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CAFが上がったり下がったりしたからなんなの問題

L2研究で、学習者のパフォーマンスを測定するとき、複雑さ(complexity)、正確さ(accuracy)、流暢さ(fluency)のいわゆるCAF(きゃふ)という構成概念に焦点を当てた研究がある(注1)。

それぞれの構成概念を測定するために様々な指標があり、それほんとに測りたいもの測れているのかいな問題はあるのだけれど、それは後輩のNくんに取り組んでもらうとして、ここではタイトルにあるように,「CAFが上がったり下がったりしたからなんなの」問題について考えてみたい。以下,主に研究に悶々するM(特に自分の後輩とか)向けですが,ブログに書くのは先輩面したいわけではなく(してません!),いちいち言うのが面倒なのでこれ読んでおいてっていうためです。

ざっくり言えば,正確さや複雑さが向上するのは形式に注意が向いたときだと言われている。つまり,形式に注意が向いた結果として正確さや複雑さの向上が見られると。言語習得には形式への注意が大事だからFocus on Formが大事だと言われるわけなのだけれど,そういう前提に立つのなら正確さや複雑さが向上した結果としてのCAFの向上見なくても,形式に注意が向いたこと自体を示せばそれは言語使用中にFocus on Formが起こったことをよりダイレクトに示せるわけだから,そういう研究をすれば良いのでないかと思う(注2)。正確さの向上はavoidanceによるものも含まれ得るわけで,パフォーマンス上の変化が必ずしも言語習得上有意味なものであるとは限らない。そういう観点でも,やっぱり「なんでそれがあがる(さがる)のか」からきちんと組み立てないと,研究が蓄積していってもそれが分野の発展に貢献するのかわからない。そもそもone shotで習得が起こる思うこと自体「言語習得ってそんな甘くないよね」って話でもある。明示的な知識を授けてテストするならまだしも(すぐ忘れられるけど),パフォーマンスレベルの変化ってそんな短期的に起こることを期待できるものなのだろうかという。

自分がどういう目的をもってCAFを測定するのかをよく考えないと、「上がった上がった」って喜んだり、「上がらなかった上がらなかった」って残念がったりするだけで終わってしまう。タスクの繰り返し研究でも、プランニングの研究でも、それやったら何がどうなるからその結果としてパフォーマンスのCAFが変化するの?っていうのがイマイチわからない研究がしばしばある。後輩の研究を見ててもいつも思う。もちろん探索的な研究に意味がないとは言わないけれど,それでも探索的なものを積み重ねていった結果としての「その先」や,関連する研究も含めての「ゴール」みたいなものがわからない(あるいはわかりにくい)研究だと,「それで…?」ってなってしまう。

教育的示唆につながることも視野に入れているような研究であればあるほど,なんらかの介入や指導の効果を測定するための成果変数を無条件に最低でも3つ(Lも入れれば4つ)持っていることになる(注3)。そして,とりあえずどこかでユーイな差が見られたら「効果があった」ということになる。CAF全部あがれば万々歳ってことになると思うのだけれども,そんなことはたいてい起こらないわけで。それで例えば「AはあがらないけどCはあがった」ってなったら,「それはなんでなの?」という疑問が浮かぶ。そして,そういう結果が得られたあとにそれを説明すると考えられる要因をあーでもないこーでもないと議論するなら,最初からこの介入や指導でどのような効果が期待できるのかの枠組みをしっかり立ててから検証した方がいいんじゃないのと思う。そうすれば,議論はもっとシンプルになるはず。

CやAやFを個別に取り上げないで3つとも見る必要はどうしてあるのだろう,つまりは,「CAFが上がったり下がったりしたからなんなの」と言うより,「なんでCAF見るの?」問題と言った方がいいのかもしれない。「なんでCAF?」と聞かれたときに(「先行研究でCAF使われてたんで…」とかじゃなく)きちんと説明できないようなら,その研究を進める前にちょっと考えた方がいいと思う。そうじゃないと,それってむやみやたらに成果変数の数を増やして「なんか効果あった」って言いたいだけじゃん!ってなる。「パフォーマンスを見るならCAFなんです」も不十分。そのときには,「なんでパフォーマンス見るの?」って聞かれたらどう答えるかを考えてみてほしい。

僕の中ではタスク研究はもっとタスクの達成(completion)と言語的特徴の関連の方に移っていかないといけないなといけないとずっと思っているし,Pac-SLRFのtask-repetitionのコロキアムでも質問があった「タスクの繰り返しとacquisitionはどう関わるの?」の話についても,second language acquisitionという意味ではやっぱり言語がフォーカスされるわけだけれども,task-based language teaching (TBLT)の枠組みでは言語にフォーカスした評価は(少なくともそれが目標でない限りは)されないことになるので,その辺がジレンマなんだよねとかそういうことを考えている。

というようなことを,

Ellis, R. (2015). Understanding second language acquisition 2nd edition. Oxford University Press.

この本の第11章を読みながら考えた。やっぱりこういう「まとめ」的な本を読むのも大事だなと思う。個々の研究論文を読むのと同時に入門書や概論書も複数読んでいると(特にMとかDのときは),同じ話は何回も出てくるけどそのたびに自分の理解を確かめたりできるし新しいアイデアや疑問が浮かんでくることもある。まぁでも,まだまだ自分の知識はその程度なのだなということでもあるのだけれど。

というわけで,久しぶりのちょっと真面目なブログ更新でした。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

 

 

注1: たまにここに語彙(Lexis)が入ってCALFになることもある。

注2: Fukuta (2016)とかね。

注3: 各構成概念につき指標を2つ以上選択した場合はもっと増えることになる。そう考えると,「ユーイ」な差が出る(出そう)な指標を恣意的に選択して結果を報告する危険性もはらんでいてそれも問題。ほとんどの指標はスピーキングでもライティングでも得られたデータをもとにして指標を算出するので,考えられ得る指標をすべて出して都合の良い結果の得られたもののみで議論するということも有り得ない話ではない。

 

モデルの提示と意味交渉

学生と英語でやりとりをしていて,正しい形をどう示せば良いのか,また,それと同時にどうやって意味のやりとりをすればよいか,悩ましく感じることがある。

学生同士の交流を目的に,相手のことを知るための質問をたくさんするというようなことをやった時のこと。

沈黙しているペアがいたので,割って入った。

例として与えていたインプットの中に、”Do you like coffee?”というのがあった。

それで,以下のようなやりとりになった(Tは私でSは学生)

T: Do you like coffee?

S: No

T: Oh, you don’t like coffee?

S: えっ,You don’t like coffee

私の意図はいわゆるcomprehension checkのようなものだった。それにもかかわらず,学生は私の発話を修正フィードバックだと受け取ったようで,おうむ返しで私の発言をそのまま繰り返した。

私の言い方がなにか誤りを暗示してしまったのかもしれないが,そんな意図はまるでなかったのでこちらがむしろ驚いた。リピートアフターミー病(いま作った)というか,教師の発話は基本的に正しい形を与える役割で,それをそのまま繰り返せば良いという訓練の成果なのだろうか。

確かに,「なんていうかわからん」と聞かれれば正しい形を与えることもしばしばある。もしかすると,教室内で教師と学生が英語で意味のやりとりをしなければ,上の例のようにモデルの提示的な発話と,単なる意味のやりとりを取り違えたりする必要はないのかもしれない。しかし,有意味なやりとりが圧倒的に足りないほとんどの学生にその機会を保障できるほとんど唯一の場所が教室内であるとすれば,できる限り英語で意味のやりとりをしたい。それが私の英語教師としての信念である。

先ほどの続きは

T: No, no. I just repeated what you said. You did not make a mistake. Okey? So, you don’t need to repeat after me.

S: あっ、なに、そういうこと?はいはい

といった感じ。

続けてちょっとしたギャグで”Do you like beer?”と同じ学生に聞いた。

T: Do you like beer?

S: えー!笑 まだ(20歳じゃないから)飲めんし。(隣のクラスメイトに対して)なんて言ったらいいの?No drink?

S2: can’tじゃない?

T: I know, haha. You can’t drink.

S: You can’t drink.

T: No, no. For me(自分を指して), YOU(学生を指差して) are you, but for you, you are I, so you say “I can’t drink”

S: あー,I can’t drink.

この場面では,「なんて言ったらいいのか」という状態の学生に対して、私は意味のやりとりを続けながらcan’tの使い方(can’t drink)を提示した。私から見れば話し相手の学生は二人称なのでYouとなり,”You can’t drink”と発話したわけだ。それを学生は「”You can’t drink”といえば良い」と勘違いしてしまい,そのままリピートアフターミーしてしまったわけだ。

私がここで、”You should say, ‘ I can’t drink'”と言っていたらよかったのかもしれない。それをそのまま繰り返せば良いからだ。しかしこれではいつまで経っても教師の言ったことをそのままなにも考えずに繰り返すことにしかならない。私の発話が単純な意味交渉の機能を持つことはいつまでも学生に伝わらないし,そうでなければ私の発話の意図や意味内容を理解しようとはしないだろう。

彼らにとって,教師の発話する英語の意味を理解して会話しよう(仮に返答が日本語であっても)という経験が圧倒的に足りないのだ。

私の昨年度までの経験では(あくまで経験)、これも慣れの要素が多分にある。英語が苦手な学習者であっても,英語で話しかけられる経験を積めば積むほど,私の発話が意味のやりとりを目的としていることを理解し(というより私の発話内容により注意を向けるようになり),リキャストのようなフィードバックを出してもおうむ返しをしたりはしなくなったと思う。例えば,過去の出来事に対するライティング課題中のやりとりで

S: センセー私この前温泉行ったんですよー(worksheetにはI go to hot springと書いてある)

T: Oh, you WENT to a hot spring? Where?

S: あーyes, yes I went to Gifu

のような感じである(確かこんなやりとりがあったと記憶している)。教師としては涙ちょちょぎれる(死語?)ような美しきアップテイクである。

ただし,先ほどの例と違うのは,この例の学生はそもそも最初から私と意味のやりとりをしようとしている点である。

どうしても机間巡視している最中は,意味交渉とモデルの提示が入り混じることになってしまうので,混乱を招きやすいのかもしれない。しかしだからといって,ブレイクダウンが発生した瞬間に日本語に切り替えるようなことはしたくない。諦めは大事だが、意味交渉とはブレイクダウンが起こった時にこそ発生するものであるし,私の試行錯誤で彼らにとってのcomprehensible inputを提供できるか否かが決まるわけなので,プロとしてその技を常に磨きたい。

さてあと残り12回しかない授業がどうなるか。毎週火曜はネムレナイ
なにをゆう  たむらゆう。

おしまい。

Schulz (2001)の感想

6/6に,名古屋大学にて第14回日英・英語教育学会(JABAET)研究会が開かれることになりました(詳しい内容はこちらから)。

そこで,論文批評というのがあり,私が文法指導のビリーフに関する次の論文の概要報告を担当することとなりました。

Schulz, R. A. (2001) Cultural differences in student and teacher perceptions concerning the role of grammar instruction and corrective feedback: US – Colombia. Modern Language Journal, 85, 244 – 258. doi: 10.1111/0026-7902.00107

私の概要報告のあと,JABAETの会長である安間一雄先生(獨協大学)より論文の批評があります。私に与えられたのは15分のみで,私のコメントは本番で話すことはなさそうなので,ここに論文を読んだ私の感想を書いておきます。

  • 質問紙調査というものを用いた調査としては極めて質が低いと言わざるを得ない。結果的に質問紙の1項目ずつのパーセンテージを恣意的に定めた10%という基準の差がみられたか否かの報告に終始していて,結局なにを測りたかったのが不明のまま。
  •  本来,質問紙によってある構成概念を測定することを試みる場合,それが適切に測定できているかの検証を行う必要がある。Schulz(1996)においてもそのような手順を経て質問紙の開発を行ったという記述が一切ない。また,文化的に異なる2群と,学習者・教師という2群が設定されているが,それぞれの質問紙が同じ構成概念を測定しているのかどうかも定かではない。したがってそのような質問紙を用いて得られた結果を比較することに本当に意味があるのかどうかも疑わしい。
  • 質問紙項目のワーディングにかんしても,”formal study of grammar”と”study of grammar”が指すものは同じなのか違うのか,あるいは”communicative ability”と聞いたときに回答者が思い浮かべるものは同じであるのかが疑問。
  • さらに,タイトルに有るのは”role of grammar instruction”であるのにもかかわらず,質問紙ではinstructionという言葉は使用されていない。教員側の質問では,なぜか”学習者がどう思っているかを教師がどう思うか”というような質問項目があり,これがなぜ”the role of instruction”に関する教師のビリーフを測定しているといえるのかも不明。学習者側からのlearningと,教師側からのteachingが完全に一致することはないとはいえ,教師側の設問文をみると教師の指導観に関する質問であったり学習者の教師観に関する質問であったり,一見してこれらが教師のビリーフを測定しているのかが疑問である。ただし,理論的な背景に基づいて教師の指導観という構成概念の下位尺度として,教員の指導観と学習者が教師や教師の行う指導に対してどのように感じていると思うか,という2つの構成概念を仮定するならば話は別であるが。
  •  誤りの訂正に関しても同様で,recastsのような暗示的訂正から,規則の説明までも含むようなかなり明示的訂正までかなり幅がある上に,スピーキングとライティングというモードの違いでも訂正の出し方,またその訂正のあと学習者になにを要求するかもかなり変わってくる。2001年時点でもCFでこのような区分がされていなかったということはないはず。
  •  「明示的指導」にも様々なバリエーションがあるのと同様に「誤り訂正」にもバリエーションは豊かである(むしろ前者のバリエーションはかなり無視されている感があるが)。これらの指導効果のメタ分析をするにあたっても,調整変数分析で細かく検討されるわけで,「明示的指導」や「誤り訂正」に対するビリーフといった構成概念を測定する場合にも,これらが捨象されてはかなりぼやけたものしかみることができないはずだ。
    こうした「粗さ」がすべてと言っても過言ではない。何度もいうが,結果的になにが明らかになったのかがわからない。この項目ではこっちの差があってこの項目では差がなかったとか言われても質問紙(とも呼べない代物だが)の1項目の1反応(の5段階をさらに3段階に圧縮している)の差(10%だったら差ありで9%だったらなしという恣意的基準に基づく)なんてもので何かを言おうとするな。私自身が「測ること」に対して厳しいところにいるからとかそういう問題ではなく,この質問紙に何も思わないって人がいたら結構ヤバイだろうと思う。
  • この研究の成果を結局どこに還元したいのかが不明瞭。実際に教室で言語を教える実践者に対して,学習者と教師自身のビリーフが異なっているようなことはないか,そこに気をつけるべきであるということなのかと思って読み進めると,最後には教員養成のおいての,というような話も出てくる。教師のビリーフがSLAの文献に基づいているかそれとも自身の学習経験に基づいているか,というアメリカとコロンビアの比較も,そもそも文化的差異というよりかは教員養成プログラムにおいてSLAや応用言語学,外国語教育研究の文献を読んだ経験があるかどうかが大きいはずである。研究の成果はほとんど英語で書かれているわけであるから,教えている言語は違えど,アメリカの教師(英語母語話者)がそのような文献にアクセスして読むことと,英語を外国語または第二言語として学習した教師が英語の文献を読むことを比べれば,明らかに前者の方がハードルが低いはずである。日本に限って言えば和書でSLAや外国語教育研究の概説書もそれなりに出版されているわけだが,英語教員の中で,教員養成の段階で(実際に教壇に立ってからでもいいが)どれほどの人が「研究の成果を参照しながら自分の指導を考える」というような経験をしてきたのだろうか。修士課程を出て教員になったり,または大学院に戻って勉強したという教員ならば,学術書や専門書を手にとることもあるだろうが。
  • 自身の経験に基づいて教えることがなぜダメで(ダメとははっきり言っていないがこういう対比されるとそう読めてしまうのは深読みし過ぎかもしれない),どうしてSLAを参照している方がよいのかという観点も述べられておらず,外国語環境で教える語学教師は自身のビリーフに依っていてアメリカではSLAちゃんと参照しているとか言われても(しかもそれが少人数のインタビューと自分の身の回りにおいての話だけに基づく主張),だからなんなのかとなるしそれが明らかになったところで分野がどうなるのかと思う。常に知識をアップデートし続けるべきなのだというのならばそれはうなずけるわけだが,SLAといっても玉石混交で細かい部分では「ジャスティス大会」がずっと続いており,「どの文献を参照すべきか」は研究者でも難しい問題なのではないだろうか(いわんや教師をば)。

とにかく表が多くて項目ごとにパーセンテージをひたすら比較するだけで読みづらく,何がわかったかもあやふやで,それがどう説明されるということもなく,悶々させられました。10年以上も前だからしょうがないよねって感じでもないしModern Language Journalは昔は今ほどレベル高くなかったというのはこういうことなんだなぁと思ったのでした(遠い目

おしまい。

なにをゆう たむらゆう

 

文法の明示的指導研究について思うこと

明示的指導について前々から思っていたことを書きます。

文法に対する明示的指導の有効性は,文法指導研究における主たる関心のひとつです。明示的知識が自動化されるという立場でも,明示的知識が間接的に暗示的知識の習得に寄与するという立場でも,「明示的知識の習得には意味がある」→「それを促進するであろう明示的指導をやる」という流れにすごく雑にまとめるとなると思いますので,その有効性を主張しようとするのは(とりあえず)ここでは問題にしません。私がずっと疑問に思うのは,その前提の部分です。

研究の対象に,大学生が選ばれるケースは結構あります。これはいろんな研究に当てはまるでしょう。大学生以上のある程度熟達度の高い学習者を見たい,あるいはそうでないと見れないものを見たいという動機のばあいもあるでしょう。それは問題ありません。私が気になるのは「中高6年間の英語教育を受けた大学生でも誤用がある」みたいなケースです。これが,「ある程度熟達度が高くても誤用がみられるのでその原因を理論的に探る」とかいう研究の出発点になるならそれはすごく面白いと思います。このモデルでその原因の説明つくとかそういう研究。そういうことは大いにやるべきだと思います。しかし,その「大学生でも誤用が見られる」という現象に対して「教わったことがないのだ」という解釈をしようとする(あるいはそうだと言い切ってしまう)のはちょっと待ってと思います。その教わったことがないっていうのはどうしてわかるの?という問題です。それが,「参加者がそう言っていた」という程度の証拠に基づいた発言ならば,それを信頼できるデータとして疑うことってないのですか?と聞きたくなるわけです。「教わったことがない」というのは,「学習していない」という意味でしょうが,それは「指導していない」と必ずしも同じことを意味しないのではないでしょうか。「指導は受けたけれど学習しなかった(色々な要因があってまじめに取り組んでいなかった)」ということもあるでしょう。また,「学習はしたけれど,覚えていない(のでできない)」ということもあるでしょう。さらに、明示的な知識が一回の指導介入で長期的に伸びるということは,先行研究で支持されていることでしょうか?

「教わったことがない」という人たちはそういった可能性は考えないのでしょうか。「教わったことがないっぽいから教えました。うまくいきました。明示的指導効果ある!」という主張の研究をみると,じゃあとりあえず1年後に遅延テストやってみましょうかねとか言ってみたくなります。ものすごくマニアックな項目(例えば僕がCELESで発表した「非断定的述語」とか)なら教わってないだろうとか言ってもまあまあ説得力があるかもしれません(だって「英語教育研究者」すらなにそれって感じでしょうから)。

しかし例えば自動詞・他動詞みたいなのは本当に「教わらなかった」のかなとか思ってしまいます。ある個別の文法項目に対する明示的な指導が中学や高校時代にあったかなかったかは調べようがないので,「インプットが少ない」というならまだわからなくはありません。教科書に登場する回数が少ないというようなことがデータによって示されるケースです。それでもこの手の論の運び方の問題は,「そもそも教科書に書いてあるものがどれだけ中高生のインプットになっているのか」ということと,「教科書に書いていないことは教えていないのか」ということです。ある特定の項目に対する介入効果をみようとするとき,それが「規則の明示的説明」という明示的指導を指すことは少なくありません。そこで私はこう問いたいです。それやるならもっと面白い「明示的指導」を考えませんか,と。

研究の結果に対して中立的になるならば,「今回の結果は明示的指導の効果があったというだけであって,明示的指導を推進することはしない」という主張もあるのかもしれません。しかしそうであるとすれば,その研究って誰がハッピーになるのだろうかと。明示的指導の効果を検証する研究のゴールはそういった研究を蓄積していって最終的には項目間の差を明らかにするということだと私は思っています。ということは,最終的には,明示的指導に効果のある項目は明示的指導をしましょうとかなっていくはずですよね。しかしながら,その明示的指導がプリントにただただ規則が書いてあってそれを渡して教員が読むなんてそんな工夫のくの字もないような指導のことだったとしたらー規則が与えられるだけでいいのだとしたらーその辺に売ってる文法書を読んだ人はその文法マスターするはずじゃないのと思うわけです。

また,明示的指導の効果としての明示的知識は長続きしないと言われています。しかしながら,明示的知識にもその後のインプット中の気づきの機会を増やすという役割が主張されることがあります。であるとするならば,そういった明示的知識の役割に焦点をあてた研究のほうが,教育的示唆もあるのではないでしょうか?あるいは,明示的知識が維持されるような継続的な介入法を探るというのも1つの方法かもしれません。

要するに,「授業としての指導介入」という視点をまったくもたないような(もっているのか疑わしいような)文法指導研究は,その結果をどこに還元したいの?という点で非常に疑問が多いということです。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

パフォーマンスとしての授業

昨日,「マイクロティーチング&マイクロリサーチ」という題目のワークショップで,授業者を担当させていただくという機会をいただいた。大雑把な主旨は,

その場で事前事後テストデザインの指導介入を行い,その介入効果を実際にデータ分析して示す

というのを90分でやるというもの。基礎研チームでテストの実施からトリートメント,理論的な背景の説明,分析結果の提示と解釈,考察までをやるというワークショップで,誰がミスってもうまくいかないというものだった。結果として,表面的には成功したように見せることができた。その意味での達成感と充実感はある。ただし,それは表面上の話。このワークショップの詳細は,別の機会にまとまった文章をしかるべきところで書かせていただくとして,自分がやった授業のことを少し振り返っておきたい。

私個人としては,授業は大失敗。そもそも,今まで何百回と授業をやってきて,成功した試しなど一度もないので,授業はそもそもうまくなどいかないものであると思っている。そうではあるにしても,到底納得のいく授業はできなかった。しかし,終わったあとにはお招きいただいた先生にお褒めいただき(お世辞かもしれないが),授業に参加していただいた学生さんからは授業がうまいと声をかけていただくこととなった。僕は失敗したと思ったのにもかかわらずである。まずは,その辺のことを考えてみたい。

私がマイクロティーチングでどのようなことをしたかというと,まず基本は”All English”での授業。日本語は一切使用しなかった。また,文法の明示的説明も一切なし。pre-taskとしてSpot the differenceをやったあと,絵を見せながら学生とインタラクションをしつつ目標構文の暗示的訂正フィードバックを行う。というのが授業の一連の流れ。とにかくハイテンションで,いわゆる「馬鹿」になるということに最初から最後まで徹した。

失敗した点は,次の1点に集約されると考えている。それは,学生に目標言語項目の産出をさせる,学生から目標言語項目を使用した発話を引き出す(elicitation)ということができなかったという点である。

この原因は2点ある。1点目は,学生の背景知識の推定と,教材の選択を誤ったという点である。私は,この間違い探しタスクは,場所を表す前置詞句や,there構文の産出を促すタスクとしてよく用いられていると考えていた。実際に,中学2年次でthere構文が導入される際,この間違い探しタスクを用いるという中学校教員の方は少なくないだろう。ましてや,授業参加者の学生の殆どは英語教育ゼミに所属している学生である。私は,このtask自体の持つ性質と,pre-testにおいてthere構文の項目が多く含まれるということから,task中にthere構文が多く産出されるだろうと予想していた。それを前提に,次の絵描写を含めたインタラクションを行う予定だった。しかしながら,実際にはそのようなことは起こらなかった。教材として選んだ間違い探し自体の問題である可能性もある。その絵がthere構文の産出を促すようなものではなかったということである。そのような教材選択も含めて,このpre-taskは失敗だった。「想定通りにthere構文の産出を引き出せなかった」という点においては。学習者同士が活発に英語でインタラクションをしていた点や,その後に,間違いを多く見つけられたペアに,教室後ろにあったリフレッシュメントのお菓子をポケットから出して渡すということで「ひと笑い」取ったことは教室の雰囲気を良くしたということはあったかもしれない。

原因の2点目は,絵描写とインタラクションにおいて,there構文を引き出すための義務的文脈を作り出せなかったという点である。私は,impressiveというソフトウェアのスポットライト機能を使い,部屋の写真を見せた。その後,停電したという設定で,その部屋にあるものをスポットライトで映しながらそのスポットライトに映るものを描写させるということをした。この設定が,果たしてthere構文の産出を引き出すために適切な設定であったのかどうかは考えなおさなくてはいけないと思っている。さらに重要な事は,インタラクションの際に,どのような質問で学習者の発話を引き出すかという点である。wh疑問文なのか,yes / no疑問文なのか。私は,はじめに,”What do you see?”という疑問文をとっさに使ってしまった。これでは,”I see”….という肯定文か,あるいは,単に”Two pens.”という名詞句しか引き出せない。では,どのような疑問文が適切だったのか。”What are there?”という疑問文が思い浮かぶ方もいるだろう。これなら,”There are….”と答える学習者もいるかもしれない。しかしこれであっても,spontaneousな反応が求められる場面では,”Two pens.”という名詞句だけでも意味的に伝わる上にコミュニケーションのbreakdownが発生しない。さらにいえば,違う場所に同じようなものがあった場合(床と机にCDが置いてある場合)でも,場所の前置詞句を加えるだけでもコミュニケーションができてしまう。日本人は,there構文を習うとやたらとthere構文を連発するというが,there構文が正しく使われる場面とはどのような場面なのか,この構造の機能はなんなのかということを熟考した上で展開を考えるべきであった。そしてそれこそが,授業を準備する際のポイントであると思う。

私はそもそも,この場面にインタラクションを絡めることの必要性というかインタラクションが必須であったかということも考えた。実際,私は絵を見せながらのナラティブでdemonstrationを数回見せるはずが,ほとんどすべてをナラティブで説明してしまいそうになった。そして慌ててインタラクションの必要性を思い出して学生に質問を投げかけたのである。それほどに,ナラティブでの語りでなにも問題が発生しない状況設定であったということである。結果として,私は学生から一度もthere構文の産出を引き出すことができず,終始there構文を私が発話するというinput enhancementに近い指導をせざるを得なかった。学生の発話を私が引き取って,there構文で言い換えて発話するという具合である。この点では,corrective feedbackといえなくもないが,そもそも名詞句のみの発話が間違いではない以上,correctiveであったかどうかは疑わしい。しかし面白いのは,そのfeedbackが学習者の頭のなかにある明示的知識に対してcorrectiveに機能したという点ではある。

そのような「失敗」を犯したにも関わらず,実際には介入効果が認められるという結果になった。それは,学生が「空気を読んでくれた」結果だと思っている。pre-postで結果が図られるということで,「どこに注意するべきか」というように学生が構えていた可能性がある。この点に関する考察もまた別の機会に。

最後にひとつだけ。今回私のことを「授業がうまい」だとか「英語がうまい」とか「すごい」とか思った学生さん(が万が一いるとすればだが)にこれだけは言っておく。私は普段あのような授業はしていない。私は現在専門学校で英語の授業を担当しているが,その授業において,”All English”で,ハイテンションで,「ピエロに徹する」,そんな授業はやったことがない。昨年度,臨時的任用教員として中学校に勤務していたときでさえ,そのような授業はやったことがない。

あれはあくまでワークショップという形式の中の,マイクロティーチングとしてのパフォーマンスの授業である。普段の授業とは全く別物なのだ。初めて会った人たちに,あのような形でやったから,それなりに「面白かった」かもしれないし「うまい」と思ったのかもしれない。しかし考えてほしいことは,本当に教員として授業をやる場合,出張授業などの特別な場合をのぞいては,1回きりの授業などはないということだ。中学校であれば週4時間も授業があるわけで,大学でも毎週1時間で半期15回はある。あの授業を週4回,あるいは半期15回受けたとき,1回目と同じような感想を15回目にも抱いているだろうかということをもう一度考えてみてほしい。たいていはあのような「ノリ」に任せた授業はウケても2度目くらいまでだろう。本当に授業がうまい教員は,言語材料の選択,タスクの選択,授業の組み立て,などなど様々な要素と,生徒・学生との信頼関係などを絶妙に組み合わせていい授業を作り上げる。もちろん,特に中学校であれば「ピエロ」的な要素はとても大事な授業スキルにはなってくるとは思う。ただし,それだけで良い授業は作れないということは肝に命じておくべきだと私は思っている。ワークショップにおいて,草薙さんが話していたこととも重なるが,授業も研究と同じで,あのワークショップで見えたものはほんの10%ほど。ここで少し述べたように準備段階の方がむしろ授業の成否を分けることは多い。今回は特に,そこで失敗したと言っても過言ではない。私の授業力が足りなかった。その一言に尽きる。

以上,長くなったが,昨日からずっともやもやしていたのでここに書いた。静岡では学生さんの卒論発表を聞き,なにか頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。忘れかけていた何かを思い出させてもらえたような気がしている。ありがとうございました。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

Focus on Form

兼ねてから感想を書いた記事が眠っていたんですが、最近いろいろ読んだりしていてちょっとこれは書いておきたいと思ったのと、それからお願いされていて「はい」と返事したのになかなかアップできない罪悪感みたいなのもずっと感じていたので、『学習英文法を見直したい』の第7章の松井先生の論考に関してだけ手短に記事を書きます。間違っているところがあればご指摘ください。

松井先生はこの論考で、フォーカス・オン・フォーム(Focus on Form以下FonF)と、「フィーリング」や「イメージ」という2つの文法指導アプローチに対する提言をされています。僕が言及しておきたいのは前者です。松井先生が引用されている和書の文献は残念ながら現在参照できないのですが、どうやらフォーカス・オン・フォームやあるいはそこに関連した「気づき(noticing)」というものが、少し違ったかたちで理解・共有されているのかなという印象を僕は受けました。そしてそれは日本の英語教育が今までどうやってなされてきたのかという点を反映しているようにも思えます。松井先生は、FonFをFocus on Formsの「アンチ・テーゼ」としていますが、この表現はあまり正確ではないと思います。FonFというのは、僕がここ最近書いた記事でとりあげたTask-based Language Teaching(TBLT)の枠組みにおける一つの”methodological principle” (Doughty & Long, 2003)であり、FonFを達成するためには様々なテクニックがあります。そして、このFonFは、FonFsの直接のアンチ・テーゼというよりは、どちらかというと、意味だけでもだめだし形式だけでもだめなんだよという主張でしょう。つまり、FonFsに則った指導法(例えばAudio lingual methodなど)がまずあり、「形式ではなく意味が大事なんだ!」という批判から生まれたfocus on meaning、そして現在は、「いやいや、意味だけじゃダメで、意味中心のやりとりの最中に言語形式に注意が向くことが大事なんだ!」というFonFという概念が主流であるというのが僕の理解です。また、その文脈で登場するnoticingという概念は、なにも「初学者のうちから、実際の英語運用をする中で、『伝達したい意味』と『自分が表現できる形式』とのギャップに気づかせ、そのギャップを教師からの支援で埋め、自分が表現できる形式を整備していくということになるようです。」(p.90) ということだけではありません。この引用部分は、noticingの中の、noticing the gapという概念のことだと思われますが、もともとSchmidt (1990)で提案されたのは、形式に気づいていないインプットはインテイクにはならないのではないか、言語習得には、形式に気づくことが必須なのではないか、という点であり、その主張は、先ほど述べたように、「意味だけではなく形式も」というかたちでその後の理論や研究に取り入れられていき、また一方では言語習得の認知プロセスに関して、Krashenのいうように、「意識的な学習はacquisitionにはならない」という主張に対する反論として様々な文献で引用されてきているように思います。ですので、「『気づき』を得るには実際に運用することです」と言われても…」(p.90)の部分は、どこでそんなことが言われているのか不思議に思いました。引用されている和書でしょうか?

また、FonFのformが無冠詞であるのは「ここの具体例の集合体としての一般論である無冠詞複数形の”forms”との差異化を図った概念なのだろうと理解しています。しかしながら、そこでの『気づき』や『フィードバックの結果成功したアウトプット』の説明で用いられるのは、結局は冠詞の習得だったり、時制の習得だったり…結局”a form”の話に戻っているのではないか」(p.91)という記述があります。前段は同意ですが、僕はこのFonFという概念がFonFsと対比されているのは、シラバスデザインに関してだと思っています。後者は、structural syllabusと対応しており、structural syllabusとは言語形式をひとつずつ導入し、学習者はそれを少しずつ積み上げていきコミュニケーションに使用するという考えが念頭にあります。しかしながら、指導によって文法を身につけさせる(暗示的知識を習得させる)ことができるのは、学習者がその段階に達した場合のみであり、教師の介入によってその順番を変えることができないという考えがあります。しかし、学習者がどこの段階にいるのかを見極めてその段階を狙って指導をするのは不可能です。よって、無冠詞の単数形であるformにすることで形式という概念を抽象化したものがFonFなのではないでしょうか。この問題に関しては暗示的知識ではなく学習者内シラバスの影響を受けない明示的知識を教えることによってこの問題を回避しようという案もあります(Ellis, 2002b, p.163)。日本では、文法シラバスに則って指導が行われているため、TBLTやFonFといった指導法が想定しているものとはそもそも相容れないという可能性があります。それを最先端の言語習得理論だといって日本に取り入れようとするがために、このような「誤解」が生まれてしまうのかもしれません。「文法を教える」という考え方自体がもともとのTBLTでは否定されています。これをなんとかするために、focused taskの一種であるconsciousness raising task (Fotos, 1994 and Fotos & Ellis, 1991)が提案されていたりします。このような指導法では、明示的文法説明の可能性は排除されていません。第6章で亘理先生も触れていますが、明示的な指導が一切ダメというわけではないということです。読んでいて、フォーカス・オン・フォームや気づきといったことを、明示的指導や文法指導と対比させて、前者を批判しているように思いました。それは正しくもあり間違ってもいるというようなことに関して簡単に書かせていただきました。

追記:Ellis2002bは、アメブロに僕が書いたレビュー記事があるのでそちらをご覧いただければと思います。それから、これに若干関連したペーパー書いてまして提出して返却されたらブログにアップしようと思います。もしかしたらこの記事に加筆するかもしれません。

 

Doughty, C. J., & Long, M. H. (2003). Optimal Psycholinguistic Environments for Distance Foreign Language Learning. Language Learning & Technology, 7(3), 50-80.

Ellis, R. (2002). Methodological Options in Grammar Teaching Materials. In E. Hinkel, S. Fotos (Eds.) , New Perspectives on Grammar Teaching in Second Language Classrooms (pp. 155-179). Mahwah, NJ: Erlbaum

Fotos, S., & Ellis, R. (1991). Communicating about grammar: A task-based approach. TESOL Quarterly, 25, 605-628. doi: 10.2307/3587079

Fotos, S. (1994). Integrating grammar instruction and communicative language use through grammar consciousness-raising tasks. TESOL Quarterly, 28, 323-351. doi: 10.2307/3587436

Schmidt, R. W. (1990). The role of consciousness in second language learning. Applied Linguistics, 11(2), 129-158.