キソケンとはなんだったか

外国語教育メディア学会中部支部外国語教育基礎研究部会(以下,キソケン)の2017年度報告論集が発行されました。

2017年度報告論集

私も一応まだ運営に携わっていますので,まずは報告論集を今年度も無事に発行できたことにホッとしています。この報告論集には,部会長が書く巻頭言が毎号あります(私も2015年度2016年度の報告論集で巻頭言を書きました)。今年度の巻頭言のタイトルは「基礎研の未来」でした。

キソケンに定期的に参加する人数が減っていることや,運営を担える部会員が減っていることなどから,規模の縮小はやむを得ない,という部会長の決断を文章として目の当たりにし,残念な気持ちになりました。ただ,その判断自体は尊重しているので,これからのキソケンのあり方について,現実的なビジョンが今後見えてくるといいなと思っています。

さて,今日はそんなキソケンは私にとってなんだったのかというお話です(長いです)。本題に入る前に,「キソケンってなに?」という方に少しだけキソケンの説明をしたいと思います。知っているよという方は読み飛ばしていただいて構いません。キソケンはもともと院生中心の勉強会だったものを学会の支部所属の研究部会として立ち上げたことが始まりと言われています(始まったときにはいなかったので伝聞です)。研究部会になると,部会の活動費として年間1万円,研究部会で発表することで支部紀要の投稿権が得られるなどのメリットがあります。また何よりも,勉強会は自らの意志で継続的に活動することが難しく,立ち上がっては消え,立ち上がっては消えを繰り返すことにしないためにも,研究部会という名目で活動していたというのも大きな理由だったと聞いています(はじまったとk)。この最後の意味では,キソケンがあることで,外国語教育の基礎的な事を勉強する場ができ,学年や大学を超えたネットワークも広がるなど,規模は小さくとも続けていくことにメリットはあると思っています。

で,私にとってのキソケンは,なんでもできる公園みたいなところでした。(比喩的な意味での)学校のグラウンドはやれ野球やサッカーなどの球技はダメだ,関係者以外は立入禁止だ,など色々な制限があります。でも,キソケンでは野球もできればサッカーもできる。自分たちが来てほしいと思う人たちに来てもらえる。そういう場所だったように感じています。

具体的に言えば,年次例会の基調講演あるいは不定期開催の特別セミナーで話を聞きたい先生をお呼びすることができるというのは,個人ではなかなか難しいことです。研究部会の例会の基調講演という名目があるからこそ,自分たちが話を聞きたい先生方をお呼びして60-90分のお話を聞けるのです。しかも無料で。これには,第2回年次例会以降,リアリーイングリッシュ株式会社様,第5回年次例会ではセンゲージ ラーニング株式会社にもご支援いただいたおかげです。「呼びたい先生を呼べる」ということの裏側で,「大学院生がここまでやるかぁ」というようなお腹の痛いメールのやりとりや懇親会でのやりとりを何度もしたことは事実です。

また,会場の問題もありました。学会目的での使用には使用料が発生する大学も最近では多く,部会費の数倍の会場費が必要となるということもありました。研究費で拠出することもできず,誰かが自腹を切ってまでそんなことやるのか?とも思いますし,かといって会場費がかからないからという理由で日々の業務でお忙しい先生に「会場を使わせていただきたい」というのも忍びないし,会場設営などをお手伝いいただいたりするのも申し訳ない。そんな状況でした。

つまり,「割と背伸びしすぎた」しわ寄せが下の世代にいってしまったのでした。私としては,背伸びしていて足攣りそうだったとも思いますが,それもポジティブにとらえています。院生がこんな経験はなかなかできないし,そういう経験をしたことが今後にも生きてくるだろうというように。いずれは「大学院生だから」というお守りもなくなってしまうわけで,そのときに強く生きていけるだけの力はついたのかなと思います。とはいっても,その負担が開催して得られるメリットよりも大きいと感じられるのなら,あえて負担しなくてもよいことでしょう。その時間で別の生産的なことはいくらでもできるでしょうから。

「なんでもできる場所」ということについては,自分の中にあった問題意識を形にできる場所というのもありました。「自己満足」と言われれば「そうでしたすみませんでした」という他ないのですが,第4回の若手シンポジウム,第5回のキャリアパス座談会は,私がやりたいと思っていたことを形にしたものです。どちらも,早稲田大学の石井雄隆先生に多大なご尽力をいただきました。若手シンポジウムは,自分たち世代(80年代後半生まれ世代)が教育実践を語る場を作りたかったというものです。学会での研究発表は院生時代から盛んにやられていても,自身の教育実践について発表する機会はあまり多くないように思っていたからです。ですが,そういう若手でも授業運営については信念をもって取り組んでいるはずで,そのことを話す機会を作りたかったのです(実は最初は若手論者バトル的なことを考えていましたけど)。はじめから狙っていたわけではありませんが,結果的に若手シンポジウムの登壇者が大修館の『英語教育』でリレー連載をすることになり,「やってよかったな」とホッとしました。キャリアパスについても,企画していた時点では「そういう話は表立ってしづらいし,表立ってできることはあまり役に立たない」みたいな意見をいただくこともありました。実際にやってみて,当日はフロアからやウェブ上でのコメントも活発でした。報告論集に書き起こし原稿を載せてありますので,そちらの反応はこれからかなと。私としては,関係者の皆様にご協力いただいたことに感謝しつつ,それでもやって無意味だったというような評価はしていません。もちろんもっと良く出来たかもしれませんが。

最後に,報告論集についても,「書きたいことを書いて載せられた」という点で自分にとっては良かったです。私は2014年度から2016年度まで,つまり私が博士後期課程に在籍している間は毎年1本を報告論集に投稿していました。キソケンの報告論集は査読なし扱いなので,査読なしだから出しても意味がないというように思う人もいるかもしれません。それはそれで有りだと思います。ただ,私にとってはだからこそ,「書いて残しておきたいもの」ではあるけれども「ジャーナル論文にするような性格のものではないようなもの」を書いて出すのにちょうどよい場所でした(そういうアイデアが当時割とあったとも言えます)。例えば,2014年度には「実験研究の過程と手法のよりよい理解のためにーマイクロリサーチ体験という試みー」と題した論文を出しました。これは,2014年度に静岡で行った学生向けのワークショップについてまとめたものです。マイクロリサーチ体験というのは,事前テスト-処遇-事後テスト-分析-結果-議論といった一連の流れをその場で実演し,研究の進め方についての理解を深めるというものでした。これは,キソケンのメンバーで行ったWSであったので基礎研論集に出したということもありますが,例えばどこかの学会誌に出そうとしたとしてもどの枠で出せばいいのかわかりません。ただ,どうしてもやって終わりではなく文章として形にしておきたかったのです。

2015年度は,「外国語教育研究における二値データの分析ーロジスティック回帰を例にー」というテクニカルレポートを書きました。これは,当時自分で勉強していたことをまとめたかったことと,Rのコードとともに残すことで自分の後輩にも読んでもらいたかったという意図がありました。院生時代にもデータ分析に関する相談を受けることは多く,その際に一般化線形モデルや一般化線形混合モデルを使ったらどうでしょうということがしばしばありました。そのときに,もちろんそれに関する書籍を紹介することもできましたし,グーグル検索すればロジスティック回帰に関する記事はたくさん見つけることができます。ただ,外国語教育研究の例で,Rのコードとともに,ということになるとなかなか例がありませんでした。そこで,「この論文がウェブで無料で公開されていますので読んでください」と言いたかったということです。これも,もちろんmethodological reviewというような形でジャーナルに投稿することもできたかもしれません。私にはその力はなかったというのもありますが,そこにリソースを割くよりも手っ取り早くpublishしたかったというのもあります。

2016年度は査読付き雑誌に2回落ちた論文を横流しする形で出したので,それまでのものとはやや性格は異なります。ただ,これも「教育実践について形になった論文をとにかく出したかった」ということと,同じような研究をやっている方々に読んでもらうためにオープンにウェブで公開したかったということが理由です。実際,自分も関わったプロジェクトに関する論文で引用したりもしました。草薙さんと共著で書いた「外国語教育研究における事後分析の危険性」という論文も,読まれる価値はあるけれども,学会誌等の投稿規定にはそぐわないだろうということがあって基礎研論集に書きました。

さて,長くなってしまいましたが,例会にしろ,論集にしろ,私は自分が運営として携わりながらもこうしたキソケンの活動を自分の研究活動の幅を広げるために大いに有効活用できたと思います。もちろんそこに色々な人達の協力と犠牲があったわけなのですが。キソケンは私にとってはそういう自由な表現ができる場所だったということです。週例会にも「自分を成長させるためにはどんな場所であるべきか」という視点があればいいなと思います(今はないということではないですが)。どんなことでも,義務感にかられてやるのは長続きしないものですし,活動自体も有意義なものにはなりにくいです。とくに学年が上になってくるとどうしても「初学者に教えるDの院生」的なことになりがちです。もちろんそこにもたくさんの学びの機会が転がっていることは間違いないのですが,一歩間違うと「なんでこんなこと教えてやらないといけないのか。なぜこんなことも知らないのか。時間がもったいない」となってしまいます。そうならないためにも,「自分の学びはどこにあるのか」という視点を全員が持って活動していけると,たとえ規模が縮小しても有意義な活動を続けていけるのではないかなと思います。そして,そういうことは院生時代だからこそできる機会だなとも就職した今は思います。

ちょっと説教臭くなってしまいましたが,後輩に向けたエールということでお許しください。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

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ライティングの授業

外国語学部向けのライティングの授業で,授業内の学習とは別に毎週2編のライティング課題を出すことになっています。そのうちの1つではナラティブ・ライティングを書くことにして,掲示板に学生がそれぞれ書き込んでコメントし合うようにしています。最初の1つとか2つはこれまでに扱ったことのあるトピックでよかったのですが,毎週となるとなかなか考えるのもめんどくさい。ということで,ナラティブ・ライティング向けのトピック集がないかなとググったらちょうど良さそうなものがあったのでこちらから選んで毎週書いてもらっています。

500 Prompts for Narrative and Personal Writing – The New York Times

色々なカテゴリはありますし,トピックの選び方によってはある程度頻出しそうな文法項目を狙うこともできそうですが,あまりそういう考え方では選んでいません。文法の話は授業で書いているもののフィードバックとしてしていますし,(a) 英語を書くことに慣れることと,(b) クラスメイトと英語でコミュニケーションすること,(c) 色んな意見に触れる機会を作るということ,の三点をこの課題の主眼にしようと決めたからです。

フォーラムでは匿名にしていて,私だけが全員の名前を見れるようにしています。個人的な話などは名前を明かしてしづらいかもしれませんし,逆に誰が書いたかわからないほうが色々な人とコミュニケーションする環境になるかなと思ったからです。今のところ,匿名性があることによるネガティブな影響は見られていません(教員には見られているので下手なことはできないということもあるかもしれません)。

1つ困っていることは,やっぱり書きっぱなし状態というのはなんだかなあということです。フィードバックしたらその効果があるとは限りませんが,やっぱり読んでいると「ここはちょっとなあ」というのも出てきます。それを見ないふりするのもはばかられますが,かといって授業以外で毎週2編書かせてフィードバックなんてやってたらえらいことになってしまいます(一応簡単なコメントはしますけど)。ちなみに,2編のうちのもう1編はTED TALKの紹介文を書くということにしています。こちらは特にコメントし合うことは義務付けていませんが,そうした方が良かったかなとも思っています。

フォーラム上で書かせると,LMSの特性上個人として書いたものを蓄積し,それを振り返ることが難しくなってしまいます。そこで,フォーラム上で書いたものをcsv形式でダウンロードし,そこからコメントだけ除外してもとのエッセイのみを抽出してWordに差し込み印刷して返すということにしています。そうすれば,10数編の自分の書いたプロダクトが手元に残ることになるので,あとから振り返ることもできます。

というわけで,今まで特定のスキルに特化した授業を持ったことがなかったのと,今まで自分が教えたレベルよりもかなり高いレベルの学生を教えているので,試行錯誤の毎日です。学生に助けられながらなんとかやっています。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

 

所属が変わりました

新年度になりました。4月1日が日曜日でしたので,2日が辞令交付式でしたが,4月1日付で関西大学外国語学部に助教として着任しました。

2月の終わり頃からすでに大阪市内に引っ越しは済ませていましたので,新居も片付けが終わっていて,研究室の引っ越しも終えました。

初日からマンモス私大(と言っていいですよね?)の学生の多さと活気に圧倒されました。私は地方国立出身なので(埼玉は地方かわかりませんけども),自分の学部時代を思い返しながら雰囲気が随分違うなぁと感じました。

木曜から始まる授業も楽しみです。

今後ともよろしくお願いいたします。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

博士後期課程で学んだこと

2014年4月に名古屋大学大学院国際開発研究科博士課程後期課程に入学してから4年,たくさんの先輩の背中を追いかけていたらいつのまにか自分が追いかけられる立場になり,そしてついに博士後期課程を修了しました。

名大に来てからたくさん学んだことがあって,それが今の,そしてこれからのベースになっていくのだろうと思います。そんなたくさんのことから,私自身が学んだことをいくつか書き記しておきたいと思います。自分のために書きますが,今名大に残っている後輩や,これから(名大に限らず)大学院で学ぶ人たちにも何か得るものがあれば良いなと思います。

以下に書くことは,あくまで私が「学んだと思えること」,そしてその中で「その事を学べて良かったと思っていること」です。これが唯一ということでもないですし,色々なやり方や考え方があると思います。

まず1つ目は,議論する事を恐れないということです。当たり前のように思われるかもしれませんが,これが意外と難しかったりするようです。ゼミや授業の中でも,プライベートな飲み会や休憩の中でも,とにかくたくさんのことを議論したことは本当に財産だなと私は思っています。ただ黙って聞いているだけでも,得るものは多い環境だったと思います。ただ,その何倍も自分を成長させてくれたと思うことは,自分が考えたことを口に出す経験を毎日繰り返したことでした。

私は以前,アカデミックな議論ができるようになるにはインプットだけでいいのか,それともアウトプットが必要なのかという記事を書いたことがあります。今思うのは,おそらくアウトプットが必要なのではないかということです。修士の後輩を見ていても,よく発言する人はグンと伸びるなという気がします。

私はブログを始めてかれこれ5年近く経ちますので,自分が考えていることを言葉にして,そして発信するという経験は名大に入る前からある程度は積んでいたつもりです。また,一時期ツイッターにはまっていて1日平均100ツイートくらいしていた時期もありました。その時も,ネット上ではワーワー言っていてツイッター上で議論もたくさんしました。そういう経験もあったからこそ,すんなりと入っていけたというのもあるかもしれません。ただしその経験を抜きにしても,アカデミックな議論をする際にはみんなが平等であり,先輩・後輩だとか,先生と学生だとか,そういう垣根なく自由に活発な議論を行える場があったということは本当に貴重な経験であったと思います。そういう日々の積み重ねがあったからこそ,学会での質疑応答にもそれなりに参加できるようになったのだと思っています。

2つ目は,とにかく研究に没頭するということでした。これも意見は分かれるところかもしれません。あまりに研究ばかりしていて周りが見えなくなったり,あるいはメンタル的に落ち込んでしまって病んでしまうということもあるかもしれないからです。私はメンタルが多少はタフだったのか,毎日毎日1日のほとんどの時間を研究室で過ごすことは苦ではありませんでした。もちろん,時期によっては気分が乗らずに部屋から出ないということもありましたが,そうしたことは数えるほどしかありませんでした。むしろ,周りの先輩たちは毎日研究室にいましたので,それが当たり前だと思っていたということもあります。それに,大学院生でも博士後期課程となれば研究活動は給与の発生しない「仕事」ですから,お給料をもらって働いている方と同じかそれ以上に「勤務」しないのはサボっているのも同じだとも思っていました。

念のためですが,こうしたしばき根性を正当化したいわけではありません。わたしにはそうした環境が合っていたというだけです。また,名大に来る前には中学校で働いていましたから,辛いとか大変だとか色々はありつつも,毎日研究室に来て自分のやりたい研究に没頭できるということを「大変だ」と思ったことはありませんでした。「中学校の激務に比べればなんてことはない」という気持ちでいました。

もちろん,息抜きは適度にしていたと思います。たまに外でキャッチボールしたり,少し足を伸ばして飲みに出かけたりということも院生仲間でやっていました。個人的にはAmazon Primeビデオで映画やドラマをたくさん見たり,DAZNでサッカー中継を見たりもしていました。

話を戻すと,2つ目の研究に没頭するという事と,1つ目の議論する事は,相乗効果を持っているとも思っています。1人で頭の中で考えててもやはり限界があると思うので,その時に自分を次のステージに連れて行ってくれることが多かったのは人に話す機会を持った時だったなと振り返って思います。学会やゼミでのフォーマルな発表に限らず,色々な機会で人と話すことで思考が整理されたり,自分には見えていなかった視点が見つかったりしました。そして,この人と話す機会を増やすということが3つ目です。

人と話す機会を増やすには,学外に積極的に出て行くことも必要になります。同じ環境でいつも一緒にいる人と話をしていると,お互いの考えが似通って来たり,ある話題に対して共通の見解を持ちやすくなることが多いと思います(私はそうでした)。その時に,学会や研究会に行って普段話す機会の少ない人たちと話をすることはすごく刺激になりました。私はあまりソーシャルなタイプではないので,知り合いが全くいない学会では尻込みしてしまうタイプです。そういう方は,小さな勉強会や研究会に行ってみると良いかなと思います。人数が少ない方がコミュニケーションも取りやすいですし,小さな会は週1や月1など,学会の大会よりも頻度が高いので,つながりも構築しやすいです。私はD1の夏くらいから名古屋で行われている研究会に毎月参加するようになりました。そこに参加して毎月輪読と発表をしていたことで,自分の研究のみにのめり込みすぎず,視野を広げていられたと思っています。

最近は休止してしまっていますが,Skype読書会で学んだこともたくさんありました。イントロ系の本でも,何回も読めばその度に違う視点で読むことができましたし,自分の意見を述べたり,要約して説明したりする練習にもなりました。論文の輪読になっても,普段なかなか議論する機会のない先生方と論文を批判的に読む機会は貴重で,勉強になることだらけでした。そのツッコミは考えつかなかったなあということや,そのツッコミに対してこういう切り返しもあるかあなど,いつも頭をフル回転させて考えていました。和気あいあいな雰囲気でしたが,実は毎回緊張しながら参加していました。自分の意見は的外れじゃないかとか考えてしまって。それでも,そうやって自分の考えをまとめたり,意見を述べたりという機会を定期的に持ち,そして多様な考えを持った方々と議論できたことは自分を成長させてくれたなと思います。

1つ目の議論することを恐れないということも,こうした研究会や読書会に定期的に参加していたことと無関係ではないでしょう。読書会や研究会に参加して,「何も言わずに過ごす」ということはないわけで,「とにかく何か自分も発言して,貢献しないといけない」という状況が当たり前だと思うようになりました。ゼミだとそれでも誰も何も言わない環境でしたから,プライベートで議論する機会や研究会や勉強会に出ていなかったら,今のようにアカデミックな議論をする力は身についていなかったかもしれません。

最後は,とにかくたくさんのデータを見て,触って,考える,ということです。これは個人的になんらかの量的データを扱う研究をしているからですが,生のデータを自分の手で(というかRで)分析するという経験をたくさんしたことで,統計の知識だったり考え方だったりが割とスムーズに入ってくるようになったと思います。とにかく手を動かして,わからないところは調べて,「こういうもんなんだ」というところはひとまず「そういうもんだ」と思って先に進み,ということの繰り返しでやっていたかなというのが私の経験から言えることです。

統計の技術的なことについては,解析技術の進歩がものすごく早くなっていることを鑑みて,「身につける必要がない」という人もいます。むしろ,そのベースになる数学や背景にある思想こそを身につけるべきだという意見です。これには一理あると思います。しかしながら,私は100%同意はできません。なぜなら,実際にデータを扱って分析してみるという経験無しには難しいと思うからです。つまり,ふつうの文系(とくくりましたが言語教育系まで狭めた方がいいかもしれません)には数学や思想の理解はボトムアップ的な経験なしでは容易ではないように思います。

生のデータに数多くあたってデータ処理や分析をやるからこそ,数学的なことも付随的についてくるのかなというのが個人的な印象です。私はそうでしたし,数学的なことは強いけど分析技術は全然ないという人を同じ分野で見たことがありません。あと20年したらそういう人も出てくるのかもしれませんが。

というわけで,皆さん色々お考えはおありでしょうが,私が思う院生として大事なことを4つあげました。4年間お世話になりました。今後ともよろしくお願いします。

なにをゆう たむらゆう

おしまい。

人に厳しい人の覚悟

自分ではそういう意識はないのですが,私はしばしば「怖い人」と言われたりします(周りから言われて意識するようになった)。

対外的に愛想の良さが求められる場面ではない限り、基本的に1人で行動するときには「話しかけるな」オーラを出している自覚はあります。ただ,そういうことではなくて「相手を見ずにストレートにモノを言う」ところを「怖い」と形容されるのかなと思っています。

最近は丸くなったと言われますが,数年前くらいならゼミで博論の発表した先輩に「小学生の自由研究やってるんじゃないんですよ」って言ったこともあります(あの時は若かったと反省しています)。しかし私がそういうスタンスで他の人の研究にコメントすることは,私の研究にも同じコメントが向けられることを容認しているという覚悟もあります。上述の「自由研究じゃないんだから」は,研究課題の導出過程に当該分野での課題やその批判的なレビュー,その分野への貢献と言った視点が全くなく,「私はこれが知りたいのでこれやりました」というような内容の発表へのコメントでした。言い方はもっと考えるべきだったと思っていますが,博士論文に値する学術研究としての価値が見出せないという点については今でも間違っていないと思っています。

私の研究も見る人が見たら「自由研究じゃないんだから」と言われるかも知れません。そういうコメントがあればそれなりの対応をしようと思いますし,真摯にコメントを聞き入れて今後に活かそうと思うでしょう。私の研究や発表が可愛いとか大事だとか思っているわけではないからです。批判が生まれることはあっても,研究分野に貢献する何かが提示できればいいと私は思っています。私がそう考えるだけで,こうした考え方は一般的ではないのかもしれませんが。

私が他の人にするコメントは,常に自分の研究にも跳ね返ってくるものだと私は思っているのです。少なくともアカデミックな文脈において,私は個人を攻撃したりはしません(そりゃ居酒屋で愚痴るとかあの人嫌いとか絶対言わないわけではないですけども)。自分は人に厳しくコメントするが,人から厳しいコメントは受けないというのはアンフェアというか,卑怯です。

「田村は相手を選ばずに誰に対しても同じテンションでコメントするよね」というようなことを言われたこともあります(批判的な意味ではないと補足されましたけども)。これは私の個人的な考えですが,学会(やそれに準ずる場所)での発表や論文投稿やその他の媒体での出版は,常に批判的で建設的なコメントをもらえる機会だと思っています。そしてそれが自分の研究のクオリティを上げることにつながると思っていますし,自分の成長にもつながると思っています。だからこそ発表をするし,論文を投稿しようと思うわけです。そういった気持ちでなければ発表してはいけないと言うつもりはないですが,発表者が何を思って発表しているかは私にはわからないので,私が発表者だとしたらコメントしてもらえてよかったと思うだろうというようなコメントをしたいと私は思います。それは簡単なことではないですし,なかなかうまくいった試しがありません。そうではあっても,頭の中で考えているだけでは自分のコメントに意義があるかを確認できないのでコメントします(変なコメントばかりしているかもしれません)。

時には私の発表に対して辛辣なコメントがあるかもしれませんし,その事で不快な思いをすることもあるのかもしれませんが,それが建設的なコメントである限りは,「何か言ってもらえるだけありがたい」と思いたいです。また,おそらくですが自分の発表などが届く範囲が広がれば広がるほど、ほとんど個人攻撃に近い無意味なコメントも増えていくのでしょう。

そうではあっても,私のいうことがすべて肯定され,私の行いがすべて賛同されることがもし仮に,万が一あるとしたら,それは気をつけなければいけない事ではないかと思います。それは,周りから建設的で批判的なコメントをするに値しない人だと思われているかもしれないからです。また,その状況に慣れすぎたり,自らその方向に向かっていけば,ひとたび批判的なコメントに晒された時に,そのコメントに対して過剰に「攻撃された」と感じてしまうかもしれません。もしそうなることがあったとすれば,私はすでに研究者ではなくなっていると思います。

教育に関していうと,ビリーフの部分もかなり大きいですから,自分が信じてやってきたことに対して批判されると,なおさら個人攻撃のように感じられることもあるのかもしれません。もしそうしたことが起こっても,その批判から真摯に学ぶことは忘れないようにしたいです。

そして,歳をとればとるほど自分の信念を批判されることも耐えがたくなってくるのでしょう。そんな時でも,学び続ける姿勢を忘れずに生きていきたいと思います。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

院生こそ出汁を取れ

「お前何様だよ」っていうタイトルをつけてしまったことをお許しください。

先日、下の記事をふと見つけました。

「だし愛好家」が語る、だし生活を始めるべき8つの理由

で,記事を読んで影響されて私も無理せず出汁とる生活みたいなことをしようかなと思ったわけです。始めて2週間くらい経っての感想は,

マジで出汁うまい。

この一言に尽きると思います。This is what I neededって身体が叫んでる感じがします。大学院生って,生活が不規則になりがちで,コンビニ飯や外食が多くなりがちなんですよね。そんな中でも自炊を心がけてはいたのですが、出汁を取るというのは今までやって来ませんでした。実家でも顆粒だしでしたし,そこまでするのは面倒だと思っていたからです。ただ,院生こそ出汁取ってお味噌汁作ってほしいです。身体が喜びます本当に。

出汁の取り方は,高校の時に家庭科で習ったことがあります。家庭科で調理実習がある時には,班の誰かが昼休みに調理室に行って鍋に水張って出汁用昆布を入れておき,始業と同時に鍋に火をかけて昆布出汁を取るところこらスタートしないと怒られるみたいな授業を受けていたからです(今思うと,そういう料理の基本とか,手編みのマフラー作りとか,高校の家庭科でやったことはすごく生きる力になっていると思います。編み物はあれ以来やったことないですが)。

沸騰寸前に昆布を取り出し,鰹節を入れて火を止めてふきんでこして合わせ出汁にする。これがもうめんどくさいわけですよね。ただでさえさっさとご飯作って食べたい時に,この一手間は無理だと。

そこで,記事で紹介されていたように,麦茶ボトルで昆布だしをやってみました。書籍は読んでないのであくまで自分流ですが,百均で1リットル用のプラスチックボトルを買ってきて、そこに出汁用昆布と水を入れて冷蔵庫に入れておくだけ。味噌汁やうどんや煮物を作る時は,水を沸かす代わりにそのボトルからだし汁を入れて使うだけ。これだけでも十分です。

鰹出汁は,これまた百均でコーヒードリッパーとペーパーを買ってきて,コーヒーを淹れる容量で鰹節にお湯をかけるだけ。これだけでも十分。しかも簡単です。

合わせ出汁にするときは沸騰寸前の昆布出汁を鰹節にかければ良いことにしています。サーバーはないので,お鍋の上でドリッパーを持って,お鍋の中のだし汁をおたまですくってはかけて,すくってはかけてみたいなことを数回繰り返して合わせ出汁にしたりしています。

普段のお味噌汁をこのだし汁で作るだけですごく美味しいし,おうどんもこのだし汁に醤油を少し入れて味を調整するだけで良いと思っています。

いや,そりゃあ「ちゃんと」やった方がもっと美味しいのだと思いますが,めんどくささと天秤にかけたら「これでも十分」って私は思っています。なんというか,味が濃くないのに味がしっかりするんですよね。だしの旨味が味わえると言いいますか。

外食とかコンビニ飯とかが続いてなんかお腹は減ってるけど牛丼とかラーメンとか中華とかそういう気分じゃないなあみたいなことありませんか?そういう時こそ,サクッとだし汁沸かして好きな具材に火を通してお味噌汁とご飯と納豆。ご飯を炊くのが面倒なら週に1回たくさん炊いて,小分けして冷凍しときましょう(炊きたてじゃないととか文句言う人は知りません)。納豆は賞味期限切れでも味は落ちるけど全然食べられます(なんの宣伝だ)。これだけで生き返りますから。味噌汁がめんどくさいならうどんでもいいです。乾燥わかめでわかめうどんとか溶き卵入れるとか冷凍した油揚げ入れるとか。そういう手抜きでもいいからお出汁摂取してみてください。

身体の内側からThis is what I neededって声が聞こえてきませんか?きませんか…

私の説得力が足りなかったようです。『だし生活、はじめました』を読んでみましょう。私も読んだことないので読んでみようと思います。Amazonで調べたら,「出汁ポット」なるものもあるようですね(ちょっと高いかなと思いますが)。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

KELESセミナーでいただいたコメント・質問に答えます(後半)

この記事の続きです。途中まで書いていたのに,前半の記事をアップしてから2週間以上が経ってしまいました。この記事で私がいただいた質問・コメントにはすべてお答えしています。


コメント①

大学の授業で中学の教科書のような乗り換え案内の内容をやる一方で,入試や高校の教科書の内容は整合性がないように思えます。

お返事①

コメントありがとうございます。私がセミナーの中でお話した,私の担当する授業に関することの中に,乗換案内の話が出ていましたね(スライドでいうと8ページ目から)。補足しますと,私の非常勤先には英語の入試はありません。それでも「大学生」ですし,「英語」の授業を受けています。「大学生」に「中学の授業のような」課題をやらせるなんて,とお思いかもしれませんが,現実に,それが目標となる「大学生」を私は教えているという現状もあります。もちろん,大学が違えば学生が違いますので,大学が変われば私も「中学教科書のような」課題はやらないと思います。それができないので,まずはそのレベルの課題を,ただの会話パターンを暗記して話すような活動としてではなく,自分の言葉でなんとかやりきる力を身に着けさせたい,というのが,私の教師としての思いです。

質問者の方に満足していただけるかはわかりませんが,私からのコメントは以上です。

コメント②(①と同じ方からです)

生徒の言語リソースが蓄積されずとも現実に進級できる中,どうやって高次の活動を行わせれば良いでしょう?

お返事②

コメントありがとうございます。なぜ蓄積されないのに進級が可能なのか,私には不思議に思えて仕方がないのですが,本当に「ゼロ」(何も学んでいない)ということなら,進級させるのはおかしいと思いますし,「進級できないのでは」という時点で何かしらのサポートが必要になるのではないかと思います。別の可能性として,「本当はゼロではない」のに,ある側面からしか見ていないと「ゼロのように見える」ということもあるかもしれません。この場合は,彼らがどんな英語の力を持っているのか,多角的に評価してあげる必要がありますし,それらを活かしてより高度な課題が遂行できるように手助けしてあげられると良いのではと思います。

コメント③(①と同じ方からです)

やり方次第なのは承知していますが,タスク・ベースの授業を積み重ねれば,授業だけで東大・京大にはいることができるようになりますか。なると思いますか。

お返事③

コメントありがとうございます。どうでしょう。まず,「授業だけで」,つまり学校の授業時間のみの学習と,学校の教員が課す授業外学習のみで,本人の意志による自習や塾・予備校などでの学習を一切行わないで,東大・京大などに入学する人がどれくらいいるのかが気になりますね(そういう学習者ももちろん数としてはいることは間違いないでしょうが)。質問の意図が,そういうことではなく,「入試対策的または入試を意識した授業をそっくりそのままタスク・ベースの授業に変えても,生徒は東大・京大に入れるのか」であるとしたら,私には「できるようになる」とは言えません。わかりませんとしか言えません。

「なると思うか」については,「なるんじゃないか」と思いますが,そのときに,それが「タスク・ベースの指導の効果があったからか」と問われると,それもわかりません。上で述べましたように,今,入試に受かる英語力をつけた学生のその力のどの程度が「授業だけ」や「教師の指導方法だけ」の効果(他の要因を統制したときの影響)によるものなのかわからないからです。もちろん授業の効果は大きいのではないかと思いますが(調べたらそういう研究があるかもしれません),授業のやり方が変わることによって入試の合否が変わるほどの影響があるのかはわかりません。入試が変わらなかったとしたら,「入試対策」的なものが授業の外で何かしらの形で行われるようになるかもしれませんので。歯切れの悪いコメントで申し訳ありません。

コメント④(①と同じ方からです)

正直,現役の高校教員としては時間がなく,工夫工夫と言われても自分は良くても同リョウ[原文ママ]にはまだ求める事ができません。ぜひ教科書,シラバスとしてシステムで提供してください。

お返事④

コメントありがとうございます。「教科書やシステムで」というのはごもっともであると思います。しかしながら,なぜ現時点でそうしたものがないのかについては,いくつか考えられる理由があります。1つ目は,中学校あるいは高校を卒業する時点で身につけておくべき能力についての合意形成ができていないことではないでしょうか。CAN-DOリストは学校ごとに作るようになってい(ると思い)ますし,その中で教科書としてタスク・ベースのものを作るのは困難です。2つ目は,例えなんらかの基準に基づいてタスクを選定し,その配列を決めた教科書やシラバスを作っても,商業ベースで売れない(利益が出ない)ということがあるかと思います。

そこで可能性として考えられるのは,様々なレベルの,様々な種類のタスクが豊富に掲載された教材集を作ることです。その教材集を参考に,先生方自身にタスクを選んで配列してもらうことで,目の前の学習者に合ったタスク・ベースのシラバスを作るということはできるかもしれません。私自身の数少ない経験では,「教科書」があることで逆に教科書に縛られてしまい,タスク・ベースの授業を展開しづらいということになってしまうと感じています。

もう1つの可能性は,単一の授業実践ではなく,シラバスレベルでタスク・ベースの実践を共有していくことです。大学レベルでは,タスク・ベースの実践をされている方は国内でもいらっしゃいますので,そうした方々が,シラバスとして半期または年間でどのように授業を計画しているのかということは,他の先生方がタスク・ベースのシラバスを構築するヒントになるかもしれません。ただ,他の方の実践はそのまま自分の環境に当てはまるわけではありませんので,やはり何かしらの改変は必要になります。結局のところ,タスク・ベースのシラバスとはtailor-madeのシラバスになりますので,どの環境でも同じようにできるタスク・ベースのシラバスというのは難しいのかもしれません。だからこそ,どうしても,今現在先生方がされている実践をベースに「工夫を」ということになってしまいます。この点については,今後の課題とさせていただけませんでしょうか。私からのお返事は以上です。コメントありがとうございました。

コメント⑤

ご自身の普段のエピソードも交えてお話いただき,とてもわかりやすかったです。

2020年以降の入試改革で,中・高の授業はどのように変わっていくと思われますか?または,どう期待されますか?

お返事⑤

これは難しいですね。私としては,スピーキングやライティングも含めた4技能の入試になることでいい意味で波及効果としてスピーキングやライティングも授業の中で扱わないわけにはいかなくなってくるという点では期待しています。しかしながら一方で,そのスピーキングやライティングの扱いが「試験対策」的なものになってしまうことは危惧しています。そうなると,結局ライティングやスピーキングの「型」や「パターン」を覚えてその型どおりにうまく書いたり話したりできることが入試で高得点を取ることにつながってしまうかもしれないからです。これは全部悪いというわけではなく,何もできないよりは型どおりにでも書いたり話したりできる方が良いに決まっています。ただし,行き過ぎると「型通りにしかできない」という学習者を大量に生み出してしまうという可能性もはらんでいます。入試というか,客観的な測定を突き詰めるとどうしても得点の高い学習者のパフォーマンスと得点の低い学習者のパフォーマンスを弁別できるようにせざるを得ず,そうなるとそこに一定の傾向なり,「型」が生まれることになってしまいます。外部試験を運営している方々にはそうしたことに出来る限り配慮したパフォーマンス評価が求められると思いますし,教員側としても「型」の練習になってしまわないような試験対策が求められるのではないでしょうか。

コメント⑥(私に対しての質問かわかりませんが…)

もっとinputを増やしたい!!と思った生徒に対して,特別な宿題を出すなどはされているのでしょうか。

お返事⑥

今期は多読をやろうということで毎週1冊多読用の本を読んで感想を書くという活動をやっていましたが,そういうことではなしに「宿題」を出すことは今のところはありません。もし仮に個別に相談があったら,学習者のレベルに合わせてどんな方法でインプットを増やしたらよいかはアドバイスすると思います。

コメント⑦

I’m sorry your talk wasn’t so interesting to me. Your messages weren’t so inspiring either. Sorry

お返事⑧

率直なご感想をお聞かせいただきありがとうございました。interestingかつinspiringなtalkができるように精進したいと思います。また,このテーマにつきまして,どのような内容であれば,またどのようなメッセージであればinterestingでinspiringだと思っていただけたのか,今後のためにご教示いただければ幸いに存じます。

 


ここまで読んでいただいた方,また,この記事を御覧頂いているかわかりませんが,コメントを書いてくださった方,ありがとうございました。未熟者の私を講演者としてお呼びくださった関西英語教育学会の先生方にも改めて感謝申し上げます。この経験を無駄にしないようこれからも授業・勉強・研究に邁進したいと思います。今後共よろしくお願い申し上げます。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。