Can-DoっていうときCEFRっていうのやめたらみんな幸せにならないかな

原稿を書いててもやもやしていることを整理するためにブログ記事にするコーナー(今作った)。

中学校・高等学校の評価や到達目標の話をするときに,もはやCan-Doの話は避けて通れない。なんで避けて通れないのかと思った方は『今後の英語教育の改善・充実方策について 報告~グローバル化に対応した英語教育改革の五つの提言~』とか『各中・高等学校の外国語教育における『CAN-DOリスト』の形での学習到達目標設定のための手引き』とかを参照のこと。

私自身の結論はそのままタイトルにした。私個人は,学習到達目標がCan-Doの形で示されることについては概ね賛成という立場。とはいっても,この路線で「Can-Doいいよ!」の方向性で書いていて色々調べているうちに,この話はいたるところに地雷がたくさんあって,色んな方向から槍が飛んでくるなということに気づいた。そして,その理由はCan-Doに必ずCEFRがくっついてくるというのが原因なのではないかなと。で,Can-DoのときにCEFRの話しなければ(もっといえばCan-Doって言わなければ),特に批判も受けないのではないのかなという結論に至ったという。

まず,私がなぜCan-Doで目標設定することが良いと思っているのかを述べる。それぞれの理由や細かい点について詳細に書くとそれはもはや原稿をコピペするようなことになるので,詳しいことはそっちで読んで下さい…ということでご了承いただきたい。

理由の1つは評価との兼ね合い。中学校の評価は観点別学習状況評価で,

  • コミュニケーションに対する関心意欲態度(関意態)

  • 外国語表現の能力(表現)

  • 外国語理解の能力(理解)

  • 言語・文化に対する知識・理解(知識)

のいわゆる「4観点」で評価をすることになっている。文法項目をベースに配列した教科書を使って,PPP的な(PPで終わってるかもしれないけどいずれにせよ)文法項目の定着を意図した授業を行い,それに基づいて評価が行われるとすれば,関意態以外の観点の3つの観点に文法項目の「正確さ」を意図した評価がなされる可能性が高い(し実際そういうケースが多いと思う)。ある文法項目を正しく理解したり,正しく使って表現したりすることを求められ,その文法項目についてのメタ言語的な知識も求められる。3単現の記事でも書いたことだが,「正確性ってそんな大事なの」というのが私の考え。言い換えれば,正確性が完全ではないときに「表現」や「理解」の能力がゼロだとみなされたり著しく評価が下がることは本当にあるだろうかというのが疑問。もちろんそういうことも十分に有り得るケースはあるだろうが,全てがそうだと言い切れる根拠はどこにあるのだろう。言語の正確さを排除したCan-Doリストになれば,少なくともこの点に関してはクリアできる。正確さに関わるところは「知識」の観点で評価すればよい。Can-Doは正確さを評価していないということを批判的に捉える意見もあるが,むしろ「言語使用」という観点で評価するのがCan-Doなのだから,正確さが反映されないのは当然のこと。ただし,目標の言語使用場面で正確さが必要となる場合には,正確さを含んだ到達目標を立てても私は問題ないと思っている。*1 それをCan-Doと呼ぶかという話。Can-Doの定義とか成立背景(そこにCEFRが絡む)とかを引き合いに「それはCan-Doではない!!」とか言われるのだったら,「じゃあCan-Doと呼ばなくていいっす」ってことにしたらいいのじゃないのかと思うのだ。

Can-doを肯定的に捉えている2つ目の理由は(というか根本的にはここなのだが)タスク・ベースとの整合性が高いから。授業がコミュニカティブだったりタスク・ベースだったりするなら,評価も行動志向的な評価であるべき。「Can-doは単に行動志向的であるだけではない」という批判がくるなら,「じゃあCan-Doと呼ばなくていいっす」(アゲイン)となる。

Can-Doが批判される時,それはCEFRから持ってきていることを主張することが原因なことが多いように思う。CEFRはもともとヨーロッパの複言語主義が背景にあり,さらには単に教師の評価という視点だけではなく,学習者にとっても自分で自分の言語熟達度を教師と同じ基準で評価できるように作ったということがある(ざっくりいえば)。だからこそ,Can-Doで評価ということになると,それは学習者の視点が欠けているとか,CEFRが曲解されて輸入されている(「CEFR-J…だと…?」みたいなのとか)という批判にさらされることになってしまう。わざわざCEFRとか持ち出さなくても,行動志向的な評価をすること自体にメリットがあるのだから,評価(の控えめにいって少なくとも一部)は行動志向でパフォーマンスベースでいきましょうってことで丸く収まらないのかな?と考えてしまう。もちろん,それですべてが解決して,それこそがベストだなどというつもりは毛頭ない。教育に(というかこの世のあらゆる事象に)「ベストアンサー」なんてあるわけがない。今よりベターにするのはどうすればよいかという視点で考えたら,そこまで決定的に行動志向的な評価それ自体が批判されることはないように思う。もしあれば,それはとても有益な議論で是非とも私の論考にも取り入れたい視点なのでご指摘いただきたい。

というわけでサイゼリヤでビールを飲みながら書いていたらこの辺で力尽きたのでとりあえずこの記事はここでおしまい。広げた風呂敷は私の原稿で畳みます(逃げ)。

なにをゆう たむらゆう。

おしまい。

 

*1 例えば「授業を欠席したので課題を出してもらいたくて先生にお願いして課題をもらう」というのが目標だったとき,”I don’t class yesterday. Sorry.Please homework.”といった学習者をどう評価するかという問題。

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