宣言的知識はあったのか

さて,論文の内容に入っていきます。私がこの論文で一番もやっとしたところは,宣言的知識・手続き的知識というスキル習得理論を理論的枠組として援用ているにもかかわらず,宣言的知識とは何を指すか,そして手続き化とはどのようなプロセスかといったようなことを無視して無理やり結果を解釈しようとしている点です。

まず,知識の手続き化には宣言的知識を持っていることが不可欠です。宣言的知識を持った状態で練習を重ねることにより手続き的知識を獲得し,それが自動化していくというのがこの理論のベースにあるからです。だとすれば,宣言的知識のテストで宣言的知識を学習者が持っていることを事前に確かめる必要があるでしょう(もちろん,実際にテストはやっています)。ここにばらつきがなければそもそも回帰分析もうまくいかないはずなので,ある程度ばらつきがある学習者を対象にするというのはわかります。そうは言っても,事前の宣言的知識テストのスコアの平均値は59%SD25.12です。正規性の逸脱はしていないという報告があるので正規分布だと仮定すると,半分以下しか正答できなかった学習者もいると考えられます(注1)。そして,平均値で59%も決して高いとは言えませんよね。そのようなテストスコアしかなかった学習者は,果たしてどうやって手続き化したのでしょうか。というか,そもそも手続き化できたと言っていいのでしょうか。Wh疑問文の生成にはwhの移動やsubject-auxiliary inversion, 一般動詞の場合はdo挿入もあります。これらが複雑に組み合わさる文法だからこそ,その中のどの部分の知識はあってどの部分の知識はないのかがわからないと,何の宣言的知識があったのかやその手続き化もブラックボックス化してしまうのではないかと思いました。

行われたcontextualized practiceについて

疑問文の産出をある程度コントロールしながら教室内で意味のあるやり取りを,というのはわかります。その中で最大限できることをやったのだということも。ただ,画像とともに疑問詞が一緒に提示されて,それをもとに疑問文の産出が行われたというのはちょっと引っかかります。あくまで”practice”だからと言われたら何も言い返せませんが,コンテクストを大事にするということをauthenticityを大事にするということだと理解して読み進めた私からすると,それが”contextualized”かあという感想になります。結局,疑問文の生成にかなり意識を集中させることが可能であるという状況での口頭産出練習活動ということですね。結果的には,そういった状況で練習を重ね,ある程度その効果があったとしても,最終的に正確性は65%程度にしかならなかったのだというのは結果を解釈する上で重要なポイントでしょう。

それから,宣言的知識の影響を調べる分析では5回のセッションのうちの2, 3, 4が合計されて1と5は省くという処置をしたということが書いてあったのですが,”so as to avoid the independence of observation for the inferencial statistics”(p.13)というロジックがよくわかりませんでした。隔週でタスクの内容が異なるので,これやるとそのバランスが崩れてしまうのではと思いました。まあそこに突っ込むとそもそも複数クラスでタスクの順番のカウンターバランスとか取っているわけでもないので,ここで言われている流暢さや正確さの発達が単純に時系列の変動だけによるものとは言えないでしょう。タスクのタイプやそこで扱われたテーマによる変動も含まれているはずです。

また,対照群の設定もありませんので,研究自体はケーススタディとして扱われるべきものかと思います。「教室環境だから仕方ない」だけでこのあたりの実験デザインの粗さにすべて目をつむっていいわけではないと個人的には思いますので,今後別のデータでも同様の研究が重ねられていくといいのかなと思います。

事前の宣言的知識の手続き化への影響

結果で,練習前に行った宣言的知識のテストスコアは正確さや流暢さの発達を予測しなかったということが言われています。つまり、事前の宣言的知識を測る文法テストのスコアが高ければ高いほど正確さや流暢さが伸びやすい、あるいはスコアが低ければ低いほど伸びないという現象やその逆で高ければ伸びにくい、低ければ伸びやすいというような関係性がみられなかったということになります。このことを、著者らは次のように解釈しています。少し長いですが引用します。

Interestingly, the scores of the declarative knowledge test, administered prior to engaging in contextualized practice, did not predict the extent of the practice effect on accuracy or fluency changes. This result indicates that having declarative knowledge of a grammatical structure may not be related to the development of the procedural system of that structure when practice is considered as the cause of the changes. Accordingly, it could be said that contextualized practice alone facilitates a positive change in accuracy, on the one hand. On the other hand, the result seems to challenge skill acquisition theory in that learners may not need an explicit understanding of a grammatical structure to benefit from contextualized practice. However, in the current study, all learners possessed some declarative knowledge of the target structure. Hence, it is premature to argue that practice alone is sufficient to develop procedural memory of a grammatical structure. What the results suggest is, instead, that the amount of declarative knowledge was not related to the extent to which each learner benefited from practice (p.21).

事前の文法テストスコアとの相関がなかったことは、知識がなくても練習すれば良いということは意味しないという主張です。その根拠として、参加者の知識がゼロではなかったからと言っています。つまり、なんらかの知識は持った状態で練習をすることの意味はあるということです。ただし、どのくらい知識を持っているかは関係ないとも言っています。しかしながら,これは矛盾していると思います。これをサポートするには、知識の閾値みたいなものを想定する必要があるでしょう。つまり,知識がないとダメであり、かつ知識の量が関係ないとすれば、ある一定程度の知識が必要で、その先のレベルの知識は関係ないという想定になるはずです。そうるすと,その閾値とはどこなのか,その閾値が意味することはなにか,が重要になってきます。これを突き詰めると,前述した宣言的知識のテストスコアの解釈や,それが何を測っているのかという問題に再びぶつかるわけです。

まとめ

まとめると,Sato and Kim (2019)はタイトルがちょっと煽りすぎでは?と思います。確かに,practiceといっても機械的な口頭産出練習じゃだめだ,もっと文脈依存でコミュニカティブなインタラクションの中での練習でなくては,という主張自体はわかりますし,そのことを文法知識の手続き化という理論的な枠組みを当てはめて研究に落とし込んだのは面白いと思いました。ただ,宣言的な文法知識とはいったい何なのか,そして文法的知識が手続き化するとはどういうことなのか,という部分が分野として確立されたものが提示しづらいところが原因で疑問が色々浮かぶ研究かなというのが個人的な感想です。こういうところに失望して教室SLA研究を「研究」としてやることに対しての意欲を自分は失ったんだなぁと再確認することとなりました。論文を読んでからずっと放置していて公開までに3ヶ月かかってしまいましたが,とりあえず,私がこの論文を読んだ感想はそんなところです。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

 

注1: Rのrnorm関数を使い,n = 34, m = 59, sd = 25.1として乱数を発生させ,その中で50を下回る人数を数えるというのを10,000回繰り返すと,中央値は12人,最小値は3人,最大値は20人でした。

タスクタイプとengagementの関係

久しぶりに論文の簡単なレビュー的なものを残しておきます。下記の論文です。

書誌情報
Dao, P. (2019) Effects of task goal orientation on learner engagement in task performance. International Review of Applied Linguistics in Language Teaching. Advance Online Publication doi: doi.org/10.1515/iral-2018-0188

ざっくりとした概要

独立変数

convergent task (意思決定タスク)とdivergent task (意見交換タスク)の2種類
 

従属変数

  • cognitive engagement: idea unitとLanguage Related Episode (LRE)
  • emotional engagement: タスク遂行中に楽しんでるかどうか(笑ったりしていると1とカウントされる)
  • social engagement: 相手の発話への貢献(acknowledging, repeating, commenting, developing each other’s idea, or providing backchannels)
 
これら3つの変数は,全体のターン数で割って比率として分析しています。この他にもemotional engagementについては質問紙調査を実施しています。(5項目で10ポイントのリカートスケール)
 
例:
  • I felt enjoyable when interacting and doing the task
  • I felt interested when interacting and doing the task
  • I felt bored when interacting and doing the task (おそらく逆転項目)

詳細に見たかった部分

 
どんなタスクをやったのかというのが一番気になるところでしたが2つのタスクはそれぞれ次のようなものです。
 
 
意思決定タスク
自分たちの通う大学の問題点をいくつか挙げ,それに対する解決策を提示する。タスクの最後に,問題点と解決策をリストアップしてレポートを書く。問題点と解決策については合意が必要。

意見交換タスク
ペアの相手と共同経営することになった新しいビジネスについて,オンラインショッピングのシステムを作るか,実店舗での店頭販売をベースにするかについてのディベートタスク。タスクの最後に自分の主張の根拠となる理由と,相手の主張に対する反論をリストアップし,それをもとにしてどちらが良いかについてのレポートを書く。論文中には記されていないが,おそらく学習者はランダムにどちらかの立場に立って議論するように求められ,最終的なレポートについても決められた立場から主張を述べなければならないことになっている。2つのタスクの比較については下記の表参照。

 

 
 
Outcome optionの”opened outcome”というのは,答えが決まっていない(学校の問題点や,オンラインショッピングのほうが良いと主張する理由等については学習者の考え次第)という意味で,「誰が犯人かを推測する」,「バラバラの物語の一部を正しい順序に並び替える」といった答えが決まっている問題解決型のタスクとは異なるという意味(だと思われます)。
意思決定タスクは合意に向かう議論になりすが,意見交換型タスクは自分の立場を主張し,相手に反論するだけで,合意形成は求められないというのが大きな違いです。この2つのタスクについて言いたいことがあるのですが,とりあえずそれは後で述べるとして,結果のまとめとして下記の表を見てください。
 
 
 
 
2つのタスクを比較して,統計的な有意差が認められたのはcognitiveとsocialのみでした。emotionalについては,タスク中の発話に基づく分析も,質問紙に基づく分析(本文中のTable 3)もともに統計的な有意差は認められず。この結果は,goal orientationがdivergentかconvergentかでタスク中のやりとりに違いが認められるということを示すとともに,Pica et al. (1993)で言われているように,divergent型の意見交換型タスクは学習者のインタラクションを促進するかという観点において”least effective”であるということを示していると著者は結論づけています。
 
 
LREについては,意思決定タスクのほうが高いという結果が出ていますが,そもそもの回数が少ないので結果の解釈には注意が必要だと述べられています。意思決定タスクでも,1回のタスク中(10分)で平均して2.44回しかLREは出現していません(しかもSDが平均値に近いくらいの値なので,0回というペアもかなりあったことが推測されます)。
 
 
Emotional engagementについては,goal orientationが違うことはあまり影響しないという結果でした。意見交換型のタスクでも,質問紙の結果では10段階で平均8.2(意思決定タスクは8.45)ですから,どちらのタスクもemotional engagementは高いのだろうと思われます。ただし,どちらもSDが5を超えている点には注意が必要になります。
 

タスクの問題点

意見交換型タスクが意思決定タスクに劣ったというのは,予め立場が決められていたことが問題なのではないかと思います。自分が与えられた立場に同意できればともかく,ディベートの場合必ずしも自分の意見と一致する立場で主張を述べなければならないことも多く(コレ自体はcritical thinking的な意味で言えばそこまで問題とも思わないが),それがengagementを低くしてしまったという点もあるように思います。ディベートはどちらの立場からも意見を述べられるようなトピックを扱うのだと言われたらそれはそうかなと思いますが。
 
 
また,意思決定タスクが自分たちの学校についての問題であるのでトピックに対する親密度も関係があったのではないかという点も指摘ができるかもしれません。モノローグタイプのタスクではありますが,トピックの親密度が高いほうが発話が豊かになるという指摘もあります(Qiu, 2019)。
 
 
意見交換型はビジネスの問題で,普段からこの問題に関心がある学生だったのかどうかがわかりません。ビジネス系の学生であれば背景知識も豊富でたくさんのidea unitが出てきたでしょうけれど,そうではない場合にこの問題を語るのは難しい気もしますし,英語の熟達度的にもこちらのほうが専門的な用語が多く必要となってくるのではないでしょうか。もっとも,p.7のセクション2.4のすぐ上のパラグラフで
 
With regard to practical reasons, both tasks were included in the learners’ syllabus and course materials, and the teachers of the participants reported to have used them frequently in their previous teaching activities. The two task topics (university issues and shopping) matched the themes covered in the learners’ theme-based course materials. To reduce a possibility that task topic might have impacted learner engagement, the two topics were selected based on the informal survey that reported university and shopping topics as the learners’ two most favorite topics.
 
という記述はあります。査読者に指摘されたのか,あるいは最初から書いてあるのかは定かではありませんがトピックの親密度という観点についてはディフェンスしてあります(つまり,著者もそういうことを言われるだろうという認識はある)。
 
 
とはいえ,あえてトピックを変えなくとも学校の問題点と解決策というトピックに固定して,意思決定型は合意を求め,意見交換型はおのおのが思う問題点と解決策をペアでシェアするという構成でもよかったように思います。というか,そちらのほうが「意見交換型」としては個人的には問題なく受け入れられます。ただし,debateという相手への反論が要求されるようなものでなければ,今回観察された以上に意思決定型との差が大きくなってしまうかもしれないとも思います。debateという形式を取ることで,相手の言ったことに対してただ単に「へー」で終わらせることができなくなっているという点はあるでしょう。そうした点で,合意を求めずともインタラクションが活発になるように仕組むための工夫がdebateを持ち込むという結果になったのかもしれません。
もう一つ個人的なことを言えば,ディベートという形式を取らない私が考えているような意見交換型タスクであれば,多様な意見がかわされればかわされるほど盛り上がることが見込まれるので,2人よりは3人,3人よりは4人というグループ構成で行ったほうが議論が盛り上がるのではないかと思います。1人で様々な角度から物事を分析的に考えて意見を提示できるような学習者同士のやりとりであれば2人でも議論は大いに盛り上がるでしょうけれど,大学生1年生や2年生でもそうしたことが2人で成立することがそこまで一般的に当然として考えられるとは言えないと思うからです。
 
 

この論文のポジティブな点

とまあいろいろ言いましたが,この論文の著者の狙いとは違うかもしれませんが,この論文を自分がポジティブに受け止めている点もあります。それは,タスクに関わる変数ではなく,タスクのタイプを主題として取り上げていることです。もちろん,上のTable 1のようにタスクをある観点(変数)で見たときに違いがあるということではあるのですが,実際にはdivergent-convergentという2つの異なるタイプのタスクを比較しています。これまでのタスク研究は,良くも悪くもタスクを操作する際の要因に着目して細かく検証することが多かったように思います。それも意味のあることで,準備時間の有る無しであったり,タスクの難易度を操作してみたり,というのは教育的示唆という観点でも有益でしょう。これらの要因は教師が操作することができるわけですから。一方で,現実的にタスク・ベースのコースを作ろうとシラバスを考え始めたとき,そのベースになるのはタスクを調整する変数ではなく,どのようなタイプのタスクにどのような順番で取り組ませるべきなのかということになるのではないかと思います。直感的に,意思決定タスクと情報伝達タスクを比較したら前者のほうが難しいから情報伝達が先にくるべきだろうのようなことは考えられます。ただし,タスクタイプの観点から見て,タスクの難しさやその要因を整理するということについていえば知見の蓄積がまだまだ乏しいように思います。

私が今関わって作っている教材もタスクタイプごとに整理していますが,タスクタイプという切り口は直感的に捉えやすく,異なるタスクの比較が見えやすくなります。そういうタスクのタイプという要因を正面から取り扱っているという点で,この後に続く研究が楽しみになってくるかなと思っています。ただし,従属変数のengagementについてはもう少し何か他の変数がないのかなということを思ったりしています。

おわりに

タスク系に正面からタックルした研究というのをなかなかできていないので,こういう論文を参考に何かできないかなと考えたりしています。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

 

参考文献
 
Pica, T., R. Kanagy and J. Falodun. 1993. Choosing and using communication tasks for second language instruction and research. In G. Crookes and S. M. Gass (eds.), Tasks and language learning: Integrating theory and practice, 9–34. Clevedon: Multilingual Matters.

 

Qiu, X. (2019). Functions of oral monologic tasks: Effects of topic familiarity on L2 speaking performance. Language Teaching Research. Advance Online Publication. doi:10.1177/1362168819829021

 

タスクにおける”sub-goal”という概念

はじめに

下記の本を月例の研究会で1章ずつ読んでいます。

Recent Perspectives on Task-Based Language Learning and Teaching

Ed. by Ahmadian, Mohammad / García Mayo, María del Pilar

この本全体については,Cognitive-Interactionist, Sociocultural Theory, Complexity Theory, Pedagogic and Educationalという4つのperspectivesからなる12章の本で,個人的には通読するよりも気になった章だけつまみ食いするという読み方がいいかなと思います。正直言ってあまりおもしろくない(質があまり高くない)チャプターも結構ありますので。

 

第7章がおすすめ

この本の第7章は,Martin Bygateが書いた”Dynamic Systems Theory and the Issue of Predictability in Task-Based Language: Some Implications for Research Practice in TBLT”という論文です。タイトルにDynamic Systemsと書いてありますが,そこまでDSTを推しているということではなく,「タスクってさ,何かやらせてみてもどんなことが起こるかわからないしリアクティブに教えるのがいいっていうけどやっぱそういうの不安だもん」みたいな言説について,predictabilityが一応ありますよっていうことを言うための理論的基盤としてDSTを持ってきているという印象です。それをベースにして,ケーススタディ的にデータを見てみるというようなのがこの論文の流れです。

この章を読むまでは,「この本は失敗だったかもしれない」と思うほどがっかりさせられるようなものが多かったのですが,この第7章は面白いなと久しぶりにワクワクしました。もちろん,ちょっとそれはどうなのと思うところもあるにはありました。ただ,それを差し引いても面白かったです。

 

何がそんなに面白かったか

一言で言えば,この記事のタイトルにもしている”sub-goal”という概念を導入している点が個人的にはこの論文で一番inspringだと思ったところです。示しているデータはおそらく過去の研究のものでしたし,特に分析をしっかりしているということではないのですが,それでもこの”sub-goal”というものはTBLTの研究でいろんなことができそうだなと思えた,そう思わせてくれるような内容でした。もちろん,実践においても示唆があることだと思いました。

sub-goalとはなにか

TBLTをご存知の方には馴染みのあることだと思いますが,タスクにはゴールがあります。spot-the-difference taskなら2つの絵の間にある違いをすべて見つけ出すことがゴールですし,picture description taskなら絵(または写真)を見ずに口頭で描写し,もとの絵(や写真)にできるだけ近いものを完成させるというのがゴールになります。この章で例として用いられているタスクは,6コマ漫画を6人で分割して1人が1コマずつ持ち,見せ合わずに正しい順番に並び替えるというものです。この場合,「正しい順番に並び替える」というのがゴールになります(注1)。

Bygateが言っているのは,このゴールに向かう前の段階にいくつかのphaseがあるということです。どんなphaseかというのを説明する際にBygateは,pragmaticとかdiscourseとかいう言葉を説明の際に使っています。少し長いですが,このphaseについて説明している箇所を本文から引用します。

A phase was defined in terms of the pragmatic coherence of a stretch of discourse which while not in itself achieving the overall task goal, likely contributed to achieving a useful enabling sub-goal. For instance, descriptions of the individual pictures in random order would contribute to the sub-goal of sharing information about the pictures, but would not themselves achieve the overall goal of sorting out the sequence and telling the story (even if by chance the students did actually provide the descriptions in the exact sequence of the narrative). Similarly, discourse during which students exchanged information about what they thought was going on in their respective pictures could not be interpreted as ‘telling the story’ either. Where students spent time suggesting potential sequencing of the pictures (still without seeing them), possibly accompanied by brief justifications, this kind of talk too contributes to a potentially useful subgoal, but still does not constitute the ‘telling of the story’. Hence the macro-purposes of the different discourse phases were inferred in relation to the pragmatic criterion: what are the speakers jointly trying to do at this point? Identification of phases enabled an assessment of the trajectories that the groups followed (p.155).

上の引用中では,”(sorting out the sequence and) telling a story”というのがタスクの最終的なゴールで,そこに到達するために有効なやりとりや言語行為をphaseとしています。複数コマ漫画の並び替えならば,まずは個々人の持っている写真を描写することからスタートすると予測されるので,それが一つのphaseになるというわけです。そして,自分の写真とグループメンバーの写真についての情報を全員が持った状態で,それぞれの写真に描かれている情報の違いを見つけることになります。そして,「いったいどんなストーリーなのだろうか」という話をしながら前後関係を特定していくことになると予想されます。これらの段階もすべてphaseであると。そして学習者はこういった複数のphaseを経て,最終的なゴールに辿り着くというわけです。

Bygateは,複数コマ漫画並び替えタスクでは次の5つのphaseがあるとしています。

  1. Description
  2. Comparison
  3. Interpreting gist
  4. Sequencing
  5. Narrative

ちょっとなんでだろうなと思ったことは,タスクの特性などから予測してこのphaseを導出したのではなく,実際の発話の書き起こしを分類してそれぞれのラベルを貼ったという点です。その後に,結果の解釈として,「複数のグループでタスクをやらせたけど,ほとんどのグループのタスク遂行中の発話に5つのphaseが見られた」みたいな議論に持っていっているのです。そして,このことから学習者たちのやりとりは予測可能なtrajectoryを通ってゴールに向かうという話につなげています。もともと発話データから導出した概念なのだから,導出に用いたものと同じ発話データにphaseが見られるのは,複数グループで見てみたとはいえある程度当たり前なのでは…という話です。さらに,もし仮にそこに違いがあり,違うグループでphaseの種類や用いられた数が異なっていたとすれば,最初に設定した5つのphase自体がそもそも分析に役に立たない枠組みだということになりますよね。この点については謎です。

また,個人的に気になったのは,最終的にタスクを達成できたかどうかと,用いられたphaseの数自体には関連が見られなかったという点です。例えば,分析している5つのグループのうちで3のgetting gistが見られなかったグループが1つ,5のnarratingが見られなかったグループが1つ,2のcomparisonと4のsequencingが見られなかったグループが1つという記述がありますが,この3つのグループはいずれも最終的なゴールである並び替えには成功しているというのです。この部分については,例えばcomparisonがなかったグループはもしかするとズルして絵を見せあっていたのかもしれないというような考察がなされています(このグループは終わるのも早かったらしいです)。しかし,もし仮にタスクの最終的な達成と何も関連がないのであるとすれば,このsub-goalという考え方自体がそんなに大事なものなのか?という疑問も湧いてきます。

さらに,言語使用面についてはphaseによって特徴的な部分が見られなかったと考察しています。つまり,同じphaseなら同じような言語表現が用いられるというようなことはなく,同じcomparisonというphaseでもグループごとに様々な表現を用いて行っていたと書かれています。ただし,”linguistic domains“については予測が可能かもしれないとしています。このdomainの例として,下記のようなものがあがっています。

the language for expressing impressions, inferences and approximations; the language of description and for identifying similarities and differences; the language for expressing motivations and consequences; the language for sequencing; and the language used for checking understandings (p. 160).

素人考えでちょっと微妙だなと思うのは,このdomainというのはほとんどphaseのラベルと同じようなものなのではということです。会話分析みたいなことに明るいわけではないのですが,ここまで抽象度があがってしまうと,それが予測できたことで何に活かされるだろうかということは疑問です。

 

sub-goalという考えのなにがそんなに大事?

さて,なんか,sub-goalってなんか別にそんな大事じゃないじゃんと思っておられる方もいるでしょう。私もここまでは批判的に書いてきています。ここからは,「そうはいっても結構色々なところに通じる概念じゃないかな」ということを書きたいと思います。

先ほど,「タスクの達成とは関係ない」という議論がされていると書きましたが,もし仮にそれがそうだったとしても,教室場面での教育介入を考えた際にはsub-goalという概念は大事だと思います。まずは,授業の準備段階でsub-goalは役に立ちます。

 

タスクの作成・計画段階で有益

これはタスクに限ったことではないのですが,どのような言語活動を仕組むにせよ,教師は活動を考え,その手順を構想し,最終的にどこに辿り着くことを目指すのかを思案しますよね。その際に,活動に取り組ませたときにどのようなことが想定されるかを全く考えない教師はいないと思うのです。「きっとこんなことが起こるだろうな」とか,「こういうことになったらどうしようか」などと考えながら,事前に準備しておいたほうがよいことについては仕込んでおき,指示の与え方や順序を工夫したほうがよさそうならそのように対策を打っておくはずです。このとき,例えば事前にタスクのsub-goalがわかっていれば,学習者が起こす行動の予測がつきやすくなるといえます。冒頭にも書きましたが,タスクは(特にやりなれていないものをやる場合は)出たとこ勝負の部分もあり,何が起こるかわからないから事前にあれこれ教えてこちらの想定内でやってほしいという教師の思いも理解はできます。しかし,今後sub-goalという枠組みで様々なタスク遂行中に発生するsub-goalsが明らかになってくれば,「このタスクをやる際にはおおよそA, B, C, Dのような4つのphaseを通過すると考えられます」みたいな提案ができますよね。これが事前にわかっていれば,自分の教えている学習者との兼ね合いで準備が必要な部分や,そのタスクに取り組む前にやらせたほうが良いことを前時にやっておくというようなことができるのではないでしょうか。もっと言えば,sub-goalが目標になるような”sub tasks” を用意して,それらのタスクに取り組ませた後のもっと大きなチャレンジとしてsub-tasksが複合的に必要となるような別のタスクを用意するというようなことも考えられます。このように,タスクを構想したり,授業の計画を立てたりする際に,sub goalsが明確になっているということは大事だと思っています。

 

タスク遂行中の介入指導で有益

次は,実際に教室場面での指導において,sub-goalがわかっているということが役に立つ場面を考えたいと思います。あるタスクを与えて,学習者がそれに取り組んでいるとき,なかなかうまく言っていないことに教師が気づいたとします。例えば,複数コマ漫画の並び替えタスクで沈黙してしまっているグループがあったとしましょう。このとき,どのように促せばタスクのゴールに向かえるでしょうか。このときも,sub-goalはヒントになり得ると思います。例えば,5つあるphaseの序盤でつまづいているようならば,「まずは全員の持っている絵について描写して,自分の持っているものと他のメンバーの持っている絵の違いがどこにあるかを特定してみよう」という指示ができると思います。つまり,descriptionとcomparisonというsub goalを明示するということです。その先の,みんなの持っている絵の違いはわかったけど,そこから先に進めないというグループがいたら,「全員の絵の情報を統合して,ストーリーを考えてみよう」という指示も可能でしょう。もちろん,phaseは順番にこなさなければいけないということではありませんが,指針としてその場で与える分には問題ないでしょう。

そんなめんどくさいことしなくても,「じゃあ最初から,『まずは描写,そして比較,あらすじの解釈,並び替え,ストーリーの完成』というphaseをすべて提示してそのとおりにやらせればいいではないか」という意見もあるかと思います。学習者のレベルによってはそうした道筋を示すことも必要になってくるかと思いますが,Bygateは,phaseに完全な順序があることや,まったくoverlappingがないということを否定しています。

it is important to note that the phases do not imply total predictability. For one thing, the phases sometimes occur more than once in a single transcript, with students going backwards and forwards between, say, finding the gist and trying out a sequence (p.160).

また,「たとえsub goalsが明示されなくとも学習者たちは多かれ少なかれphaseを経てゴールに到達する(=予測可能性がある)」ということを言っています。つまり,phaseは与えられなくてもある意味でタスク達成に向かう試行錯誤の中で創発するということですね。それを手助けしてやることはあったとしても,最初からこの通りにやりなさいというのはtoo much interventionかなと個人的には思います。「正しい手順」や「理想的な手順」のようなものがあると学習者が思ってしまい,それに囚われすぎてしまう可能性があるからです。例えば,2. comparisonからいきなり4. sequencingに入ることも十分にありえることです。「まって,私の絵ではりんごは食べかけで,Aくんの絵ではりんごは丸々1つあるから,きっと私の絵はAくんの絵よりあとにくると思う」のような発話が起こることは歓迎されるべきで,「まって順番考えるより先にストーリーをつかもうよ」となってしまっては学習者の自由な発想が抑制されてしまうかもしれません。よって,sub goalを与えてそれに沿ってタスクを行わせることは有効な手立てとは言えません。

つまり,事前に教えてそのとおりにやらせることができるから役に立つというわけではありません。そうではなく,リアクティブな指導がやりやすくなるということです。教師自身がsub goalsを把握した上でタスクを用いれば,そのグループの状況に沿って,またはぶつかっている困難点に合わせてリアクティブに介入を行うことができると個人的には思っています。

事後のフィードバックで有益

sub goalという考えは,事後のフィードバックにとっても有効かもしれません。もしも,時間内にうまく課題を達成できなかったグループがあったとして,そのタスクにおいてsub goalsをいくつ達成できたかという点で見てみると彼らの課題が見つかるかもしれないからです。Bygateの示したデータでは,すべてのグループがタスクを達成したため,「phaseとタスク達成の関係」は完全には明らかになっていません。タスクを達成できなかったグループがいたとして,そのグループがもし仮にすべてのphaseを通過したのにできなかったとすれば,phaseはirrelevantということになります。しかしもしかすると,どこかでつまずいたことが原因でタスクを達成できなかったという学習者がいるかもしれません。絵の微細な点について,描写しなかった(またはできなかった)けれども実はその点が他の絵との違いで,その情報を全員で共有していればタスクが達成できたかもしれないということはありえます。別のケースで,sequencingでつまづいて終了してしまったとします。このときに,follow, precede, come before, come after, first, next, then, before, afterのような前後関係を表す表現がうまく使えなかったので並び替えができなったということがわかれば,その学習者たちに必要なのはこうした前後関係を表現する言語リソースが足りていないということになり,そこがteaching pointになるでしょう。言語面については,varietyが大きすぎて一貫性は見られなかったというのがBygateの結論でしたが,具体的な場面での話に限定すれば指導のヒントにはなるでしょう。

研究への示唆

研究という視点では,このBygateの論文からもう少し発展させた研究が必要だと思います。例えば,他のタスク(意思決定タスクなど)でも同じようにphaseの共通性は高いのかどうかや,同一タスクでタスクの諸条件(複数コマ漫画並び替えタスクにおけるコマの数やグループの人数の組み合わせ)が変わってもphaseに変化はないのか,などが気になっています。

また,Bygateは会話の書き起こしからphaseを導出していますが,そうではなく,教える側があるタスク中に発生すると考えられるphaseを予測し,それがどの程度実際の会話で起こるのかといったこともpracticalな意味で関心があります。

あとは,少し非現実的かもしれませんが,実験的な操作を加えて群間比較するというデザインも思いつきます。たとえば,複数のphaseの中で特定の1つを禁止するような指示を与えてみて,そのグループがどれだけタスク達成に困難を抱えるかを比較することで,タスク達成に寄与しやすい(または必須かもしれない)phaseを特定するというようなこともできるかもしれません。

おわりに

以上,Bygateが提案した,taskのsub-goalという点について,批判的に検討し,その後に,意義があると思われる点についていくつか述べました。やはり,タスクの中身,つまりタスク遂行中に何が起こっているのか,そうしたことを,sub-goalという概念で整理することを試みたことにこの論文の意義があると思います。DSTの枠組みにうまくfitしているかという点についてもやや疑問があったのですが,あまり詳しく批判できるほどの知識を持ち合わせていなかったのでそのあたりはまた別の機会にということにしようと思います。ということで,今回は久しぶりにTBLTに関するお話でした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注1. もちろん,仮にオリジナルのストーリーとは違う順番であったとしても,こちらの想定を超えたイマジネーションで別の順序でも筋の通った物語になるということがあれば,そしてそれを説明できれば,「正しい」順番ではなかったとしてもタスクのゴールを達成したと評価することもできると思います。

 

理論に暗示的知識が内包されたときのジレンマ

以前,教育効果を測定する目的で明示的知識と暗示的知識を測定し分けることの是非についてのエントリーを書きました。

https://tam07pb915.wordpress.com/2016/08/25/implicit-explicit-instruction/

そのときの結論は,「教育効果を測定するのに明示・暗示の話は持ち込まなくていいだろう」というものでした。ただ,理論のスコープが暗示的知識を含むととき,そうも簡単にいかない問題がそこにはあるなと最近(といっても書こうと思ってずっと書けてなかったので少し前)思ったので,その話を書きます。きっかけは以下の論文。

Zhang, X., & Lantolf, J. P. (2015). Natural or Artificial: Is the Route of L2 Development Teachable? Language Learning, 65, 152–180. doi:10.1111/lang.12094

ここで取り上げる理論とはいわゆる処理可能性理論(Processability Theory)です。これが理論足りうるかどうかはとりあえず置いてきます。処理可能性理論とは何かということは上記の論文を読んでいただくか,あるいは同じ号に提唱者のPienemannが書いた論文が載っていますのでそちらをお読み下さい。ざっくりいうと,学習者の言語発達は心理的・認知的な処理能力によって規定されていて,ある段階を飛び越えて次の段階に進んだりはしないという理論です。この理論と同じく紹介されるのが教授可能性仮説(Teachability Hypothesis)というものです(注1)。これは,教育的指導介入によって発達段階をスキップすることができず,学習者が今いる段階よりも上のレベル(正確には2レベル以上高いレベル)の言語規則を教授してもそれは習得されることはというものです。Zhang and Lantolf (2015)の論文は,この教授可能性仮説にそぐわないデータが得られたことを報告するというような趣旨の論文です。

こうした言語の発達段階や発達順序に関する研究が主たる関心としているものは,学習者の暗示的知識の発達であると考えられています。つまり,意識的な知識として知っているかどうか,明示的知識を持っているかどうか,ということではなく,暗示的な知識の発達に段階を規定するものです。例えばRod Ellisなんかは,暗示的知識の発達には発達段階による制約があるため,明示的な文法指導介入はそうした発達段階の制約を受けないと考えられる明示的知識の獲得を主たる目的とすべきであるという立場です。明示的知識は間接的に暗示的知識の習得を促す(weak-interface)というのが彼の立場なわけですから,この主張もうなずけます。

問題は,この「発達段階を教育的介入によってスキップできるかどうか」を問題にする場合,暗示的知識の測定が不可欠になってくるわけです。なぜなら,発達段階があるのは暗示的知識であって,明示的知識ではないと考えられているからです。実際,Zhang and Lantolf (2015)でも,guest editorのRod Ellisから「この研究の結果は明示的知識の発達を示しているだけで暗示的知識の発達であるとはいえないんじゃないか?」みたいなツッコミがあったそうです(p.174)。筆者たちの反論は,Pienemannたちが使っているような測定具と発達段階の決定規準(emergence criteria)を使っているのだから,もしこの研究がその点で批判されるのだとしたらそれは処理可能性理論や教授可能性仮説についても当てはまるじゃないかというような反論をしています。

で,一応Pienemann自身は同特集号の論文の中で,まず教授可能性仮説は処理可能性理論に含まれる必須の要素というわけではなく,理論というよりは実践の話で,いくつか研究でサポートされたからまぁプラクティカルにそうなんじゃねーのかみたいにしているだけで処理可能性理論はもっと緻密に作られた理論であるというようなことを言っています。つまり,教授可能性仮説は捨てても処理可能性理論は守られるっていう話なんですね。なんか強がりっぽいこと言ってますけど。でも多分なんですけど,SLA研究者のほとんどは処理可能性理論と教授可能性仮説に関連性あると思っているしむしろ理論の一部か派生かくらいには思ってるんじゃないですかね(実際僕もそう思ってました)?「みんな俺の理論を誤解している」ってそういうことなんでしょうか?百歩譲ってそうだったとしても,測定具の話は処理可能性理論にも及ぶわけなので,そこはちゃんと反論しなくてはいけませんよね。

測定具の話に関してPienemannは,elicited imitationとspontaneous productionを同一視してはいけない。elicited imitationはダメだがspontaneous proudctionは違うんだみたいなことを言っています。これって反論したようで実は全然反論できていなくて,前回も書きましたが,行動データで暗示的知識測定しようとしたらもう「産出データじゃ無理なんじゃね?」っていうのがここ最近の流れです。spontaneous productionってのが「elicited imitationとは違うものを測っている」というのならば,それが測っているものが暗示的知識かどうかも検証されないといけないですよね。でも,実際何が暗示的知識を測っているのかっていう問題の闇は深くて,そんな簡単なことではありません。

処理可能性理論のことを血眼になって研究している人ってこの問題どう考えているんですかね?もちろん,この問題は処理可能性理論についてだけではなくて,「言語発達の制約を受けるのは暗示的知識」という主張をするすべての研究者に当てはまります。この問題ってどうやったら論理的に,あるいは実証的に回避できるのか,有効なアイデアは考えてもパッと思いつきません。熟達度がそれほど高くなく,spontaneous productionで暗示的知識と弁別できないような明示的知識を使えないような学習者ならspontaneous productionでは暗示的知識を測定できるとかでしょうか?実際問題として処理可能性理論が対象にするような学習者は超高熟達度の学習者ではないわけですし。でもあまり有効な反論とはいえないですね。結局はパフォーマンス上に明示的知識の介入がないことを示さないといけないわけですから。うーむ。みなさんどう思います?

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

注1. Pienemannは同じ特集号の論文で,” …theTeachability Hypothesis is not a corollary of PT.” (p. 138)と言っていて,教授可能性仮説はPTの一部ではないようなことを言っています。

PPPいいよっていう論文

ELT Journalから,PPPいいよっていう論文が出たようです。

Anderson, J. (2016). A potted history of PPP with the help of ELT Journal. ELT Journal. Advance Online Publication. doi: 10.1093/elt/ccw055

 今年の全国英語教育学会のシンポジウムでもPPP vs TBLTが取り上げられますよね。タイミング良いというかなんというか。読んだらまたここに追記しようと思います。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

LMM?

Language Teaching ResearchでTaskの特集号が出ていました(裏話によると後づけで採択された論文を集めた特集号らしい)。そこで,とある論文を見たら,”linear mixed model analysis (LMM)”が使われたと書いてありました。

Focus on form through task repetition in TBLT

いわゆるLMEのことかな?と思いつつ読んでいると,固定効果とランダム効果をいれたモデルでうんぬんと書いてあるのでやっぱりそうかと。general linear modelというのは一般線形モデルなので普通の回帰分析や分散分析と同じだけれど,ランダム効果をいれたものは(general) linear mixed-effects modelと呼ばれる(ただし普通GLMMはgeneralized linear mixed-effects model)。つまりmixed effectsとつくものは変量効果をいれたもの。ちなみにgeneralized modelというのは確率分布が正規分布以外のもの。

結果のところを読んでいると,なんかF値とか報告されています。3つの2次交互作用と1つの3次交互作用がモデルに入っていると書いてあるのに交互作用項がどうなったのかとかの報告が一切ありません。そしてランダム効果の推定値も報告されていません。分析に用いたソフトウェア(RなりSPSSなりSASなり)の報告もありません。

??????????????????????????????????????

え?ていうかこれただ分散分析やっただけじゃないのか?

ちなみに,「GLM (general linear model)で分析しました」みたいなことが書いてある論文も以前みたことがあります。それって結局ただの分散分析ですよねみたいな。普通GLMはgeneralized linear modelの略です(APA第6版のp.119にもそう書いてある)。別に分散分析やったなら分散分析やったでいいからそう報告してほしいですね。なんか変にかっこつけてるのかなんなのか知らないですけど素人騙しでmixed-model使ったとかそういうの本当にやめてほしいです。ていうか査読でチェックされなかったんかいなこれっていう…

あまりLTRをdisると同じ号に載ってる先輩の論文にまで飛び火するのでこの辺にしておきましょう(※彼の論文は何も悪くありません)。

 

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

 

Schulz (2001)の感想

6/6に,名古屋大学にて第14回日英・英語教育学会(JABAET)研究会が開かれることになりました(詳しい内容はこちらから)。

そこで,論文批評というのがあり,私が文法指導のビリーフに関する次の論文の概要報告を担当することとなりました。

Schulz, R. A. (2001) Cultural differences in student and teacher perceptions concerning the role of grammar instruction and corrective feedback: US – Colombia. Modern Language Journal, 85, 244 – 258. doi: 10.1111/0026-7902.00107

私の概要報告のあと,JABAETの会長である安間一雄先生(獨協大学)より論文の批評があります。私に与えられたのは15分のみで,私のコメントは本番で話すことはなさそうなので,ここに論文を読んだ私の感想を書いておきます。

  • 質問紙調査というものを用いた調査としては極めて質が低いと言わざるを得ない。結果的に質問紙の1項目ずつのパーセンテージを恣意的に定めた10%という基準の差がみられたか否かの報告に終始していて,結局なにを測りたかったのが不明のまま。
  •  本来,質問紙によってある構成概念を測定することを試みる場合,それが適切に測定できているかの検証を行う必要がある。Schulz(1996)においてもそのような手順を経て質問紙の開発を行ったという記述が一切ない。また,文化的に異なる2群と,学習者・教師という2群が設定されているが,それぞれの質問紙が同じ構成概念を測定しているのかどうかも定かではない。したがってそのような質問紙を用いて得られた結果を比較することに本当に意味があるのかどうかも疑わしい。
  • 質問紙項目のワーディングにかんしても,”formal study of grammar”と”study of grammar”が指すものは同じなのか違うのか,あるいは”communicative ability”と聞いたときに回答者が思い浮かべるものは同じであるのかが疑問。
  • さらに,タイトルに有るのは”role of grammar instruction”であるのにもかかわらず,質問紙ではinstructionという言葉は使用されていない。教員側の質問では,なぜか”学習者がどう思っているかを教師がどう思うか”というような質問項目があり,これがなぜ”the role of instruction”に関する教師のビリーフを測定しているといえるのかも不明。学習者側からのlearningと,教師側からのteachingが完全に一致することはないとはいえ,教師側の設問文をみると教師の指導観に関する質問であったり学習者の教師観に関する質問であったり,一見してこれらが教師のビリーフを測定しているのかが疑問である。ただし,理論的な背景に基づいて教師の指導観という構成概念の下位尺度として,教員の指導観と学習者が教師や教師の行う指導に対してどのように感じていると思うか,という2つの構成概念を仮定するならば話は別であるが。
  •  誤りの訂正に関しても同様で,recastsのような暗示的訂正から,規則の説明までも含むようなかなり明示的訂正までかなり幅がある上に,スピーキングとライティングというモードの違いでも訂正の出し方,またその訂正のあと学習者になにを要求するかもかなり変わってくる。2001年時点でもCFでこのような区分がされていなかったということはないはず。
  •  「明示的指導」にも様々なバリエーションがあるのと同様に「誤り訂正」にもバリエーションは豊かである(むしろ前者のバリエーションはかなり無視されている感があるが)。これらの指導効果のメタ分析をするにあたっても,調整変数分析で細かく検討されるわけで,「明示的指導」や「誤り訂正」に対するビリーフといった構成概念を測定する場合にも,これらが捨象されてはかなりぼやけたものしかみることができないはずだ。
    こうした「粗さ」がすべてと言っても過言ではない。何度もいうが,結果的になにが明らかになったのかがわからない。この項目ではこっちの差があってこの項目では差がなかったとか言われても質問紙(とも呼べない代物だが)の1項目の1反応(の5段階をさらに3段階に圧縮している)の差(10%だったら差ありで9%だったらなしという恣意的基準に基づく)なんてもので何かを言おうとするな。私自身が「測ること」に対して厳しいところにいるからとかそういう問題ではなく,この質問紙に何も思わないって人がいたら結構ヤバイだろうと思う。
  • この研究の成果を結局どこに還元したいのかが不明瞭。実際に教室で言語を教える実践者に対して,学習者と教師自身のビリーフが異なっているようなことはないか,そこに気をつけるべきであるということなのかと思って読み進めると,最後には教員養成のおいての,というような話も出てくる。教師のビリーフがSLAの文献に基づいているかそれとも自身の学習経験に基づいているか,というアメリカとコロンビアの比較も,そもそも文化的差異というよりかは教員養成プログラムにおいてSLAや応用言語学,外国語教育研究の文献を読んだ経験があるかどうかが大きいはずである。研究の成果はほとんど英語で書かれているわけであるから,教えている言語は違えど,アメリカの教師(英語母語話者)がそのような文献にアクセスして読むことと,英語を外国語または第二言語として学習した教師が英語の文献を読むことを比べれば,明らかに前者の方がハードルが低いはずである。日本に限って言えば和書でSLAや外国語教育研究の概説書もそれなりに出版されているわけだが,英語教員の中で,教員養成の段階で(実際に教壇に立ってからでもいいが)どれほどの人が「研究の成果を参照しながら自分の指導を考える」というような経験をしてきたのだろうか。修士課程を出て教員になったり,または大学院に戻って勉強したという教員ならば,学術書や専門書を手にとることもあるだろうが。
  • 自身の経験に基づいて教えることがなぜダメで(ダメとははっきり言っていないがこういう対比されるとそう読めてしまうのは深読みし過ぎかもしれない),どうしてSLAを参照している方がよいのかという観点も述べられておらず,外国語環境で教える語学教師は自身のビリーフに依っていてアメリカではSLAちゃんと参照しているとか言われても(しかもそれが少人数のインタビューと自分の身の回りにおいての話だけに基づく主張),だからなんなのかとなるしそれが明らかになったところで分野がどうなるのかと思う。常に知識をアップデートし続けるべきなのだというのならばそれはうなずけるわけだが,SLAといっても玉石混交で細かい部分では「ジャスティス大会」がずっと続いており,「どの文献を参照すべきか」は研究者でも難しい問題なのではないだろうか(いわんや教師をば)。

とにかく表が多くて項目ごとにパーセンテージをひたすら比較するだけで読みづらく,何がわかったかもあやふやで,それがどう説明されるということもなく,悶々させられました。10年以上も前だからしょうがないよねって感じでもないしModern Language Journalは昔は今ほどレベル高くなかったというのはこういうことなんだなぁと思ったのでした(遠い目

おしまい。

なにをゆう たむらゆう

 

読解や聴解と語彙サイズ

Language Teachingにまたこれ系の論文出ましたね。

Schmitt, N., Cobb, T., Horst, M., & Schmitt, D. (2015). How much vocabulary is needed to use English? Replication of van Zeeland & Schmitt (2012), Nation (2006) and Cobb (2007). Language Teaching. Advanced online publication. doi: 10.1017/S0261444815000075

僕自身語彙とかの研究やっているわけではないのですが,「現場受け」しそうだよなぁという印象はありますこういうの。Language Teachingは明示的にreplicationとうたっている研究が最近多い感じしますね。それはいいことだと思います。

ちなみに,今年度後期の授業でvan Zeeland & Schmitt (2012)のレビューをしました。資料はこちら

読解にしろ聴解にしろ,「読めた」「聞けた」「理解できた」とするためには正答率何%が適切なのか?またそれはどのような基準で決めるのか。というのがすごく難しい問題だよなという印象です。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

Prince (2013) まとめ

こんばんは。誰得ブログ記事の更新です。こちらの論文のまとめ。

Prince, P. (2013). Listening, remembering, writing: Exploring the dictogloss task. Language Teaching Research.

http://ltr.sagepub.com/content/early/2013/07/05/1362168813494123.abstract

フランスの大学のリスニングコースにおいて文法項目の指導ではなくリスニング力の向上を目的としたディクトグロスの活用法を探索的に調査した論文
  • Introduction
フランスの大学での2年間のリスニングコースの担当としてどうやってそのコース設計をしていこうかというところが出発点。最初にとられた2つの策は

(1)multiple choiceやlistening grid(リスニングして表を埋める形式の課題)を採用しないようにしたこと
(2)トップダウン・ボトムアップの両方の処理を含む多様なリスニング課題を用いるようにしたこと
前者の理由としては試験中にカンニング行為てきなものが発生しやすく大人数クラスではそれを監視しづらいということと、選択肢を読んだりそれぞれを比較したりするという行為によって学習者のリスニングのプロセスに影響が出てしまうため。代わりに理解したことを書き取らせるような方法を採用。2点目に関しては、それぞれの処理方法はクリアカットではないもののインプットの処理中は両方を用いて意味理解をするために、トップダウンとボトムアップの処理をさせる課題をさせる必要があると考えたため。
本研究ではとくにディクトグロスという活動が学生のリスニング力に与える影響について扱っている。理論的背景としてはディクトグロスが学習者の口語のL2インプットの知覚的処理を促進するという提案に基づいている(Wilson, 2003)。実践のレベルではリスニング指導は過剰にトップダウン処理をさせるような活動に偏っていたが近年はそうではなく学習者のボトムアップの処理に注目が集まっている(Field, 2008)。ディクトグロスはこの学習者の処理過程の観察に適した活動なのではないか。リスニング指導は、しばしばリスニング力を評価しているだけであってリスニングを指導していないことが多い(筆者注:例えばリスニングさせてcomprehension questionをさせるような場合はリスニングできたかどうかを評価しているにすぎず、学習者のリスニングの処理はみれていないという指摘だと思う)。というわけで、どれだけ聞き取れたかを測定するのではなくもっとリスニングにおいて学習者の理解度をあげるためにはどのような支援が必要なのかということが問題。ディクトグロスをリスニング指導に取り入れる場合にもう一点注意しなくてはいけないのは、リスニングとライティングを同時に行うということによる認知負荷の問題である。
  • ディクトグロスとはなにか
(省略)
  • リスニング理解における記憶
(省略)←ここもwwwwwwww
  • 方法
質的・量的の両データともに2ヶ月間に渡って収集されたが期間は別。対象はフランスの大学で応用外国語?(applied foreign languages)を専攻する2回生。リスニングのクラスの他にも文法や翻訳、音声学、文化なども学んだりする課程らしい。
参加者は量的データ52名、質的データ55名。期間が長かったため欠席や授業をdrop outした学生もおり、12回の授業のうち2回以上欠席していない学生のみ量的データの分析対象となった(n=30;M=11F=19で平均年齢20.2)。英語学習歴は平均で9年間。一応1年次の試験はパスしているがそれでも学生のレベルに差は多少あってCEFRでいうとB1からC1+くらい。
用いられたタスクは3種類でセンテンスレベルに特化したもの。初回の授業でこれはディクテーションではないので必要なときは自分の言葉を使ってよいという説明をいれていてボトムアップとトップダウンという2種類の処理プロセスに関しても”the need for constant interaction between perceived phonological input and the top-down demands of plausibility or meaningfulness”を強調しつつ説明し、コースを通してこのことはリスニングのキーとして指導された。
タスクのタイプ
(1)ひとつの意味ユニットに対して1つのキーワードをメモさせる
意味ユニットごとにポーズを置くように工夫。文は2回読まれるが、書いていいのは1語のみで、2回目に新しく書き加えるのはだめ(ただし書いた1語を書き換えるのはあり)。キーワードを書かせたあとにペアで比較してそれらをもとに全文の再構成をさせる。2、7、11週目に学生の書いた文を回収。オンラインの意味処理中に書かせたということではないので産出された文は比較的長めで平均24.7語(意味ユニットでは4つ)。スコアリングは”intelligible”なユニットの数で行われた。完璧にintelligibleなものは1で部分的にintelligibleなものは0.5、スペリングミスや統語のエラーはカウントされず。
(2)リスニングの回数が一度だけ(書き取りありorなしで)
リスニングの機会が複数回あると、学習者はまず一回目で最初から一語ずつ書いていって二回目で書き取れなかった部分を書き足すというようなストラテジーをとったりするので、学習者がその文の意味自体ではなく語にフォーカスするのを防ぐためにリスニング回数を一度に制限。3,7,11週目に学生の書いた文を回収。平均語数は16.6語。スコアリングは正しく書かれた語と音節の数。元の文と意味的に一致していれば正しい語としてカウントされた。(1)同様スペリングと形態統語エラーはカウントされず
(3)未知語を聞いた時の対応をどうするか(意味を推測して自分の知ってる言葉で置き換えさせるトレーニング)
未知語に遭遇したときの方略としては、(a)スルーする、(b)聞こえたとおりに文字に書き起こしてみる(a phonological strategy)、(c)文の意味から未知語の意味を推測し自分の知っている言葉で置き換える(a semantic strategy)というような方法が考えられるが後者のほうがベターで、学習者にトップダウン処理で意味を補わせるトレーニングをさせることで文の再構成が可能になる。というわけで、この活動では未知語をなるべく知ってる語で置き換えるように指導。3,6,10週目に産出された文を回収。2文の中で、出現頻度の低い語を片方の文では後ろの方に、もう一方の文では前方に配置するように工夫。学生にはこの低出現頻度語の位置は前もって知らせた。文の平均語数は15.2語。スコアリングは低頻出語を置き換えた語のcontextual plausibilityで判断(上記2つのタスクと同様に1、0.5、0のスケールで)。
以上の3つのすべてのタスクで課題文は録音されたものではなくその場で読み上げられた。よってそのスピードは多少差はあるが学期末の試験のスピードに限りなく近い95wpsであった。このスピードは通常のスピーチに比べればかなりゆっくりであり、またかなり明瞭に発話するように注意した。
  • 結果
主に産出された文とタスク後の学生とのディスカッションから。
タスク(1)でのintelligible unitは2週目から11週目で2.7から3.8に上昇。
例えば、
When the engineer tried to borrow some money / to start up his own business / he had to ask some old friends from school / because the banks refused.(スラッシュは意味ユニットの区切りを表す)
という文では1ユニットに1語しか書けないので、わずか4語から全体の文の再構成するということになる。この場合書き取った1語がワーキングメモリーに保存された2番目、3番目の語あるいは学習者自身が保持していた語を思い出すキューになる。上記の文の最初のユニットではengineerと書いた学生が34%、borrowと書いた学生が54%で残りの学生はmoneyと書いていた。スペリングがわからないあるいはその語自体を認識していなかったという理由でengineerを書くことを避けた学生もいた。engineerと書いた学生の方がより文の再構成に成功しており、うち74%の学生は続く動詞のborrowを覚えていて、残りの学生はtried to borrowをneededやwantedに書き換えていた。ここで問題になるのは主語と動詞のどちらを書くほうがいいのかということだが学生の感想では一概にどちらとはいえず、両者の意味と関係性による。またコロケーションも重要な要素であり、例えばborrowと書いてmoneyを思い出すほうがmoneyを書いてborrowを思い出すより簡単だという声も。
結論として、学生は意味ユニットの記憶を強めるための意識的な方略としてチャンキングを認識した。
タスク(2)では書かれた語数は平均で10%、音節数は14%上昇。このタスクは、初めはどのような方略がよいのかという指示は一切なしでやった。文を最後まで聞いてから書き始めた学生のほうがそうでない学生より全体の文の再構成がよくできていた。またそのような学習者は不必要な語を削除していた(たとえばHe said he hopedにおけるsaid heなど)。文の読み上げられるとすぐに書き始めた学生は途中で抜け落ちていた。しかしながらすべての学生が「最後まで聞いてから書く」という方略に肯定的というわけではなく、そうすることによって文の始めの方を覚えることができないという意見もあった。どのくらいのアイテムを保持できるのか、そのアイテムを構成するものはなにかというはなしで、関連性のない2語よりは関連性のある2語の方がセットで記憶しやすい。またitems数が同じの場合は語数が少ないほうが覚えやすい。
タスク(3)では平均のplausibility scoreは文の始めの語で0.56から0.74に、文の終わりの語では0.68から0.84に。ほとんど全ての学生が未知語に遭遇したあとにその後の部分に集中するのが難しいとコメント。というわけで、そういうときでもインプットにしっかりと注意を向けさせるためにこの活動はいい。未知語でも、それが意味的なものだけでなくもっと統語的処理に関わってくることもあった。例えば分詞構文における文頭の過去分詞など。それを主語だと解釈したために文の理解が困難になってしまったケースが多かった。しかし、2文目を聞くことにより文脈が補完されて1文目の理解が促進されたということもあり、単文に集中するのではなくテキスト全体(この場合は2文全体)をしっかり捉えるということの必要性が示唆された。
質的データ。リスニングのコースに関する学生の反応と、リスニングスキル一般に対する学生の態度について自由記述の質問紙調査。ディクトグロスに焦点をあてた質問は
  1. Has the framework adopted in the course (i.e. stressing the interaction between bottom-up and top-down processes) been useful to you; why or why not?
  2. Has the emphasis on chunking been useful to you; why or why not?
一つ目の質問に関しては、このようなボトムアップとかトップダウンとかを意識したことがなかったという学生が多数で、この質問に答えた34名のうち21名が”useful”と答えており、うち15名は特に文脈や全体の意味に注意を払うことが自分が理解できた語から文を解釈することに役立ったという点に言及していた。
他方、この実験で用いられたリスニング方略が役に立たなかったと回答した13名のうち、その主な理由としては学習者自身のリスニングの仕方を変えるにはいたらなかったというものである。また、教わったことは今まで自分がやってきたやり方と同じでそのことには気づいていなかった(そしてそれは有効ではないと思っている)。という意見もあった。このような回答からは、リスニングのフレームワークに関しては意識的な気づきは必要でないのかもしれないともいえる(教えてなくても自然にやっている例もあったということ)。未知語に遭遇した時にトップダウンの知識を用いるという方法をどのような場合にあるいはどのくらいの頻度でやるのかという問題は結構難しくて学習者の確信度に関係があるはず。また聞いた音をもとに語を書くというのは自然な作業ではあるものの、それを修正したくないという気持ち(自分の言葉で置き換えるのではなく音に依存してしまう傾向)が困難度をあげているということもある。”deep sea fishing”を”dipsy fishing”としてしまったという場合には母音の知覚という問題が絡んでいる。
二つ目の質問にたいしての33の回答のうち25名がチャンキングが有効であると回答。数名の学生がチャンキングは有効ではあるが実際に適用するのが難しいと考えていた。チャンキングをうまく使いこなすために重要なのはキーワードの見極め。キーワードがうまく拾えなかったらそこから再構成するのが難しくなってしまう。チャンキングが有効と認識しているにもかかわらず、文が長すぎた場合にはチャンキングでうまく対応できないという学生もいた。この問題はワーキングメモリーのキャパシティと関連しているだろうがより直接的には熟達度と関係している。つまりは熟達度によって「長すぎる」と感じる長さが違ってくる。高熟達度の学習者は無意識的に文を処理可能な長さのチャンクごとに処理しているが低熟達度の学習者はこれができず結果的に音声のみでは理解できず文字を読まないと理解ができないというような具合に。
  • ディスカッション
ワーキングメモリーの容量という問題以外にリスニングにおいて学習者が抱える困難点。
  1. インプットの区切りを間違える(illustratesがin the streetsになってしまうなど)
  2. インプットに対応する語彙を探す際に、L2学習者は出現頻度の高いものを思いつきやすい傾向にある(それがインプットとはかけ離れている可能性)
上記のようなsegmentationとlexical mismatchという2つの問題は、ワーキングメモリーにインプットを記憶する困難さによって悪化する。
実験の結果は語や意味のユニットを書き取ることや未知語の処理に関して学習者の能力が向上したことから好意的に解釈できる。またリスニングのプロセスを処理可能な構成要素ごとに分けることにも学生は前向きで学生の自信も学期がすすむごとに上昇していった。よってディクテーションを用いたリスニング力向上の試みは効果があったと考えられる。
  • Limitations
グループがひとつしかなかったので実験で用いられた教材がカウンターバランスされていなかったという可能性。こういう場合にはスコアリングに最低でも2人は必要だった
学生のワーキングメモリー容量のアセスメントがなかったために、実験の結果みられた変化がワーキングメモリー容量があがったことによるものなのかが不明。でもパフォーマンスの向上を見ているのであってなにが原因であるかということが実験の主旨ではないのでそんなに問題でもない。
一番の問題は与えられたインプットのスピードと内容がauthenticではなかったということ。ディクトグロスによるリスニング力の向上がauthenticなinputの処理の際にも有効であるかどうかということや、この実験で用いられたリスニング方略がどの程度他の状況にも転移するかということをみるのもおもしろいだろう。この実験で行われた用にゆっくりはっきり発話されるということはかなりレアなので学習者のよりauthenticな口語の英語の理解度が必ずしもあがったとは言えない。が、それでもとりあえずこの研究で用いられたディクトグロスを利用したリスニング活動は少なくとも学習者にリスニングの処理を意識的に行わせ、その処理がどのような要素で構成されているかというのを理解させる機会は与えている。
  • 結論
リスニングのコース全体としては、本実験で紹介したディクトグロス以外にもauthenticな教材を用いたリスニング活動も行われた。その前段階として、ディクトグロスを取り入れたリスニングは学習者のよりよりリスニング理解への足がかりとなった(以下略

 

というわけで(以下感想)ディクトグロスというのは文法指導の1つのテクニックとして使われる(フォーカス・オン・フォームという言葉が伴うことも)わけですが、それをリスニング力向上のために取り入れてみましたという実践報告っぽい感じですかね。冒頭の方でディクトグロスはボトムアップうんぬんみたいなことが書いてあったんですが結局やらせていることってトップダウンでキーワード類推とか未知語類推みたいなことだったんじゃないかなという気がしないでもないんですが。オンライン処理中に未知語に遭遇した時に既知の語にどうやってアクセスしてんだろうとかリスニング中に文脈から未知語類推するのがどれだけ簡単or困難なんだろうとかそういうことが気になったんですが。語彙のサイズによるんじゃなないかと思うんですけどね。リスニングっていうのはあまり専門じゃないのであれなんですがまあ先生もトップダウンとボトムダウンてのがあってだなごにょごにょとか言うよりは(それもそれで効果あるとは思うけれどそんなこと言われてもへー。で終わるケースの方が多い気がする)、こうやって実際にいくつかのディクトグロスベースのリスニング活動させて自分がどうやってインプット処理しているのかっていうのを意識的に体験させるのはいいかもしれませんね。これは特に統計検定かけてるわけでもないので結果の一般化はできないわけですが研究の可能性としてこういうのどうかなっていうアイデアとしてはいいんじゃないでしょうか。

 

そんなところですかね。

 

なにをゆう たむらゆう

 

おしまい。

“Point to Point”

どうも。前回のSato (2010)の続きです。前半2つがその2010の論文へのレスポンス、その次がそれらのコメントに対する再反論になってます。その後に一応一連の論文を読んでのコメントを書きます。

 

Sybing, R., Urick, S. T., & Sato, R. (2011). Point to Point: Responses to ‘Reconsidering the Effectiveness and Suitability of PPP and TBLT in the Japanese Classroom’. JALT Journal33(1), 67-76.

 

Sybing, R. (2011) A Response to Criticism of TBLT in Japan’s Language Classrooms

  • PPPモデルのメリットに関しては認める。例えばある程度自由度を制限した状況を与えることで不安を軽減する可能性など。また大学入試や資格試験が重要視される日本という環境でのでは適しているかもしれない。
  • 問題は、SatoがTBLTの反対として直接PPPをおいたこと。つまりPPPとTBLTの二分法という考え方はよくない。そのような分け方は理論面実践面双方でなされていない。そしてそれはSatoのアプローチが新しいということを意味するのだが、それは必ずしも理論的であるとはいえない。
  • PPPは望ましい結果を達成するために修正が必要であると容認しながらも、TBLTは日本というEFL環境には適応されえない融通性のない教授法であると批判しているというのがSatoのロジックの誤りである。
“…his argument affords no simmilar concession to TBLT, which, he implies, forbids at all costs both the treatment of grammar strctures and comunication in the native language” (p.68).

 

  • (TBLTを日本に適用する際の問題点として語られている)L1使用の件に関しては例えばL1の使用を認めるTBLTの実践もある(Carless, 2007;Swain, 2000)。
  • どんな教授法でもその最も純粋な形で語学教室で実践的に実現可能であるという考えが甘い。
  • 実践とは、教授法に関して臨機応変であることと、状況に合わせてあらゆるアプローチを教室での使用に落とし込むということを教育者たちに要求している。
  • まずは日本における言語教育のゴールを決めるべきであって、今の状況に合っているかどうかではなく、なんのために言語教育をするのかという観点を考える必要がある。口頭によるコミュニケーションレベルを挙げるということであれば、コミュニケーション能力をあげるための教授法をどうやって適応させるかを考えなくてはいけない。

 

Urick (2011) On Methodology in Japanese Secondary English Classrooms

 

  • Satoが取り上げた第二言語習得のモデルはその分野で主流ではない。
  • 宣言的あるいは明示的知識は必ずしも言語習得の出発点ではないし、SATを提唱したAnderson自身もその考えを軟化させている。
  • 現在は暗示的学習と暗示的知識が、ほとんどのSLA理論に組み込まれてきている
  • 教育目標の問題について触れているが、どの目標が適切であるかについての明確な青写真を提示することに失敗している。
  • 文科省や中等教育教育者たちがまず英語教育界の目標と目的について広く議論をし、共通の認識を共有することが必要。その上で教授法の問題が話し合われるべきではないのか。

 

Sato, R. (2011). A Reply to Responses to “Reconsidering the Effectiveness and Suitability of PPP and TBLT in the Japanese Classoom”

主張したいのはとにかくPPP修正版推しだということ。

タスクの定義の曖昧性

Matsumura(2009);タスクのコア概念は、意味重視。言語的なものではなくコミュニケーションの結果としての産物があること。実際の世界で用いられるものに似た言語プロセス・認知プロセスを含んだ活動であること

Ellis(2003);focusedタスクは学習者によるある特定の言語表現の使用を引き出すことが目的であるが、それでも一番の焦点は意味にあるべきである。

 

このように定義が複数あるので、どの考えも1人のTBLTの著者に帰することはできない。しかしながら、明示的なform-focusedの指導や集中的なform-focusedの練習はTBLTでは必須であるとは考えられておらず、しばしば退けらていることは明らかである(Ellis, 2003;Nunan, 1989;Skehan, 1996)。

 

明示的知識の重要性

 

  •  TBLTでは軽視されている明示的知識だが、構造に関するそのような知識やイミテーション・繰り返し・パタプラ・ドリル・暗記、つまりpracticeはインプットの不足しているEFL環境では実際不可欠である。
  • ターゲット構造の原理やルールを(明示的にL1で、あるいは暗示的にL2で)の文法指導を与えることによって学習し、それに続く大量の意識的な練習なしに日本の中高生(例えばACTFLでlow levelとされるような)は、コミュニケーションのために英語を使うであろうとは思わない。

 

TBLTの限界

Miyamoto (2009);タスク型シラバスで、高校生に体系的に文法をおしえることは難しい。EFLだしモチベもあれだし。

Miyasako(2010);暗示的学習により過ぎてて日本では機能しない。

Muranoi(2006);修正版PPP(PCPP)の提案。content-orientedアプローチが日本人英語学習者のコミュニケーション能力の発達に効果的。

しかしながら、productionの段階ではオープンあるはクローズドのタスクの使用もありうる。のちに学習者が構造についての暗示的知識を使えることができるようになったあたりまでオープンな産出活動を遅らせたり繰り返したりすることもできる。

 

明示的知識と暗示的知識


  • 確かに自動化のプロセスにおいて宣言的あるいは明示的知識を経ずに手続き的知識が得られる場合もあるだろうが、これは、教師がそのような明示的・宣言的知識を育成する方法で教えることができない、すべきではないということにはならない。
  • 大量のインプットを与えることによって、教師は学習者が暗示的知識を発達させることができるような状況をつくるように努力すべき。このあたりについては詳述すべきだった。しかしながら、暗示的知識や暗示的学習が日本の中等教育レベルの学習者たちへの指導法として取り入れられうるという考えについては疑問。
  • TBLTの一番の欠点は明示的意識的学習を代償として暗示的知識を強調する点。

 

日本におけるTBLTの実践

  • 文法の正確さと同様にコミュニケーション能力も伸びたという研究はある(Fukumoto, 2010;Matsumoto, 2010;Naito, 2009;Okumura, 2009;S. Sato, 2010)。
  • しかしながらほとんどのケースで事前に目標構造が指定されており指導(明示的・暗示的)そのあとに練習が続く形だった。ほかのケースでは、TBLTは補助的な形で取り入れられていた。
  • TBLTのスタイルは少なくとも決定的な概念についてはPPPと共通している。

 

有効なTBLT

  1. 目標文法項目の指導がある(明示的・暗示的、演繹的・帰納的になされる)
  2. 形式に焦点をおいた十分な練習がある
  3. アウトプットの機会がある、あるいは補助的に修正版TBLTを用いている
しかしながら、これらが実際にTBLTと呼ばれうるのかどうかは疑問がある。それは先行研究として挙げた例でも同じ。

 

英語教育の目標

オーラルコミュニケーションのレベルをあげるために障害を乗り越えて英語教育改革するべきというのは同意。中高でこのゴールを現実化させるためには、英語教師の英語力の向上と伝統的文法訳読式からの脱却が必要。

 

結論

日本の中高生に英語の言語構造の明示的知識を教え、大量の練習と、習ったことを使う現実的なコミュニケーションの機会が大事であると再度強調したい。

コメント

 

これまずTBLTっていうもの自体がそのTBLTという枠の中で、支持している言語習得理論や仮説の違いで微妙に言ってることが違うからなかなか難しいですよね。で、この論文の出版の時期とかの関係で無理だったのかもしれませんが、ふと疑問に思ったのは先日僕が取り上げたEllis (2009)が引用されてないってところなんですね(このためにあのブログ記事を先にアップしたというのもあります)。詳しくはあちらの記事を参照していただきたいのですが、あれが2009年で、それまでにもTBLTっていろいろ批判はあるわけですけども、それに丁寧にEllis先生が反論なさってるんですよね。そこでは文法シラバスに関する話や、TBLTが上級者向けであるということに関しても記述はあるんですよね。まあ確かにEllis先生は割りとTBLTを広く捉えていらっしゃって、focused taskの活用や、明示的知識の重要性を主張していると僕は理解しているので、僕も考え方はそっちよりになっているのかもしれませんが。例えばTBLTは必ずしもoutput basedではなくて、input-basedのTBLTも可能であるということはEllis先生がおっしゃっていて、もちろん限られたリソースを用いて(例えそれがhiddenされた文法を使っていなくても)コミュニケーションを成立させることにも意味はあるし、初学者にはinput中心のTBLTもできますよっておっしゃってます。なのでそのへんの検討が必要であると思いますし、もしも日本での実践例が限られてるとしたらそのへんがこれから研究されなければならないのかなと思います。また、元論文のperspectivesの方で上級者と想定される大学生にタスクやらせてみてダメだった(現在完了を使わせたいのに使わなかった)ってことなんですけどまあタスク自体がダメだったかあるいは実施の際の手順がよくなかった(改善できた)とかそういう可能性はないのかなとかちょっと思ったり。例えばpre-task段階でのplanningとか。まあそもそも文法指導って一度やって「はい今日現在完了ねー。はい練習してーはいじゃあタスクで使わせてー。おーよくできてたー。じゃ次不定詞いこー。」とかじゃなくて、一度やったのをまた繰り返して身につけさせるわけであって、タスクの繰り返しとかも選択肢としてありますしね(どっかにそんなことが書いてあったけど忘れました汗)。それから環境面(テストや入試、学習者のモチベーション、日本人英語教師の英語使用割合の低さ)がTBLTとミスマッチであるという点に関しては、じゃあそれ変えればいいんじゃないって単純に思ってしまいました(もちろんそんな簡単に変わるかボケという批判があるのはわかったうえです)。モチベーションの部分はともかく入試とか、あるいは学校の定期テストは教師側が変えられる可能性は大いにありますよね。入試はちょっとまた違う要素が入ってくるとは思いますけど(弁別力とか)。日本人英語教師の英語使用の問題も、英語でやるようにすればいいんじゃない?って思ったり(いや英語は英語でとは言わないですけどさすがに日本語ばっかりっていうのもちょっとそれはどうかなとは思いますのでね)。

perspectivesに対する2つの反論に関しては、例えば「PPPは望ましい結果を達成するために修正が必要であると容認しながらも、TBLTは日本というEFL環境には適応されえない融通性のない教授法であると批判しているというのがSatoのロジックの誤りである。」なんかは確かにと思いました。ただ英語教育のゴールみたいな話になってくるとまたちょっと話しはずれるのかなとか思ったり。その上の方の話と現場での指導うんぬんはもちろんつながっていますし、誰にとっても他人ごとではないのですが「いやそれは俺に言われても」みたいな。いや、ていうよりどんな問題も最終的にやっぱりそこなんだよなって再再再確認くらいしたともいえますけど。あとは、「宣言的ー手続き的」のACTモデルがPPPと合ってるっていう説には、perspectives読んでるときに、「明示ー暗示」の話はなんで出てこないのかなとは少し思ってましたけどちゃんと指摘されてましたね。2つの立場があるのならなんで一つを選択してその枠組で話を進めていって、なぜもう一方ではないのかっていうのをしっかり組み立ててあるとありがたいなと。紙面の都合とかあって深く踏み込めなかったのかもしれませんけど。

そうそうそれで「明示ー暗示」の話になりますが、今ってそこまで強く明示的知識が習得に役立つという立場が否定されてるんでしょうか?TBLTとかFonFの話になると、あまりにもその暗示的指導や暗示的学習の側面が推されすぎて、もちろんそれがTBLTの肝であることには変わりないとしても、先ほども言及したように「いやいや明示的指導もTBLTの中に組み込めますよ、文法指導には必要ですよ」っていう流れになっているんではないでしょうか。これはもしかしたら僕の個人的思想が入り込んでそうやって解釈してしまっているのかもしれませんけど。

「TBLTとかPPPとかラベルはどうでもいいから目の前の生徒を見ればそこに答えはある」とかサムライの方はおっしゃりそうですけれども、実際CLT(の一つのスタイルとしてのPPP)を発展させたものがTBLTであって、共通の概念があるのは当然なんじゃないでしょうかね。最後の方に、「有効なTBLT」という提案があり、これは果たしてTBLTなのかということになってますが、形式に焦点をおいた十分な練習というところがTBLTの理念にはそぐわないのかなとは思いますね。TBLTの中心は「タスク」であってこれが一番大事なわけですけれど、TBLTに向けた批判がなされる場合ってまず指導法としてのTBLTなのか、シラバスデザインとしてのTBLTなのか、あるいは両方なのか、どっちがどうそぐわなくて、じゃあどうすればいいのかっていう順番で考えていきたいですよね。この観点で整理すると、多分今回のTBLT批判は両方の観点で日本の英語教育には合わないんじゃないんでしょうかってことになるかと思います。

最後の結論部分(2011の方)で明示的知識の指導が大事であるというのがあるんですが、これもその前に文法項目の指導は(明示ー暗示、演繹ー帰納」のいずれでもいけるっておっしゃってまして、そうなんですよね、だから明示的知識を教えるために明示的に教える必要はないわけでしてWatari (2012)でも「学習英文法は明示的指導を前提として論じられることが多いように思いますが、明示的に教えるのか暗示的におしえるのかという選択の余地があります。そしてどちらを選ぼうと、学習者の側で学習は明示的にも暗示的にも生じうることに留意すべきです」(『学習英文法を見直したい』 p. 77)という記述があります(ここを今書いてるペーパーで引用したくて英訳探してたのでした)。そして、「形式に焦点をおいた十分な練習」ということなんですが、これは形式と意味をつなげるための練習ってことですよね?DeKeyser(1998)をSato先生は引用されていらっしゃるので間違いないと思いますが、この形式の練習っていうのがAudiolingualism的なmechanical drillsと誤解されてしまう、そしてこのドリルっていうのがformsとmeaningをつなげるためとかいって実際に学習者の頭の中で起こってるのは”forms-forms”じゃないかよっていうのがDeKeyser (1998)のp.53-54あたりで言われてることですよね。なので問題はこのpracticeの段階なのかなあとは思いますね。ちなみにpoint-to-pointの方では引用文献がポスター発表だったり日本の書籍だったりして見られなくてイラッと(´・ω・`) ショボンでした。

ちなみにTBLTに関しては、僕がまとめたやつで申し訳ないんですがこちらの第38回 全国英語教育学会 愛知研究大会(第1日目) ハッシュタグまとめの最後の方に、Ortega先生の講演中の先生方のつぶやきがありますので参考までにどうぞ。

というわけでなんかいろいろ引っ張っておいて大したコメントも出来ずに申し訳ない気持ちはありつつもこのへんでおしまいにしたいと思います。

では。

アメリカ New Hampshireより。

おしまい。